「柴崎さん、ごめんここなんだけど……」
『職場以外ではタメ口でいい』そんな風に言った立花主任はどんな神経をしているのだろう。心の底から疑問に思うくらい、仕事中の立花主任は完璧に『他人』を演じた。私だって感情は表に出ないタイプだ、私達が知り合いであったことなど初日に一緒にいた同期以外には絶対に気付かせない。でもふとした瞬間に、例えばこんな風に近くにいて主任の香りがした時なんか、一瞬で八年前に戻ってしまう。やっぱり一度好きになった人、特にその気持ちが届かなかった人は美化されて記憶に残るのだろう。そう思わないと理不尽な気がして悔しい。
「はい、主任の仰る通りで大丈夫だと思います」
そう言うと、主任は表情をほころばせた。
主任に対する部下の評価は上々だ。若いうちに主任になっているのだからきっと仕事もとても出来るのだろう。それに昔から責任感はとても強かったし、部下のミスだって一緒にかぶって一緒に解決策を考えてくれる。……と、竹田さんが言っていた。爽やかだし顔もいい方だと思う。なのに女性社員からあまりモテているように見えないのは、きっとその性格のせいだ。私もずっと思っていた。『お父さん』みたい。
「お父さーん」
「いやいや違うから!」
新入社員歓迎の飲み会は一時間も経てば無礼講の無法地帯になっていた。酔っ払った人が次々立花主任を『お父さん』と呼び、立花主任は一々『違うから!』と返していく。私は少し離れたところで巻き込まれないように見ていた。
「柴崎さん、飲んでる?」
巻き込まれないようにしていたのに一番面倒な人に見つかった気がする。私の隣に座った竹田さんは顔が真っ赤で呂律も回っていない。曖昧に微笑んでトイレに逃げようとしたら、ガシッと手首を掴まれた。
「どこ行くの?あ、立花主任?ダメだよお父さんは」
ちょっと何を言っているか分からない。立花主任のところになんか行くわけないし、ダメって言うのもよく分からない。お手洗いですよ、と言っても手は離れなかった。
「なんかさ、似てる気がするんだよね」
「え?」
「立花主任の家行った時にさー、飾ってあった写真!」
「……」
写真?逃げようと思っていたはずなのに、気になりすぎる言葉に思わず腰を下ろしてしまう。竹田さんは、んーと顎に手を当てて考える素振りをした。
「PCの横にさ、写真があって。弟さんとか妹さんに混じってさ、柴崎さんがいた気がする」
「……」
ありえる。立花主任は弟と妹のことがとても好きだ。その写真に私が紛れ込んでいるなんて簡単に想像できる。それが子どもの頃の写真なら特に……
「一番上の弟さんが就職した時の写真、って言ってたなー。柴崎さん制服着てた」
日向が就職した時、それは立花主任に会わなくなって2年が経った頃だ。日向も地元を離れるからって記念写真を撮ったのを覚えている。まさかそれを彼が持っていたなんて。会っていない間、彼の意識に残ってはいなくても私は彼の目に入っていたのだ。私は必死で頭の中から彼を追い出そうとしていたのに。何だか不思議。近いところにいたのに、すごく遠い気がして。
「なんで?元から知り合い?」
「あ、あの……」
「この綺麗な子誰ですか?ってその時聞いたらさ、ただ寂しそうな顔するだけで絶対教えてくれなかったんだよね」
寂しそうな顔。きっと彼の中で私は幼馴染でしかなくて、離れても私が大人になったって変わらない。そんなこと分かってたのに。……うそ、本当は期待していたのかもしれない。見返すだなんて理由つけて、本当は……
「酔った」
突然竹田さんの反対側の隣にどかっと立花主任が座った。今ちょうど立花主任の話をしていたから何となく気まずいし、今度は竹田さんが立花主任に話を振るかもしれない。何てタイミングなんだとイライラしていると、立花主任が私のグラスをおもむろに取り上げてグイッと飲み干した。
「酒なんて飲んじゃダメでしょ」
「……え」
「お前まだ未成年だろ」
……はい?周りの空気が止まる。それに気付いた立花主任がハッとして急に正座をした。
「ごめ、美晴とごっちゃになって……」
……ふーん、美晴ちゃんとね。今の私は完全に表情が死んで能面みたいな顔をしている自覚がある。昔から美晴ちゃんとごっちゃにされたり妹扱いされるの、本当に嫌だったな。
「あ、あのさ、ほんと、ごめ……」
「気にしないでください。確かに立花主任より妹さんのほうが年近いし」
妹扱いされるとよく不機嫌になっていたから、立花主任は焦っていたけれど。もう関係ない。立花主任が私を妹として見ていようと、もうどうでもいい。
「……唯香ちゃん?」
「名前で呼ばないでください。お水貰ってきますね」
ニコッと微笑んで立ち上がる。機嫌なんてもう、悪くならないよ。でもね、ただ、すごく泣きそう。