幸村精市のある休日。 | ナノ
幸村精市のある休日。
午前0時。そろり、そろりと精市の両親が2階へ上がってきて、寝室へ消えた。ぱちり、とこの家最後の電気が消える。完全に家中が静まりかえる。
彼は寝返りも打たず、穏やかな顔で寝ている。
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午前1時。精市の部屋の屋根に猫が一匹。金色の目が月光にきらりと光る。何を思っているのか、その猫は大きな瞳を開いて、一点をじっと見つめている。しばらくして、顔をくるりと撫でた。そしてどこかへと歩き去る。
彼はそんなことは全く知らず、眠っている。
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午前2時。少しだけ風が吹いて、精市の部屋の窓から見える木を揺らした。風が渡るのに会わせて木の葉が波打つ。咲き終わった花の花弁が風ではずれて、くるくると庭に舞い落ちる。その中の一つが、そっと窓の枠に乗っかった。
彼は寝返りを打った。それでも全く起きる気配はない。
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午前3時。あたり一面が静まりかえっている。犬も猫も鳴かない。ときどき、思い出したかのように、ジッと虫が音をたてた。遠く離れた別の家では、髪の毛をもじゃもじゃさせた少年が、足をつらせて飛び起きた。少年は声もなくもんどり打つ。
しかしやはりそんなことはつゆしらず、精市は穏やかに寝ている。
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午前4時。精市は夢を見た。
彼は砂漠の真ん中で寝転んでいた。砂は冷たく、しかし服を着込んだ彼を冷やすほどではない。じゃりじゃりとした嫌な感触はなく、砂はさらさらと、まるで絹のように彼の皮膚に触れた。夜空が真っ黒に見えて、明かりはないようだ。いや、違う。青い、赤い、白い星々が空一面にまたたいている。いつも見ているようなまばらに散った星ではない、ぎゅうっと集まってぼんやりした光の帯を作り、写真でしか見たことのないような幻想的な姿を作っている。
彼は上しか向けない。周りを見渡すことができない。それなのに、すぐ側に誰かがいるような気がした。
ベッドの上で眠る彼は、少し微笑みを浮かべる。
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午前5時。家の前を、大型犬を連れた男性がラジオを聞きながら通り過ぎていった。向かいの家からはエプロンを着けたおばあさんが出てきて、昔ながらの竹ぼうきで家の前をはく。でもそのくらい。平日だったらサラリーマンや誰や彼やが起きる時間でも、今日は休日だから。
眠っている精市は、かすかにまつげを揺らした。それでも彼はまだ、夢の中。
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午前6時。自然と目を覚ました精市はカーテンを開けた。もう夏が近いせいか、外はすっかり明るくなっている。彼はひとつ、あくびをした。布団から抜け出て、ジャージに着替える。机の上に置いておいたゴムで髪の毛をくくりながら、部屋から出て階段を下りる。
「おはよう、母さん」
「おはよう、精市。ランニング、今日も頑張ってね」
「うん」
彼は息を深く吸い込むと、玄関のドアを開けた。新鮮な光に溢れた世界へと。
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午前7時。朝のトレーニングを終えて、家に帰ってきた。量を増やしたせいか、だいぶ体がきつい。汗がだらだら垂れてきて、体から熱が発散しているのが分かる。」
「おかえり。朝ご飯できてるわよ」
「ふう、ただいま。シャワー浴びてから頂くから」
「んー……お兄ちゃん、おはよ」
「ああ、おはよう」
寝ぼけた妹の声を背中で聞きつつ、浴室へ向かう。体を清めたところで、どうせまた部活で汗を流すことになるわけだけれども。
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午前8時。カタンカタンと電車に揺られて、部活の練習へ向かう。軽い振動が心地良い。休日の朝だから駅にも車内にもあまり人がいない。その静けさが、平日とは違った特別感を与えてくれる。駅に止まるたびに電車はスピードを落とし、プシュ、と音をたててドアが開く。2年生の平部員が近くのドアからに乗り込んできた。
「あっ幸村部長!おはようございます!」
「おはよう。元気良くていいけど車内ではもうちょっとボリュームを落とそうか」
「あっ、すみません!!……あっ」
「落ち着いて、はい、深呼吸」
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午前9時。部室の前に精市は立った。目の前には部員が散らばっている。
