捨てた恋

 大人の女に余裕のなさは禁物だ。
 朝は家を出る2時間前には起き、しっかりと朝ご飯を食べ、化粧はもちろん念入りにする。服を着てからも何度も鏡で見た目をチェックし、余裕を持って家を出る。
 「綺麗」だとか、「大人っぽい」だとか、そんなものは作れる。努力さえすれば。私はその努力を怠らないしいつだって人前にいる時はパーフェクトな自分を演じている。
 親友や幼馴染に「疲れない?」と聞かれる。でも私にとっては叶わない恋や思い通りにならないものの方がエネルギーを使う。努力で全てが自分の思い通りになるならば、その方が断然楽なのだ。

「あ、柴崎さんおはよう」
「おはよう」

 昨日で新入社員の研修が終わり、今日から私は本社勤務になった。同期の男たちににこやかに挨拶をしながらエレベーターに乗る。もちろん緊張はしている。ただ、感情が表に出にくいだけで。

「まさか柴崎さんと同じ部署になれるなんて。よろしくね」
「こちらこそ」

 この人、同期でよく顔は見たけれど名前は覚えてないな。そんな人はたくさんいる。自分で言うのは何だけど、私は同期の間で結構有名だった。
 けれど、直後にこの八年間蓋をし続けてきた心の奥の奥、一番深いところの感情を揺さぶられることになるのだ。

「今年の新入社員は二人?今から朝礼で二人の紹介をするから。俺は主任の立花泰宏……」
「……ゲッ!!!」

 あ、思わず声が出ちゃった。慌てて手で口を押さえる。もちろん彼と同期の男は私を見た。彼は怪訝そうな顔をしている。そりゃそうだろう。突然自分に対して「ゲッ」なんて言われたのだから。
 でも、でもこんなのってない……

「名前は?」

 分からないの?いや、分からないか。最後に会ったのは八年前。私がまだ中学生で、田舎者丸出しだった頃だ。あれから変わったんだもん。この人に振り向いてほしかったからじゃない。ただ、見返したくて。見返すチャンスは今だ。

「……柴崎、唯香です」
「……柴崎……、え、柴崎、唯香?」
「はい」
「え?!唯香?!」
「お久しぶりです」

 ふわりと微笑む。彼……ヤスくんは、私を見て絶句している。そうだろう。綺麗になっただろう。あんな捨て方をして後悔するだろう。心の中でふふんと笑ってやる。
 ヤスくんはほとんど変わっていない。相変わらず真面目そうで、硬そうで、……すごく、優しそう。

「おー、大きくなったな。ビックリした。まさかお前が俺の部下になるなんてな。これからよろしく」

 撃沈。
 普通じゃん。全然普通じゃん。私だけドキドキして馬鹿みたいじゃん。

「……はい、よろしくお願いします」

 でも、あの頃の私とは違うのだ。簡単にヤスくんに心を揺さぶられたりしない。あれから私はいろいろな人と付き合って、たくさんの経験を積んできたから。ヤスくんなんてただ「過去に好きだった人」に過ぎない。

 その日の夜、家で一人で晩酌をしているとインターホンが鳴った。画面に映るのがよく知っている人、しかも今とっても責めたい人だったので私は肩を怒らせながらドアを開けた。

「おー、元気?」
「元気じゃない!知ってたでしょ、私が就職決まったところにヤスくんいるって!」
「ええ?!」
「ええ?!じゃないよ!知らないはずないじゃん弟なんだから!」
「まーまーそんな怒んな。で、どうだった?久しぶりの『ヤスくん』は」
「どうって……」

 語尾が小さくなる。さっきまでの勢いは完全に失って、私は俯いてしまった。
 この人は立花日向。私の幼馴染であり、ヤスくんの弟だ。ヤスくんは立花家の長男で、日向の他に響と美晴ちゃんという弟と妹がいる。私はずっとヤスくん以外の三人とは仲良くしてきた。地元に残っている美晴ちゃんには実家で引っ越しを手伝ってもらったし、日向と響にはこっちで引っ越しを手伝ってもらった。ただ、ヤスくんだけは徹底的に避けてきた。姿も見ないようにした。なのに……。
 日向は全て見透かしたような腹の立つニコニコ笑顔で私を見下ろしている。そういえば今の会社受けてみたら?と勧めてきたのも日向だった気が……

「っ、ほんっと腹立つ!」
「痛っ!」
「ヨリちゃんに浮気されろ!捨てられろ!」
「ちょ、マジシャレにならないこと言うのやめて?!」

 思いっきり足を踏みつけてやった。ヨリちゃんとは、日向の奥さんで私もお世話になっている。というか、会社帰りに幼馴染とはいえ女の子の家に寄ってヨリちゃんに怒られたりしないのだろうか。まぁ、日向やヨリちゃんにとって私は『女の子』のカテゴリーに入らないのだろうけど。……ああ、それは、ヤスくんも一緒か。

***

「柴崎さん、教育係は彼、竹田恭平くんにお願いしようと思います」
「はい、柴崎唯香です。よろしくお願いいたします」
「えっ?!あー、こんな綺麗な子の教育係になれるなんて……」

 ……チャラいな。つーかセクハラだろ。

「こんなだけど竹田くんはよく仕事ができるから。竹田くんをよく見て、仕事覚えてください」
「はい」

 それだけ言って自分の席に戻ってしまったヤスくん……いや、立花主任はそれから全然私の方を見なかった。当たり前か。幼馴染とはいえ、八年会ってなかったわけだし。それに公私混同するような人なら主任になんてなれないだろうし、職場で幼馴染だなんて言われたりそんな態度を取られたりしたら面倒なだけだし。知らない人と同じように接しなきゃ……。

***

「唯香ー、これ食べていい?」
「ダメ!家でヨリちゃんがご飯作って待ってるんでしょ?早く帰りなよ」
「ヨリは仕事だし、それに料理できないよ」

 いつの間にか冷蔵庫からビールを取り出して飲んでるし。自由だな。はぁ、とため息を吐くと、日向が振り向いた。

「何、八年経ってもまだやっぱり好きーって?」
「違うよ、日向にため息吐いたんだよ」

 今更、だ。八年前に私の初恋は終わった。それからたくさん恋したし、たくさん付き合ったし。今更昔の恋に振り回されたりしない。

「まぁ、兄貴は真面目だから。生真面目だから。俺と違ってあんまモテねーし」
「……いちいち自慢挟まなくていいよ」
「久しぶりに会ったすっげー可愛くなった幼馴染に緊張したんだろ」
「ありえない。すっごい普通だったもん。他人みたいだったもん」
「自分から他人になったのに寂しいんだ?」
「……っ」

 やっぱり腹立つこの人。

「全然!他人だから!全然平気!」

 そう、この恋は八年前に自ら捨てたの。

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