恋をしている

 カタン、パラ……。紙を捲る音と資料を棚に戻す音だけが埃臭い部屋に響く。でも私の心臓はバクバクと破裂しそうに動いている。
 昨日。唇を離して目の前で関くんがふっと笑う。まだ悲しい?と聞かれたのはきっと、涙が止まらなかったから。違う、安心しただけ。そんな短い言葉も発することができなくて、私は関くんの手を握った。冷たい手。もしかして探してくれていたのだろうか。関くんはまた私を抱き寄せて、頭に顎を乗せた。

「七瀬さん」
「なに……?」
「嫌なことされてたの、気付いてあげられなくてごめん」
「……!」
「俺、ただ嫉妬するばっかで。七瀬さんの気持ち考えようとしなくてごめん」
「関くん……」
「好きだよ」

 関くんにしがみつくみたいに抱きついて泣いた。やっぱり私、初めての彼氏が関くんでよかった。

「い、嫌なことされてたって……」
「うん、だって七瀬さんがあんなミスするわけない。あいつがやったんでしょ」
「……」
「それで何かおかしいなって思って問い詰めた。じゃああの根岸って人のことも言ったから」
「そっか……」

 あの子の気持ちを考えると少しだけ胸が痛む。だって、関くんのことを好きだからやったことなんだし。

「もうやめろって言うから」
「私が話してみてもいい……?」

 関くんがそう言うだけじゃ、辛い気持ちばかり増してしまう気がする。私が話しても苛つくだけかもしれないけど……。私には分かる。関くんを想う気持ちが。関くんははじめ少し顔を顰めたけれど、諦めたようにため息を吐いた。

「七瀬さん意外と頑固だからな」
「えっ」
「その代わり俺も近くにいる。纏まりそうになかったら行くから」
「はい……」

 関くんの手が、頬に触れる。たった二日。なのに、体温が懐かしい。恋しかった。

「一緒にお風呂入ろっか」

 関くんの意地悪も、愛しくて仕方ないんだ。
 そんなこんなで今日、二人になれるように資料室でのお仕事の手伝いを頼んだんだけど……。チラッと横顔を見る。……気まずい。関くんは近くにいると言っていたけど来たのだろうか。ただ今は仕事中だ。関くんには何も言わずに来たけど……。

「辻さん、あのこれって……」
「は、はいいいい!」

 ……しまった。大袈裟に反応してしまった。彼女はキョトンとしていて。……このタイミングしかないか。そう思い、私は口を開いた。

「横谷さん、あのね。データ消したの、横谷さんだよね」

 私と関くんと亜美ちゃんと横谷さんしか知らないパスワード。亜美ちゃんにも関くんにも、そんなことをする理由がない。

「あの、私その時間航佑と一緒にいたんで」
「その時間って、どうしてデータが消えた時間知ってるの?」

 階段で突き飛ばされた時だって。気付けばよかった。亜美ちゃんの同期ということは、横谷さんの同期でもあるということ。彼女には、私に嫌がらせをする理由がある。

「私と関くんのこと、知ってたんだね」

 それまで笑顔を崩さなかった横谷さんの顔が、一気に歪んだ。

「っ、ほんと最悪……!こんな地味女のどこがいいんだろう……」

 ……。まさかこの短い間に同じ暴言を二回も吐かれるとは。口の端を引きつらせていると、横谷さんは胸の前で腕を組んだ。

「私、大学生の頃から航佑のこと好きなんです。それなのに出会ったばかりの地味女に取られるなんて」

 私だって関くんと出会ったの二年前だもん!!そう反論したかったけれど、そんなの今は意味がない。出会った時期も、想っていた時間も、長ければ長いほど濃く、執着に近いものになっていくかもしれない。でも、私だって負けるわけにはいかない。

「ごめん、私も関くんのこと大好きなの」

 だから譲れない。昨日関くんに何を言われたんだろう。少し冷たいところがあるから、結構キツく言われたのかもしれない。そう思うと胸が痛いしもし自分が……と想像するとすごく悲しい。……でも。でも、それでも私は関くんを選ぶ。

「ズルいやり方するのやめよう」
「は?」
「特にデータ消すとかは他の人にも迷惑がかかるし。私に向かうんじゃなくて、その大きな気持ち関くんに向けたほうがいいと思う」
「……」
「こんなやり方してても関くんに嫌われるだけ……」
「分かってる!!」

 突然の大きな声に、思わず体がビクッと跳ねた。横谷さんは私に掴みかかるくらいの勢いで迫ってきて。驚いている内に首に指が回った。ぎゅうっと、空気が通る幅を徐々に狭められていく。痛い。苦しい。そんなに私が憎いのか。まぁ、階段から突き落とそうとするくらいだもんね。そんなことを呑気に考えていたら。

「今自分が何やってるか分かってんの」

 クールな声が聞こえて、指が離れた。一気に空気が流れ込んできて咳き込む。

「ほら、だから俺が話すって言ったじゃん」

 大丈夫?と私の背中をさすりながら関くんが言う。あ、口調がみやちゃんの酔っ払ってる時、つまり説教モードに似てる。これは素直に謝るべきだ。ごめん、と言えば関くんはため息を吐いた。

「もうこれ以上やめなよ。見苦しいしどんどん嫌いになる」

 やっぱり冷たい……。横谷さんの大きな目に涙が溜まっていく。関くんはそれでも続けた。

「部長にあんたがやったこと言ってもいいんだよ?」
「私……、航佑と一緒にいたじゃない!何もしてない!」
「確かに一緒にいた。でもどうせ友達に頼んだんでしょ。監視カメラ見たらすぐ分かる」

