ヤスくんに初めて会ったのは大学一年生の夏だった。確かにはじめは日向狙いだったけど、日向は掴み所がなくて彼女を作る気もないようだったし、それならお兄ちゃんでいいかななんて酷い考えでヤスくんに近付いた。
ヤスくんは日向に比べて女の子に慣れていないし、押したら赤面したり手応えはあった。ヤスくんに近付くフリをして日向にも近付けたら、なんて思っていた。
ヤスくんとデートをした。出会って半年経った頃だ。遊園地に行って1日遊んだ。このままホテルに行って告白したら落ちるな、そう思っていた。でも、ヤスくんは日向以上に陥落不可能な人だった。
「ね、このホテルで晩ご飯食べない?夜景が綺麗なんだよ」
「ああ、いいよ」
お酒を飲んで、ちょっと下着でも見せたら落ちるだろう。私はヤスくんの腕に胸をぐいぐい押し付けながら歩いていた。その時だった。
「唯香……?」
ヤスくんが突然そう呟いて立ち止まった。ヤスくんの顔があまりに呆然としていたから、ヤスくんの視線の先を追った。そこには随分年下の、綺麗な女の子がいた。
「知り合い?」
そう尋ねてもヤスくんは動かなかった。彼女の隣には男の子がいた。同じ年頃の爽やかな子だ。彼女は楽しそうに笑いながら、彼と手を繋いで歩いていた。
私はヤスくんの顔を見て焦った。ヤスくんの目には、後悔、切なさ、寂しさ、恋しさ、色々な感情が見え隠れしていた。私は彼の中にこんなにめまぐるしい感情があったのだと初めて知ったのだ。
「好きな子?」
そう尋ねて、やっとヤスくんがハッと我に返った。そして微笑んだ。
「まさか。ただの幼馴染だよ」
と。結局その後ご飯も食べずに帰ることになった。
後日日向に聞いてみた。「唯香」のことを。
「あー、幼馴染だよ。唯香が兄貴のこと好きだったんだ」
「え、ヤスくんが、じゃなくて?」
「……。さーな、それは何とも。女の子として見てないのか、気持ちに気付いてないのか、俺には分かんねぇ」
「……」
「兄貴を落としたいなら、唯香と離れてる間じゃねーと多分無理」
私はいつの間にか、ヤスくんに恋をしていた。「唯香」の存在を知って、焦るほどには。
私は大学を卒業して、偶然を装ってヤスくんと同じ会社に就職した。その間にヤスくんには何人か彼女が出来たけれど、長くは続かなかった。彼女が出来てもショックじゃなかった。どうせすぐ別れることは分かっていたから。それよりも、彼女がみんな黒髪ロングで目が大きくて綺麗な女の子だったことが嫌だった。誰の面影を追っているのか。ヤスくん自身が気付いていないのが厄介だ。
私にチャンスがやってきた。ヤスくんと仕事上のパートナーになったのだ。支社が変わって慣れないヤスくんをサポートするうちに、一気に距離を詰めようと思った。でも、彼女が現れた。
ヤスくんに挨拶しようと初めて本社に来た日。ちょうど退社時間だったから会社から出てきたヤスくんはすぐに見つかった。声をかけようとした時、隣を歩いている女の子が目に入った。それは、大人になって更に綺麗になった「唯香」だった。艶やかな黒髪を色っぽく纏め、大きな目でヤスくんを見上げていた。ヤスくんは見たことのない優しい顔で「唯香」に手を伸ばす。そして甘く微笑んだ。
遅かったのだとすぐに気付いた。日向の言葉が頭の中で何度も回った。
『兄貴を落としたいなら、唯香と離れてる間じゃねーと多分無理』
と。
地元の支社に来て、ヤスくんは本社にいた時と変わらず仕事をしていた。きっと一年で本社に戻ることになるだろう。私に残された時間は、あと一年だ。
私の誘いにヤスくんは全くなびいてくれなかった。実家暮らしだし早く帰らないと妹に怒られる、そう言っていたけれど本当の理由は「唯香」だと思う。
転勤から1ヶ月ほど経ったある日、ヤスくんが妙にソワソワしている日があった。彼女が会いに来るんです、ヤスくんは笑っていた。今日しかないと思った。
「ヤスくん!」
急いで帰っていくヤスくんの背中に抱きついた。うおっと前のめりになったヤスくんは慌てて振り返った。
「ビックリした!何?!」
「行かないで」
涙をいっぱい溜めて上目遣い。胸を寄せて押し付ける。これで落ちない男はいなかった。現にヤスくんも顔を赤くして見ないようにしている。だから、お願い。落ちて。
「行かないでって言われても……、もうすぐ唯香が……」
「私、ヤスくんのことずっと好きだったの。二番目でもいいし、浮気しても遠距離だからバレないよ」
「……」
ヤスくんがそっと体を離す。そして苦笑いした。
「お前が好きなの日向だろ?」
「っ、違、私は……!」
「……ごめん、それ以上言わないで」
何となく気付いていた。ヤスくんはずっと私が日向のことを好きだと思っている。でも、本当は知っているんじゃないかって。私の気持ちを。鈍感なフリをして、私の気持ちをなかったことにしたいのだ、と。
「俺は唯香が大事だし、正直唯香以外の女の子の気持ちはどうでもいいんだ」
「……」
「唯香のことずっと傷付けてきたから大事にしてやりたい。二番目なんか必要ないから」
ヤスくんは表情を変えずにそう言って、帰って行く。もう私のことなんか忘れたみたいに足を速めて。きっともう、頭の中は「唯香」でいっぱいなんだ。
「今までの彼女に本気になれなかった理由すら自分で気付いてないくせに……」
鈍感で、冷たくて、苛つくほどまっすぐな、酷い男。想っている長さでも、大きさでも。私は「唯香」に敵わなかったのだ。