夜の話

「おはよう」
「うん……はよ」

 次の日の朝、部屋から出てきた関くんは何だかいつもよりテンションが低かった。まぁ、いつも高いわけじゃないんだけど。何か違う。

「朝ごはん食べるでしょ?」
「んー……今日はいらない」

 シャツの手首のところのボタンを閉めながら、関くんは弱々しく笑う。……まさか。私は洗面所に行こうとする関くんを引き止めて、額に触った。

「っ、熱!!」
「ふっ、七瀬さんってたまに男前な声出るよね」
「う、うるさいな。とにかく今日はお休み!」
「大丈夫だよ」
「関くん、体調が悪いのに無理に出勤するのは社会人としてよくないよ」

 そう言うと、関くんは何故か少し嬉しそうに笑って頷いた。
 関くんが部屋に戻ったのを見届けて、私はキッチンに行き氷枕を用意する。そしてお粥の準備をして関くんの部屋に行った。

「関くん、入るよ?」
 はい、と掠れた声で返事があって、そっとドアを開けると関くんはぐったりとベッドに寝転んでいた。やっぱり辛いんだ。ちゃんとスーツからジャージに着替えてはいるもののスーツは床に放置だ。

「お粥作っとくから食べてね。市販だけど薬も置いとくから」
「うん」
「何かあったら連絡して。なるべく早く帰ってくる」
「七瀬さん」
「ん?」
「七瀬さんが看病してくれるの、嬉しい。奥さんみたい」
「……!」

 おおおおおおおおお奥さんん?!?!心臓を射抜かれて仰け反った。関くんはズルい。

「動揺しすぎ」

 そう言って笑う関くんに、私はまたときめく。ベッドに仰向けに寝転んだ関くんが私の手首を掴んで引く。うわっと色気のない声を出して倒れ込んだのは熱い関くんの体の上。慌てて起き上がると、関くんのトロンとした目がすぐそこにあって。うっ、関くん風邪引いてるのにドキドキしちゃう……!

「七瀬さん」
「な、なに」
「七瀬さん、すき」

 キス、それは恋人同士が愛を伝えるためにするもの。なんて、ロマンチックな定義を勝手に妄想していた今までの私。そんな夢みたいな乙女心も、関くんは簡単に叶えてくれる。いつもより熱い唇は私の思考を溶かしていく。

「……移しちゃったかも」
「いいよ。だって昨日濡れちゃったから風邪引いたんだろうし。私のせいだ」
「じゃあ七瀬さんも風邪引いて、二人で寝よっか」

 周りの世界を遮断して、二人だけの世界を作るように。関くんは布団を被る。関くんの顔だけは見える、そんな場所で。私は熱い体温を感じながらキスに溺れた。
 ふわふわとした気持ちのまま出勤した私を青ざめさせる出来事が、会社に着いてすぐ起こった。コーヒーカップを洗ったり沸かすお湯をセットしたりしている私のところに、亜美ちゃんがトコトコやってきて言ったのだ。

「センパーイ、昨日の夜関くんといませんでしたぁ?」

 と。周りに誰もいなかったのは不幸中の幸いだ。私は青ざめて冷や汗をかく。でもどうにか誤魔化さなければ、と首を横に振った。

「し、知らない!人違いじゃない?」
「そうですかぁ?昨日駅で見た気がするんですけどぉ。ま、違うならいいです」

 そう言って亜美ちゃんが去って行ったので、はぁぁと安堵のため息を吐く。まさか見られているとは、でもあんなところで抱き合ってたら見られる可能性あるよね。迂闊だった。これからはもう少し周りを警戒しないと。
 とにかく早く仕事を終わらせて帰りたかったのだけれど、こんな日に限って忙しい。いつもより早いペースで仕事を片付けても、残業することになってしまった。横谷さんと亜美ちゃんは先に帰ってしまって、一人慌ただしくPCを打ち書類を片付ける。

「何か今日気合入ってんな」

 部長がからかうように言ってきたのも愛想笑いでかわした。そして19時を過ぎた頃ようやく仕事を終え、私はダッシュで会社を出た。スーパーに寄って風邪の時に食べられそうなものを買う。『今から帰るね』とメールしたら『待ってる』とよく分からない絵文字が付いた返信が来て可愛くて悶えたのは秘密。スーパーからアパートへの道は川の横の遊歩道で、周りに居酒屋なんかもあるから人も多い。荷物を抱えて人の波をすり抜けて、ようやく見えたアパートに私は一人ニヤニヤした。
 エレベーターがなかなか来なかったから階段で上がった。一段飛ばしで階段を登ったのは小学生ぶりだから明日は脚が筋肉痛になるかもしれない。ハァハァと肩で息をしながら三階に着いたところで、私たちの部屋の前に誰かが立っているのが見えた。
 あれは……横谷さん?慌てて姿を隠す。でもやっぱり気になってチラッと見れば、ドアが開いて横谷さんが嬉しそうに笑った。関くんの姿はドアに隠れて見えない。

「航佑、大丈夫?ふふ、顔赤い」
「うん、大丈夫だけど」

 ……会話が完全にカップルである。心臓がバクバクしているのは走ったからか、それとも見たくないものを見ているからか。覗き見はよくない、分かってる、でも、

「お粥作ってあげる。入っていい?」

 気になる、でも、逃げ出したい。横谷さんの嬉しそうな横顔が目に焼き付いて離れない。ぎゅっと目を瞑っても瞼の裏に残像のように残る。さっきから痛くてたまらない胸の辺りの服をぎゅっと握っても当然無意味。深呼吸をした時だった。

「いや、ごめん、ありがたいけど無理」

 関くんの、声が聞こえた。え、と横谷さんの声。関くんはクールな声で続けた。事務的で、冷たい声だった。

「ただの同期で同僚だし。そこまでしてもらう理由ない」
「っ、だって昨日、遅くまで一緒にいてくれたじゃない!」

 ……え。昨日って、え、昨日……。駅で関くんを待っている時の耐え難いほどの孤独感が蘇ってくる。もちろん関くんは私が待ってることを知らなかったわけだし。仕方ない、でも、そっか……横谷さんといたのか……。

「あれは酔っ払って俺の腕離してくれなかったからだよ」
「でも、帰らないでって言ったら帰らないでいてくれた」
「深い意味ない。酔っ払った同期の女の子を介抱しただけ」
「航佑、でも私航佑のこと……!」
「俺しんどいから寝る。悪い」

 パタン、とドアが閉まる音。しばらく立ち尽くしていた横谷さんは、泣きそうな顔でエレベーターに乗って帰って行った。……ああ、何か。いつか関くんが私を好きじゃなくなったらあんな態度になるのかなって、ちょっと複雑。もし好きな人にあんな態度取られたら立ち直れない……。それに、関くんは酔っ払った女の子を一人で帰せるような人じゃない。分かってる、んだけど。あぁ、やっぱり聞かなきゃよかった……。


「ただいまー」
「おかえり」

 ドアを開けると、関くんが笑顔で迎えてくれる。私は上手く笑えなくて目を逸らした。

「寝てなきゃダメじゃない。熱はどう?」
「うーん、あんまり」

 キッチンに食材を置くと同時。後ろから抱きついてきた関くんの体温は高い。嬉しい。幸せ。なのに、胸が痛い。一緒にいたのだって、深い意味ないって関くん自身が言ってた。でも、昨日一人で待ってる時の惨めな気持ちを思い出してしまって、頭の中がパニックになる。難しく考えちゃダメだ。

「七瀬さん、さっき誰かとすれ違った?」
「えっ、う、ううん」
「そう、よかった」

 よかったって、何?
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