世界一の幸せ者

「あー、大丈夫。アイツが本当に好きなの日向だから」

 ヤスくんはそう言ったけれど、絶対に違う。桜井さんの私に対する敵意は本物だ。

「遠くなったらどうなるか分からないわよね?」
「平気です。ヤスくんと私は」
「男と女なんて何があるか分からないのに」

 こんなに分かりやすい桜井さんの好意にも、ヤスくんは日向を好きだと信じ込んでいるようだった。そこまで鈍感なのも逆にすごい。
 そしてとうとう、ヤスくんと離れる日がやって来た。

「見送りありがとうな」
「うん」
「実家の近くだし、まぁすぐに会えるよ。唯香、浮気し放題だな」
「しないから!」

 そう、実はヤスくんが異動になった支社は実家の近くなのだ。地元に帰る人を兄弟が見送るっていうのも何だか変な感じ。
 日向の冗談にヤスくんの顔が強張る。浮気なんてする必要もないから焦る理由もないのだけれど、ムキになってしまう。
 ヤスくんは子どもの頃からの私の好きな人であり、憧れの人でもある。憧れの人と付き合うと、知らなかった一面を見て幻滅するという話を聞いたことがあるけれど、全くなかった。そもそもヤスくんとは幼馴染なので、だらしない面も寝顔も裸(上半身のみだけど)も知っている。知らなかったのは恋人に見せる顔だけだった。それを知って、私は幻滅するどころかもっともっと気持ちが大きくなっている。

「ヤスくん、着いたら電話してね」

 元々誰も入る隙のなかった気持ちが更にヤスくんでいっぱいになっていく。微笑んだら、ヤスくんはため息を吐いた。

「唯香平気そうだね」
「うん、寂しいのは寂しいよ?」
「俺はもう唯香がそばにいてくれない生活なんて想像できないんだけど」

 ヤスくんは天然なのか鈍感なのか、こっちが小っ恥ずかしくなることを平気で言う。日向たちは空気を読んだのか少し遠くで待っていてくれた。

「会いに来る。電話もする」
「うん」

 確かになかなか会えないのは寂しいけれど。関わりもなかった八年間に比べたら全然マシだしそれに、今、ヤスくんの恋人は私なのだ。特別な人だと、そう思ってくれているなら。私が怖がることは何もない。
 ヤスくんが私の手を握って、引き寄せる。一歩近付いた距離。今私は、口実も理由も必要なく、この人に触れることが出来るのだ。頬に手を伸ばした。触れた瞬間、その手も熱い手に握られた。

「迎えに来る」
「え?」
「一年後、迎えに来るから」
「うん?」

 よく分からないまま発車時刻を迎える。ヤスくんが新幹線に乗って、振り返った。繋いだままだった手をグッと引かれて。

「好きだよ」

 濃厚なキスの後、そう囁かれた。私は今きっと、世界一の幸せ者だ。

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