『君を守る』

どうして私の言う通りにしないの

殺してやる


 それは小さな小さな独白だった。けれど七瀬さんの心からの訴えに彼女は頷いた。

「憎んでる、でも嫌いになれないの」
「私はやっぱり、一度だけ微笑んでくれたお母さんが好きなの」

 氷のように固まった心を溶かしたのはきっと、その言葉だった。七瀬さんは知らない。彼女の中に渦巻くいろいろな気持ち。それを俺は静かに受け止めた。きっと七瀬さんには知られたくないだろうから。永遠に、俺の中で。

「関くん、結婚式なんだけど……」

 七瀬さんは何でもない風に微笑んだ。俺は七瀬さんの言いたいことが分かって、向き合う。結局七瀬さんの実家とは絶縁のような状況になってしまった。孫の顔は見たい。それもきっと本心だったのだろう。でも、20年以上すれ違っていた心は、すぐには向き合えない。

「私はなくてもいいかなと思う。近い友達にだけ報告してさ、あ、でも関くんのお母さんは……」
「いいよ。七瀬さんがそれでいいなら、俺もいい」

 そんなに切なく笑わせたくなかったんだけどな。七瀬さんはそれでもどこか安心したように料理を再開した。
 プロポーズしてからも特に何かが変わることはなかった。式を挙げるわけでもないし、元々一緒に住んでいるし、会社でわざわざ公にすることもないし。仕事が終わると近くの公園で待ち合わせをしてスーパーで買い物をして一緒に帰る。前と変わらぬ日常。それでも俺はやっぱり、七瀬さんの親を説得できなかった自分をずっと責め続けるだろう。それなら。
 俺は週末、七瀬さんに用事があると言って実家を訪れた。ただ俺の自己満足かもしれない。それでも。七瀬さんに切ない顔をさせる自分が許せないから。
 家にはお母さんがいて、彼女は俺を無表情で迎えた。

「あなたは私に殺されても文句を言えない立場ですよ」
「……」
「結婚前の大事な娘を誑かして、私に歯向かわせて……。あなたのせいで七瀬は幸せな結婚も……」
「僕は、悪いことをしたとは思っていません」

 俺の言葉に彼女はそれでも表情を変えなかった。ただじっくり俺を見て、真意をはかろうとしている。俺は目を逸らさなかった。

「僕は七瀬さんを一生守りたいと思っています。七瀬さんに悲しいことがあっても全部、一緒に抱えてあげたい。僕のそばにいることが七瀬さんの幸せだと心から思わせてみせます」
「口では何とでも言えるわ」

 先に目を逸らしたのは彼女だった。無表情の中に見える、少しの後悔。俺は黙って、寂しそうな背中を見ていた。

「……あの子は、あなたを諦めないと言ったの?」
「……約束をしていました。必ず七瀬さんを迎えに来ると。七瀬さんは俺が彼女を忘れても、思い出さなくても、ずっと待っていると言ってくれました」
「……」
「もう、離しません」

 きっと彼女の言うどれもが本心なのだ。娘の幸せを思う気持ちが大きくなりすぎて結果七瀬さんを異常に束縛して。俺や七瀬さんを信頼したい気持ちも、きっとある。

「……嫌われていると思っていました」
「……」
「どうにもできなかった。あの子が幼い頃から厳しく接して、優しく笑いかけてあげたこともない」
「……」
「でも一度だけ笑いかけたことがある。あの子と一緒に星を見た日。嬉しそうに流れ星を指差すあの子が可愛くて、笑った。あの子はそれを覚えていたのね」
「……」
「あなたを信頼させてください」

 彼女が振り向く。相変わらずの無表情で。けれどもう俺を見定めるような視線ではなかった。

「私が死ぬまでに、あなたのそばならあの子は幸せになれると。それならあなたのことを認めます」

 それは素直ではない不器用な彼女なりの許可だったのだと思う。


「おかえりー。遅かったね。ご飯できてるよ」
「うん、ありがとう」

 家に帰ると、七瀬さんは玄関まで走ってきて俺を迎えてくれる。それが可愛くて抱き寄せると、未だに顔を真っ赤にして身を硬くするからそんなところも可愛い。解放して触れるだけのキスをすると、俺はお母さんから渡された手紙を渡した。

「誰から?」

 その問いには答えずにリビングに入る。棚の上に、まるで神棚に飾るように俺が渡した指輪の箱が飾られていて笑ってしまう。もちろん中身は今七瀬さんが付けてくれているからない。そろそろ結婚指輪も買いに行くか。式はしなくてもドレスくらい着せてあげたいな。親は呼べなくても友達を呼んだパーティーくらいなら……

「関くん……!」

 突然背中に抱き着かれて驚く。お腹に回った手には手紙が握られていた。

「ありがとう。お母さんのこと」

 手紙に何が書いてあるかは知らない。でもこの反応からして悪いことではなかったのだろう。安心して七瀬さんの手を握る。七瀬さんも俺の手を握り返した。
 親子だからこそ素直になれなくて。親子だからこそ迷ってしまう。それでもやっぱり嫌いにはなれない。振り返ると嬉しそうに笑う七瀬さんがいて、心の底から安心する。切なさが滲んでいない笑顔はとても綺麗だった。

「七瀬さん」
「なに?」
「俺が君を、守ってあげる」

 いつかの約束のように言えば、七瀬さんはまた嬉しそうに笑った。
 まだまだ二人が笑い合えるには時間がかかるかも知れないけれど、大丈夫。あの人はとても七瀬さんを大事に思っている。

「早くお母さんに孫の顔見せてあげなきゃね」
「うん……」
「早速子作りしよっか」
「え゛」

 真っ赤になった七瀬さんを抱き上げて、俺の部屋に向かう。

「お、お手柔らかにお願いします……」

 恥ずかしそうに俺の首筋に顔を埋めてしがみつく七瀬さんに愛しさがこみ上げて。俺は七瀬さんの耳元で言った。

「俺がどんだけ七瀬さんを好きか教えてあげる。明日立てなかったらごめんね」

 りんごより真っ赤になった七瀬さんが可愛くて、俺は唇にキスを落とした。ずっとずっと、この腕の中で守る。そう決意して、俺は七瀬さんと一緒に甘い夜に溺れて行った。
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