何の変哲もない日常だった。朝起きて学校に行って塾に行って帰って寝て。明日も明後日も明明後日も、こんな日が続く。そう思っていた。だけど俺の平和な日常は脆くも崩れ去る。
「うぎゃあああ!」
どこからかそんな声が聞こえてきた。ん?今上から聞こえてきた?……まさかな。恐る恐る見上げると、最初に見えたのは俺の高校の女子用の制服だった。
「は?」
驚いている暇もなかった。みるみる大きくなるそれが女の子だと気づいたのは自分の体が下敷きになってからだった。痛い。そして重い……。
俺の上にいる女の子は身動きしなくて、まさか死んでないよなと最悪の結果が頭をよぎる。自分の体の上で死なれたらトラウマになる。
「あの」
意を決して声をかけてみても女の子は動かない。痛みも忘れてだんだん焦っていく。
「菜月ちゃん!」
そんな俺の耳に男の声が聞こえたと同時。女の子がパッと動いて立ち上がった。
あ、生きてたよかった。安堵して俺も立ち上がる。奇跡的に二人とも無傷だった。
目の前に立つ女の子はキョロキョロと辺りを見渡す。そして今立っている横のビルから眼鏡をかけた太った男が出てきた瞬間、体を強張らせた。
「菜月ちゃん!見つけた!」
「ひっ!」
眼鏡男はズンズンと女の子の前まで歩み寄ってくるとニヤリと笑った。
「急に落ちるからビックリしたよー」
……何?女の子はこの男に追われててこのビルから落ちてちょうどその下に俺が居合わせたとかそういう感じ?
なんてはた迷惑な。痴話喧嘩に巻き込むなっつの。黙って立ち去ろうとしたその時。
「や、やめて……」
そんな小さな声が、聞こえてきて。思わず立ち止まった。
「菜月ちゃん、いい加減付き合おうよ」
男が女の子の肩を抱くと更に強張る女の子。……あーもう、めんどくさいな。
「やめたら」
俺の声に、二人の視線がパッと自分に向くのがわかった。
「だ、誰だよお前ー!」
小太りの眼鏡男は俺に詰め寄ってくる。
「あー、もうそういうのめんどくさい。そういうのいらない」
「はぁ?!」
「とりあえず、やめてって言われてんだからやめたほうがいいと思うけど」
顔近いしいっぱいツバ飛んできてんだよね、すっげー気持ち悪い。俺は持っていたコンビニの袋からお茶とパンを取り出して袋で自分の顔を拭うと、眼鏡男に塗り付けた。
「うっ、うえ、何すんだよ!」
「自分のツバだろ」
コンビニの袋が眼鏡男の顔に貼り付く。ふがふが言ってるのが面白くてプッと笑うと女の子も笑った。
「逃げよ」
俺は不意に彼女の手を握って走り出した。これ以上めんどくさいの勘弁。アイツしつこそうだし。
しばらく走ると小さな公園があったからそこに入った。彼女の手を離すと、彼女はガバッと頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
「いや、別に」
顔上げて、と言うと彼女は顔を上げてウルウルした目で俺を見た。あー、ああいうのが好きそうなタイプだわ。童顔で大人しくて小動物みたいな。俺はあんまり好きじゃないけど。
「なぁ」
「はっ、はい!」
「嫌なら嫌ってもっとハッキリ言ったほうがいいと思う」
「はい……」
めんどくさいんだよね、自分の意思もハッキリ主張できない奴って。こっちが気遣わないといけないし。
「じゃあ、気を付けて」
「あ、あの!」
立ち去ろうとした俺にかかる小さな声。あー、もうまだ何かあんのかよって振り向いて。唇に感じた柔らかい感触に、不覚にも固まった。
「私、藤堂菜月って言います!それじゃ、また!」
真っ赤に頬を染めた彼女はガバッと頭を下げると走って行ってしまった。……何あの、変な女。