 横谷さんが唇を噛む。やっぱり横谷さんだったんだ。そこまでの恨みを向けられたことがないから、少し落ち込む。今まで人と深く関わってこなかったから。部長の言っていた通り、悪意はどこから向けられるか分からない。

「目障りなの」
「……」
「私も高校の時、地味で……。裕之のこと好きだったの、知ってる。私あんたと同じ高校だったから」

 えええ!そうなの?!驚愕の事実に目を見開いている間にも、横谷さんは続けた。裕之とは、根岸くんのことである。根岸くんと従姉妹だった横谷さんは、私の後輩らしい。高校時代、地味なくせに華やかな根岸くんに片想いする私を見てイライラしていた。だから私が根岸くんを好きだったこと知ってるんだ……。
 大学生になって、綺麗になって。関くんに出会って恋をした。でも、社会人になって再会した私は地味なままで、それなのに関くんと……。
 地味なままで……ごめんね……
 この話を聞いている間もとにかく暴言が入るので胸に刺さりまくった。でも、そんなの、私が関くんを諦める理由にはならない。

「ほんとムカつく。努力した私が馬鹿みたい……」

 弱々しく呟いた横谷さんに、関くんがため息を吐く。

「それ、逆恨みって言うんじゃない?」

 うっ、その通りだけどやっぱりキツイ……!

「あんたの気持ちとか根岸って人のことなんかどうでもいい。俺のこと好きなら、まず俺の気持ち考えてよ」
「……っ」
「七瀬さんのどこが好きかって?少なくともあんたみたいに人を馬鹿にしたりしないからかな」

 関くんが怒ってる。それはきっと……私のために。

「聞いてて苛つく。私が嫌だった、私が傷ついた、私が私が私が、そればっか。じゃあ何。今あんたの暴言で七瀬さんが傷ついてないとでも思ってる?」
「せ、関くん、私は……」
「七瀬さんは黙ってて」
「はい……」

 私の心許ない制止も虚しく、関くんは止まらない。関くんの言ってることが正論だから何も言えない……。

「見た目綺麗になったなら性格も矯正しろよ」
「それは言い過ぎ!」
「だから七瀬さんは黙ってて!」
「私だって張本人だから黙ってません!!」

 関くんがようやく止まった。横谷さんは既に泣き始めていて、体を震わせている。優しくするつもりはない。関くんの言っていることは正しいし、私も首絞められたり酷いことされたり。でもきっと、この人だって必死だったんだ。私が今、必死なように。

「私……横谷さんから見ると確かに突然現れて何もしないで関くんと一緒にいるみたいに見えるかもしれないけど……これでも一応、関くんと一緒にいたくて必死なんだ」
「……」
「不安になって逃げたくなることもあるし……、実際逃げちゃったこともあるし……、関くんのおかげなこと、たくさんあるけど……、高校の時とは違う」
「……」
「今私、自分なりに関くんと必死で向き合ってる」

 見ているだけの恋じゃない。不安になったり、喧嘩したり、関くんを疑ってしまったり。そんなことを繰り返しながらも、私は関くんと向き合ってる。関くんと一緒に必死で、恋をしている。

「だから私は何されても関くんと別れないし譲りません」
「……」
「ズルいことなしで正々堂々!分かった?!」

 何言ってんだろう、私。自分でライバル励まして、何してんの?隣で関くんがため息を吐く。だよねー、私も馬鹿だと思うー。でも関くんを想う気持ちは、痛いくらいに分かるから。

「……もういい」
「え」
「馬鹿みたい。こんなに酷いこと言われて好きでいる理由ないし。キープいるし」

 亜美ちゃんが聞いたらブチ切れそうな台詞だな。自分が一番言いそうなくせに……。

「もう好きじゃないあんたのことなんか!」

 横谷さんは関くんにそんな台詞を吐き捨てて資料室を出て行った。
 二人になった部屋。チラッと関くんを見ると、関くんは私を見ていた。

「七瀬さんはほんと、馬鹿だね」
「うっ」
「でも何でだろ、隣にいるとすっげー安心する……」

 関くんは髪をくしゃっと握ってその場に座り込んだ。項垂れるように。……関くんだって言い方はキツいしさっきは本当に怒ってたんだろうけど。優しい人だもんね。出て行く瞬間に横谷さんの目からポロっと溢れた涙に、何も思わない訳ないよね。

「心配かけてごめんね」
「……」
「根岸くんに言ってくれたこと、聞いた。嬉しかったよ」
「……!聞いたの?!」

 関くんが私を見上げて目を丸くする。頷くと、カーッと耳まで赤く染まっていく。え……も、もしかして照れてる?!覗き込むと関くんは更に顔を背けて隠してしまう。でも見えている耳は真っ赤だ。

「照れてるとこ初めて見た……」
「……うるさい」

 ぐっと手を引かれて、関くんの胸に倒れ込んだ。

「関くん」
「……」
「関くんってば」
「……なに」
「好き。関くんを好きになったこと、絶対後悔しないからね。社内恋愛も、頑張る」
「……」
「だからこれからもどうか辻七瀬をよろしくお願いします」

 関くんがふっと笑ったのが分かった。ぎゅうっと抱き締められる。きっとこんなに愛しいと思える人、関くん以外にいない。

「嫌って言っても離さないから」

 目の前の優しい笑顔に私はまたときめいて。きっと関くんと一緒にいると、毎日毎日好きが募っていくんだろうな。仕事中だけど、もう少しだけ。私が思った時、関くんが言った。

「仕事中だけど、もうちょっとだけこうさせて」

 と。私がふふっと笑った理由、関くんは知らなくていい。甘い甘い、私だけの秘密。
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