二人の気持ち

 実家に帰ると、お父さんもお母さんもお祭りの準備に行っているのだろう、誰もいなかった。シャワーを浴びて、お母さんが準備してくれていたご飯を食べて。それからは自分の部屋に引きこもってゴロゴロしていた。昨日メールで浴衣出しといてとお願いしたから部屋の壁に浴衣が掛けられていた。はぁ、とため息を吐いて浴衣から目を逸らした。
 夕方、日向から電話がかかってきた。無視していたけれどあまりにもしつこいので出た。

『祭行くだろ?』
「……行かないよ」
『兄貴出掛けたからいないよ。今からヨリと美晴が行くから』
「……」
『あ、もう家出たから開けてよ?』

 強引だなぁ。部屋の窓から立花家を見たら、確かにヨリちゃんと美晴ちゃんが浴衣を持ってこっちに歩いてきた。パンッと頬を両手で叩いて、一階に降りた。
 ヨリちゃんと美晴ちゃんはいつも通りだった。主任との喧嘩、知ってるはずなのに。でも今は少しでも気を抜いたら涙が溢れそうだったから何も言われないのはありがたかった。
 ヨリちゃんに着付けてもらって、化粧もしてもらった。たまには人にしてもらうのもいいでしょ?って。自分のやり方と違う化粧は新鮮だった。

「さ、行こう」

 平気、平気。二人と家を出ると、日向と響が家の前で泣き待っていた。……それに、主任も。日向を信じた私が馬鹿だった。ため息を吐きたくなったけど、お待たせ、と笑った。
 一緒にいると言っても、距離を取って一番離れたところにいたら平気だった。気まずいけれど、やっぱりお祭りの空気は楽しくなる。

「唯香ちゃん、りんご飴食べたくない?」
「うん、食べたい」
「ヤス兄に買ってもらお」

 美晴ちゃんが私の腕を引いて、主任のところに行く。主任は一瞬驚いた顔をしたけれど、りんご飴を買ってくれた。

「……はい」
「ありがとうございます」

 やっぱり、やだな。こんな雰囲気。私が好きにならなかったら。私がこの気持ちを口にしなければ。昔のように、仲のいい幼馴染のままでいられたのかもしれない。私が欲張りすぎたんだ。こうして、隣にいられるだけでよかったのに。

「……私」
「え?」
「諦めます。今までごめんなさい」

 立ち止まった主任を置いて、みんなのところに走った。もう、振り向かない。

「あれ、唯香?」
「うわー、唯香だ!」

 しばらく歩いていると、高校の同級生に会った。久しぶりの再会にテンションが上がる。その中には、高校時代の元カレもいた。

「清水くんね、唯香のこと忘れられないって言ってたんだよ」

 友達が耳打ちしてくる。照れ臭そうに笑う元カレ。一緒に花火見よう、と誘われて。日向たちを見ると「行っておいで」と言ってくれたから。頷こうとしたんだ。でも。

「……唯香」

 聞いたことのないような低い声で名前を呼ばれて、次の瞬間には手を引かれていた。握られた手が汗ばんでいる。前を歩く主任は私を振り返ることなくひたすら歩き続けて。やって来たのは人気のない神社だった。そこで主任はガバッと頭を下げる。

「朝はごめん!頭に血が昇って……」
「あ、いや、あの、私こそごめんなさい。そりゃああんな場面見たら怒りますよね。お姉ちゃんと響が裸で寝てたら私も怒ると思うし。あ、でも響とは本当に何もないので心配しないでください」
「あ、うん……それは響に聞いたし……」
「もう気にしないでください。私も悪かったから」
「うん、ありがとう……。それを謝りたくて」
「分かりました。お盆休み明け、またよろしくお願いします。立花主任」

 頭を下げて、歩き出す。これでやっと上司と部下として普通にできる。普通の上司と部下として……

「唯香」

 思ったより近くで声が聞こえて、ふわりと主任の香りが漂う。後ろからそっと抱き締められていると気付いた瞬間、心臓がボールみたいにバクバクと弾んだ。

「……ごめん。行かないで」
「え……」
「ほんと、自分でも嫌になるんだけど。唯香が離れていこうとすんのが、すごく怖いんだ」

 今朝とは比べ物にならないくらい、頭の中がパニックだ。主任は何を言おうとしているの?

「今朝、唯香が家から出て行く時。八年前のこと思い出した。俺が言ったんだけどさ、突然唯香が遊びに来なくなって、すっげー寂しくて、でも俺以外の家族とは普通にしてる。俺が嫌われたのかと思うと、彼女なんてどうでもいいから唯香に謝りたいと思った」
「……っ」
「それで、またあんな思いするのかって。思ったら怖くて仕方なくてさ。唯香の笑顔が見られないのは嫌なんだ」

 ゆっくりと辿々しく、でも自分の正直な気持ちを伝えてくれる主任に温かい気持ちが広がる。寂しかったのは私だけじゃなかったんだ。怖かったのは、私だけじゃなかったんだ。

「仕事以外の時は、前みたいに接して。頼む」
「ヤス、くん……?」
「うん、そう」
「ヤスくん……」

 ヤスくん。ヤスくんヤスくんヤスくんヤスくん。ヤスくんは嬉しそうに笑う。私も嬉しくて笑う。こうやって心の底から二人で笑ったのは、八年ぶりだ。

「俺には唯香が必要だ」

 その言葉だけで、生きていける気がした。

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