集合!これより部活を始める。よろしくお願いします。大きな声でそう言うと、よろしくお願いします、とテニス部員全員が頭を下げた。コートの整備は全て、1年生の手によって終わっている。いつものことなのに、ぴんと張られたネットを見ると気持ちがぴしりと締まる。
「まずはいつものように走り込みから。今日は目標タイムを言うから達成できるように努力すること。まずレギュラーは、各自の自己最高記録の更新しようか
「えええーっ!!いきなりなんちゅうこと言うんスか部長!」
「できるだろう?赤也」
「……はい」
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午前10時。テニス部員各自がメニューに沿ってトレーニングを積んでいる。精市はパワートレーニングに取り組んでいた。
やめ、という蓮二の声で彼は動きを止めた。彼はノートに精市の記録を書き込んでいる。息づかいが荒い。ぽたり、と乾いたコートに汗が垂れた。足に生まれる疲れに、まだまだ強くなれる、という向上心が沸いてくる。
「どうだ?」
「わずかだが確実に筋力が上がっているな。もう少ししたら、飛躍的に伸びるだろう」
「それは楽しみだ」
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午前11時。精市は練習を止めて、ふっと校舎の時計塔を見る。集中していると時間が過ぎるのが早い。だが、強くなるには効果的に休むことも必要。動かすだけが効果的なトレーニングではない。彼はコートに散らばる部員に声を掛けた。
「休憩!15分後までに、水分補給をしてしっかり休め。その間に、この前蓮二が説明したストレッチもしておくこと」
「部長!ドリンクでヤンス」
「ああ、ありがとう」
ぴょこりと頭を下げて浦山しい太は走って行った。最初はその朴訥さにどうなるかと思った彼だが、今やしっかり部内になじんでいる。精市は少し目を細めた。
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午前12時。そろそろお腹が減ってきて、部員たちの集中力が下がってくる頃合いだろう。精市は練習をしている真田弦一郎と柳蓮二に声を掛けた。
「真田、このままレギュラーの練習相手をしてくれるか。柳は2年の指導をしてくれ。俺は1年の状態を見てくる」
「わかった」
「ああ。幸村、真田。昨日、レギュラー、1年、2年のデータと、俺たちの1年から今までのデータを比べたグラフを作った。参考にしてくれ」
「へえ、良くできているな。ありがとう」
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午後1時。ようやくお昼ごはんにありつけて、まだ体力のない1年生はほっとしたような顔をしている。精市はふと、あるモノに目を止めた。
「丸井、その荷物はなんだ?」
「ん?弁当に決まってるじゃん」
「いや、だから弁当の他にそこに入っているものは何だ?」
「だから、全部弁当だって」
「……その風呂敷の塊、全部?」
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午後2時。練習を再開しようと集まってきた部員の顔を見て、精市は心の中でくすりと笑った。先ほどまでぐったりしていたのに、昼食を食べて休むと、あっという間に元気になって、ぴんぴんした顔をしている。だが練習の山場はここからだ。
「レギュラーはいつも通りのメニューだ。今日から少し量を増やしたからそのつもりで。他は、Aグループはストローク強化メニュー、Bグループはボレー強化メニュー。40分ほどかかると思うが、終わり次第、メニューを交換すること」
「幸村、Cグループはどうするつもりだ」
「それはこの俺、柳蓮二特別メニューをこなしてもらう」
Cグループの部員たちが、顔を引きつらせた。
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午後3時。精市は再び、1年生のところへ向かう。だいぶ疲労が溜まってきているようだ。疲れるように練習をさせているのだから当たり前ではあるのだが。疲労が溜まると、どうしても集中力は下がる。それは仕方のないことだ。怒ればいいという問題でもない。
幸村部長が来た。
自分の姿を見て、彼らはひそひそとつぶやく。顔に緊張が走る。笑いたくなったが、そういうわけにもいかない。せっかくの気を引き締めさせるチャンスなのだから。練習でなければ俺を何だと思っているんだ、と腹を抱えたいところなのだが。
「だんだん疲れてきただろう。それはしょうがないけど集中すること。……それとも、練習に飽きてきた?それなら俺と試合する?」
練習がんばりますと、一番前にいた1年生が半泣きになってつぶやいた。
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午後4時。今日の練習は終了した。明日は日曜日でオフだ。土曜の練習が終わると開放感がある。疲れて、朝よりも動きが緩慢になっているというのに、妙に柔らかな安堵感が漂っている。
