叶わない願い

 髪型、よし。メイク、よし。服装、よし。鏡の前で何度もチェックして。約束は15時。15分前に家を出れば充分間に合う。でも、ソワソワして落ち着かない。まだ30分前だけど、ゆっくり歩いて行こうと家を出た。
 夏休みの土曜日、子どもを連れたお父さんが楽しそうに小さな手を握っている。私がまだ小さい頃、よく高校生のヤスくんにああやって遊びに連れて行ってもらった。握った手の大きさに安心して、ヤスくんと一緒にいられることが嬉しくて、私は無邪気に笑っていた。……違うんだよね、あの頃とは。いい意味でも、悪い意味でも。私はふっと笑ってまた歩き出した。
 待ち合わせ場所に着いたのは約束の時間の15分前だった。もちろん主任はまだいない。何度も腕時計で時間を確認して、携帯をチェックして。待っている時の1分って異様に長い。かなり挙動不審だと思う。

「ねぇねぇ、一人?」

 ……ナンパか、面倒だな。はじめは気付かないフリをしていたけれど、もちろんそれじゃ通せない。しつこく食い下がってくる男の人二人に、うんざりし始めた時だった。

「唯香、ごめん、待たせた」

 手首を引っ張られて、トン、と胸に肩が当たる。男の人がいなくなるまで、肩を抱かれた体勢のまま。心臓が破裂しそうに痛かった。

「ごめん、遅くなった。大丈、夫……」

 顔を覗き込んできた主任とあまりにも距離が近くて、顔が熱い。主任も距離が近いことに気付いたらしく、パッと離れた。そして、ごまかすように歩き出した。

「映画何時だっけ?あー、時間までどっかカフェでも入ろうか。唯香、どっか行きたいとか……」
「あ、あの、」
「えっ」
「手……」
「あっ!」

 握られたままだった手首。じんわりと汗をかいたそれを、主任は急いで離した。何、この、むず痒い感じ。今時中学生でもこんな甘酸っぱいデートしないよ。恥ずかしくて、でもそばにいられるのが嬉しくて。私たちは他愛ない話をしながら、歩いた。
 映画はしっとりとしたラブロマンスだった。最愛の母を亡くして自暴自棄になった主人公が、ある男性と出会って悲しみから立ち直る。でも彼は未だに、最愛の人を亡くしたという過去に囚われたままだった……という、切なくて儚い、それでも純粋な愛を描いたとても素敵な映画だった。はじめは隣に主任がいることに緊張していたけれど、開始10分後には既に映画に引き込まれて。

「行こうか」

 エンドロールが終わっても余韻に浸ったままの私に、主任が話し掛ける。私は頷いて立ち上がった。

「送るよ」

 映画館を出ると、主任はそう言って私の家の方向に歩き出した。まだ、一緒にいたいな。初めてのデート、こんなにあっさり終わっちゃうんだ。映画のせいで昂った感情が私の中で渦巻いて。思わず主任の服の裾を握っていた。

「まだ、帰りたくない、です」
「えっ」

 困らせたかな。主任は後頭部に手をやって考え込んでいる。ああ、やっぱり……

「じゃあ、晩ご飯でも、行きますか」
「えっ」
「うん、そうしよう。何か食べたいものある?」

 少し前を歩く背中を見ながら、思う。お願い、振り向いて、と。

 主任と来たのは鉄板焼きのお店だった。大人っぽいお店というわけでもなく、気負わずにいられる、主任らしいお店だと思った。二人ともお酒を頼んで、ようやく緊張が解れてきたおかげで楽しく話して。頼んだお好み焼きが来て、お腹が鳴った時だった。

「あれ、唯香ちゃん?」

 お好み焼きを持って来てくれた店員さんが話しかけて来た。よく顔を見ると彼は大学の後輩で、サークルが同じでよく遊んでいた子だった。久しぶり、元気だった?と盛り上がる。彼は一つ下でまだ大学生だ。就活真っ最中らしく、久しぶりにバイトに入った日に偶然私が来たらしい。

「もしかして彼氏ですか?」
「え、う、ううん、違うよ、上司」
「へー、そうなんだ。ごゆっくりー」

 ニヤニヤしながら去って行く彼を見送って、鉄板に目を向ければ美味しそうなお好み焼きがジュージューと音を立てている。食べましょう、と主任に言えば、うん、と笑ってくれた。
 お店を出る頃にはいい感じに酔っ払っていた。私は決してお酒が弱いわけじゃないけど、主任と二人きりで浮かれていたのだと思う。ふらふらと歩く私を主任が支えてくれる。あ、くっつけるの、嬉しい。酔っ払っているのをいいことに、主任の腕に抱きついてみた。主任は何も言わない。意外と酒弱いんだなって笑ってる。私の本音見られたら、幻滅されるかもしれない。
 私のアパートに着いて、「ちゃんと着替えてから寝ろよ」と主任が帰ろうとする。私は抱きついていた腕を引っ張って、部屋の中に入った。わ、と主任の驚いた声が聞こえる。ドアがすぐ横で閉まる。私は勢いのまま、主任の胸に抱きついた。暗い部屋。聞こえるのは私たち二人の心音だけ。ああ、本当に。

「好き、なんです……」
「……え、」
「大好き……」

 見上げたら、すぐそばに主任の顔があった。触れたい。その気持ちだけで、私は顔を近付けた。……でも。

「……唯香、酔っ払いすぎ」

 大きな手が私の口を覆った。それは、明らかな拒絶だった。主任は照れている風でも、焦っている風でもなく。ただ真顔で私を見下ろしていた。調子に乗りすぎた。……ううん、それだけじゃない。主任が口を開くのが怖かった。でも、止める術はない。

「……俺やっぱ、唯香のこと妹としか見れない」
「……」
「美晴と被るし。ごめん」

 ズキンと心臓が痛む。歯を食い縛っていないと今にも涙が溢れそうだった。でも。ここで引き下がるわけには行かなかった。振り向かせてみせるって決めたから。今度こそ中途半端に終わらせないって決めたから。
 主任の、私の口を押さえる手を握って退けた。その手を握ったまま、体に触れさせる。胸元のボタンを少し開けて、迫る。

「一回、シてみませんか」
「……」
「もしかしたら、すごく相性いいかも」

 これで落ちてくれたら。そう思った。どんな形でも私が女なのだと思わせられたら。恥ずかしいけど、怖いけど。それでも……

「……唯香」

 でも、主任はため息を吐いた。涙がポロリと溢れた。

「唯香にそういうの、似合わないよ」

 それだけ言って、主任は出て行った。その場に崩れ落ちて、泣きじゃくる。

「じゃあ、どうやったら振り向いてくれるのよ……っ」

 私はあの人に何度失恋したら気が済むんだろう。あの人に好きになってもらうにはどうしたらいいんだろう。報われない気持ちは私の中で大きくなっていく一方で。いっそのこと、あの人を大嫌いになれたらいいのになんて叶わない願いを抱いた。

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