特別な感情

「……うん、うん、分かった。仕事終わったら行くから」

 通話終了のボタンを押して、ため息を吐く。今の電話はヤスくんと日向の弟、響からだった。大学生の響はどうやら風邪を引いて熱を出してしまったらしく、看病に来て欲しいと言うのだ。引っ越しを手伝ってもらったし、何より幼馴染だし、行くと約束して電話を切った。今日は早く仕事を終わらせなきゃ。よし、と気合を入れて給湯室を出ようとした時、後ろに立っていた人にようやく気付いて私はハッと息を呑んだ。

「すっ、すみません仕事中に」
「ううん、大丈夫。彼氏?」

 ヤスくんは何でもないと言う風にカップにコーヒーを注ぐ。私に彼氏がいようがいまいが、きっとどうでもいいんだろう。私が答えないでいると、焦ったように顔を上げた。

「ごめん、最近はこういうのもセクハラになるんだよね。ほんとごめ……」
「平気です。電話は響からでした。熱出したらしくて看病してほしいって」
「え……響って、あの響?」
「はい」
「連絡先知ってんの?」

 思わず顔を上げる。けれど、少し寂しそうなヤスくんを見てすぐに俯いた。どうして、何で。腹が立つくらいに心を揺さぶられる。

「失礼します」

 どこからか私を呼ぶ竹田さんの声が聞こえたことを口実に、私はその場から足早に立ち去った。


「柴崎さん、今日この後用事ある?なければ……」
「ごめんなさい、用事があるので失礼します」

 竹田さんのお誘いを軽くかわして会社を出る。響の家へは結構遠くて、電車を乗り継いで行かなければならない。スーパーは駅の近くにあったからとりあえず電車に乗ろうと足早に歩いていたら。

「唯香!」

 後ろから名前を呼ばれて思わず足を止めた。まさか。……まさか、ね。勘違いであってほしいと願いながら振り返る。でも、そこにいたのは息を切らしたヤスくんだった。

「俺も行く。むしろ俺が行く。俺の弟が迷惑かけてごめんな」

 ポンポンと頭を撫でて、ヤスくんが私を追い越す。背中を見るのが嫌で、私は思わずヤスくんのスーツの袖を握った。ヤスくんが少し驚いたように振り返る。

「大、丈夫、です。私が行くので」

 響は私に電話をしてきたのだ。ヤスくんは少し考えるように顎に手を当てた。

「じゃあ、一緒に行こうか」
「……え」
「久しぶりに唯香とゆっくり話したいしな」

 私には話すことなんてない!無理無理!そう言いたいのに何故か口は動いてくれず、ヤスくんも先々行ってしまう。……ああ、何となく背中、見たくないな。そう思っていたら、少し行ったところでヤスくんが振り向く。振り向いてくれるのがこんなに嬉しくて切ないなんて。私は何も言えず、ただヤスくんのところへ向かった。


「あの、一緒に歩いてたりしたら誤解されるんじゃ」
「んー?大丈夫でしょ。幼馴染なんだって言えばいいんだし」

 帰宅ラッシュの時間、人でごった返した電車の中で並んで立つ。気まずくて仕方ない上に、ヤスくんのいる右半身が熱くてたまらない。早く駅に着かないかな。

「なぁ、唯香はさ」
「えっ、はい」
「アイツらとはずっと仲良くしてたの?」

 アイツらが誰を指すのか、分からないほど馬鹿でもない。目を逸らしたまま頷く。

「はい、まあ。昨日も日向がうちに来ました」
「えっ、そうなの。何だよ俺だけ仲間外れかよ」

 寂しそうな顔、見せたのはそういう理由か。四兄弟の長男であるヤスくんは、とても責任感が強い。特に響と美晴ちゃんとは年も離れているせいか、とても可愛がっていた。私もどちらかと言うとヤスくんより響や美晴ちゃんのほうが年が近いので、ヤスくんは私のこともとても可愛がってくれていた。

「会社出たのにまだ敬語だし。おじさん寂しいなぁ?」
「……上司なので。それにおじさんって年でもないでしょ」
「俺もう来年30だよ。唯香や響から見たらおじさんでしょ」

 大人になったら見返すことができる、なんて。私は勘違いをしていた。私が大人になる分、当然ヤスくんも年を取るのだ。少し追い付いて、でもまたすぐに離れる。平行線のまま、私たちは一生近付けない。そんな簡単なことを忘れていたなんて。

「私、年上の人好きですよ」
「……え」
「あ、乗り換えです」

 乗り換えの駅に着いて、電車を降りる。もういちいち揺さぶられたくない。いちいち落ち込みたくない。何でも軽く返せるようじゃないと、心が持たない。


「ゲッ!ヤス兄!」
「ゲッて何だゲッて!唯香に迷惑かけんな」
「口うるさいからヤス兄にはバレたくなかったのに」
「ああ?何なら一緒に住むか?」
「絶対いや!」

 響の家に着くと、二人はギャーギャーと騒いだ。ていうか響元気じゃん。苦笑しながらキッチンに入る。何度も来たことがある響の家で、よくご飯を作るからキッチンも使い慣れている。手際よく野菜たっぷりのお粥を作っていると、いつの間にかキッチンに入ってきたヤスくんが関心したように呟いた。

「唯香も大人になったなぁ」
「……。当たり前です。もう23ですから」
「そっか、23か。最後に会った時はまだ中学生だったもんな」

 ヤスくんの中で、真っ青な顔で逃げ出してそれ以来避けまくった私はどんな風に映っているのだろう。もし私がヤスくんの立場なら、気まずくてもう関われないと思う。ヤスくんが普通に接してくれるのは、ヤスくんが大人だから?

「……唯香」
「はい」
「職場以外ではタメ口でいいよ」
「……無理です」
「名前も前みたいに呼んでくれたらいいし」
「あの、立花主任……」
「前みたいに慕ってくれないとおじさん寂しい」

 寂しそうに微笑んで、私の頭をポンと撫でて。とっても残酷なことを言ってヤスくんはキッチンを出る。……ダメ、もう近付かない。頭の中で警鐘が鳴る。ヤスくんの中で、私はきっと一生「幼馴染」だから。八年前のことだって、きっとどうってことなくて。私一人がときめいたり、落ち込んだり。
 彼は私の「上司」だ。特別な感情なんて、ないんだから。

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