「いやっほー!ゲーセン行ってやるぜ!」
「赤也、あまり危ないところに行ってはいかんぞ」
「ああ、じゃあ俺が着いていってやるよぃ」
「ブン太一人じゃ危ねえ……幸村、俺がなんとか面倒みるから」
「……苦労かける、ジャッカル」
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午後5時。精市はまとわりつく汗に辟易しながら、ただいま、と家の中に声を投げかけた。
「おかえり、お風呂沸いてるよ」
「おかえりー。お兄ちゃん、お風呂入るなら洗面台に置いてある檜の入浴剤入れて」
「分かった」
ねとっとした汗の感覚、それに混ざったような砂、疲れれば疲れるほどそれらが不快になる。やや乱暴に服を脱ぎ捨てて、浴室の扉を開けると湯気がぶわりと全身に当たった。頭から湯を被る。心地よさにほっと息をつく。妹に言われた入浴剤の口を切ると、なんともさわやかな香りがした。
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午後6時。精市はリビングのソファに座って、タオルで髪を拭いていた。さっぱりして心地良い。トトトト、と足音を立てて妹が2階から降りてきた。
「お兄ちゃん、どうだった?入浴剤」
「すごくいい香りだったよ、なんとも爽やかでね。あれ、どうしたんだ」
「えへへー、あれね、良平くんにもらった」
「……え?」
「だから、良平くんにもらったの。かっこいいんだよー」
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午後7時。いつもは仕事で遅くなるためいない父親が、今日はいる。休日の晩ご飯は貴重な団欒どきだ。好物の焼き魚が食卓に並ぶ。
「レモンいるか、精市」
「ありがとう、もらう。父さん、スーツ着てるけど今日も仕事あったの」
「ああ。まあ仕方がないな、部下が増えればそれだけやることが増える。精市にも分かるだろう、部長なのだから」
「うん。その分、楽しみも増えるけれどね」
「そうだな」
「お兄ちゃん、レモン使ったら回してー」
「こっちに新しいのあるわよ」
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午後8時。精市はデスクライトの灯った机に向かう。開いているのは歴史の教科書。苦手ではないが、得意というわけでもない。だからこそやらねばならないのだ、と自分に活を入れる。年代、出来事、因果関係、結果。ただの情報じゃない。
コンコン、とドアが音を立てた。何、と声を掛けるとお盆を持った妹が入ってきた。
「お母さんから、お茶」
「ありがとう。……何か言いたそうな顔をしているね。宿題かい?」
「うん、見てくれる?算数なんだけど」
「いいよ、教科書とプリント持っておいで」
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午後9時。精市が勉強をしていると、ふいに机の上の携帯が震えた。電話。珍しく、赤也からだ。通話ボタンを押すと、焦ったような彼の声が聞こえてきた。何かトラブルが起きたのかと一瞬思ったが、どうもそういうわけでもないらしい。
「……で、そんな感じで悩んでるみたいなんスけど、どうすりゃいいか分かんなくて」
「なるほどね。赤也は彼に何か言った?」
「はい、でも俺らが言ってもぜんっぜんダメで、もう打つ手なしッス」
「そうか、分かった。じゃあ俺から接触してみるよ」
「さっすが部長!どーにかよろしくお願いします!」
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午後10時。精市はリビングに降りて、ストレッチをする。ぐっと体を曲げて、出来る限り遠くに伸ばす。ぐぐぐ、と伸ばしていくと、かすかな痛みを伴った気持ちよさが生まれる。体の筋を伸ばして、縮めて、また伸ばして。横で父親が新聞を読んでいて、少し離れたところにいる母親は棚の整理をしている。
ぐっと体をそらしたところで、出窓に置いてある植物が目に止まった。小さくてつぶつぶしたふさのようなものが、葉の陰から顔を出している。
「あれ……母さん、あれ、花が咲いたの」
「ん?ああ、それね。私も今朝気が付いたのよ」
「そっか、もうそういう季節だね」
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午後11時。精市はふわあ、とあくびを漏らす。おやすみなさい、と両親に声を掛けて2階に上がる。隣の妹の部屋は電気がもう消えていて、彼女はきっと既に夢の中。ベッドに入る前に部誌を見返す。書き忘れたことはなさそうだ。
彼は電気を消してベッドに潜り込んだ。昼間に母親が干してくれたのか、布団からは暖かい太陽の香りがする。目を閉じる。小さく小さく、音が聞こえる。1階で両親の話す声。家の前を通る車の音。どこかで猫が鳴く。
いつの間にか意識が遠のいて、彼には音も届かなくなる。
彼もまた、穏やかなる夢の中へ。