幸村精市のある休日。 | ナノ
幸村精市のある休日。


 午前0時。そろり、そろりと精市の両親が2階へ上がってきて、寝室へ消えた。ぱちり、とこの家最後の電気が消える。完全に家中が静まりかえる。

 彼は寝返りも打たず、穏やかな顔で寝ている。


***

 午前1時。精市の部屋の屋根に猫が一匹。金色の目が月光にきらりと光る。何を思っているのか、その猫は大きな瞳を開いて、一点をじっと見つめている。しばらくして、顔をくるりと撫でた。そしてどこかへと歩き去る。


 彼はそんなことは全く知らず、眠っている。


***


 午前2時。少しだけ風が吹いて、精市の部屋の窓から見える木を揺らした。風が渡るのに会わせて木の葉が波打つ。咲き終わった花の花弁が風ではずれて、くるくると庭に舞い落ちる。その中の一つが、そっと窓の枠に乗っかった。
 彼は寝返りを打った。それでも全く起きる気配はない。


***


 午前3時。あたり一面が静まりかえっている。犬も猫も鳴かない。ときどき、思い出したかのように、ジッと虫が音をたてた。遠く離れた別の家では、髪の毛をもじゃもじゃさせた少年が、足をつらせて飛び起きた。少年は声もなくもんどり打つ。

 しかしやはりそんなことはつゆしらず、精市は穏やかに寝ている。


***


 午前4時。精市は夢を見た。


 彼は砂漠の真ん中で寝転んでいた。砂は冷たく、しかし服を着込んだ彼を冷やすほどではない。じゃりじゃりとした嫌な感触はなく、砂はさらさらと、まるで絹のように彼の皮膚に触れた。夜空が真っ黒に見えて、明かりはないようだ。いや、違う。青い、赤い、白い星々が空一面にまたたいている。いつも見ているようなまばらに散った星ではない、ぎゅうっと集まってぼんやりした光の帯を作り、写真でしか見たことのないような幻想的な姿を作っている。
 彼は上しか向けない。周りを見渡すことができない。それなのに、すぐ側に誰かがいるような気がした。


 ベッドの上で眠る彼は、少し微笑みを浮かべる。


***

 午前5時。家の前を、大型犬を連れた男性がラジオを聞きながら通り過ぎていった。向かいの家からはエプロンを着けたおばあさんが出てきて、昔ながらの竹ぼうきで家の前をはく。でもそのくらい。平日だったらサラリーマンや誰や彼やが起きる時間でも、今日は休日だから。


 眠っている精市は、かすかにまつげを揺らした。それでも彼はまだ、夢の中。


***


 午前6時。自然と目を覚ました精市はカーテンを開けた。もう夏が近いせいか、外はすっかり明るくなっている。彼はひとつ、あくびをした。布団から抜け出て、ジャージに着替える。机の上に置いておいたゴムで髪の毛をくくりながら、部屋から出て階段を下りる。

「おはよう、母さん」

「おはよう、精市。ランニング、今日も頑張ってね」

「うん」


 彼は息を深く吸い込むと、玄関のドアを開けた。新鮮な光に溢れた世界へと。


***


 午前7時。朝のトレーニングを終えて、家に帰ってきた。量を増やしたせいか、だいぶ体がきつい。汗がだらだら垂れてきて、体から熱が発散しているのが分かる。」


「おかえり。朝ご飯できてるわよ」

「ふう、ただいま。シャワー浴びてから頂くから」

「んー……お兄ちゃん、おはよ」

「ああ、おはよう」


 寝ぼけた妹の声を背中で聞きつつ、浴室へ向かう。体を清めたところで、どうせまた部活で汗を流すことになるわけだけれども。


***



 午前8時。カタンカタンと電車に揺られて、部活の練習へ向かう。軽い振動が心地良い。休日の朝だから駅にも車内にもあまり人がいない。その静けさが、平日とは違った特別感を与えてくれる。駅に止まるたびに電車はスピードを落とし、プシュ、と音をたててドアが開く。2年生の平部員が近くのドアからに乗り込んできた。


「あっ幸村部長!おはようございます!」

「おはよう。元気良くていいけど車内ではもうちょっとボリュームを落とそうか」

「あっ、すみません!!……あっ」

「落ち着いて、はい、深呼吸」


***


 午前9時。部室の前に精市は立った。目の前には部員が散らばっている。
 集合!これより部活を始める。よろしくお願いします。大きな声でそう言うと、よろしくお願いします、とテニス部員全員が頭を下げた。コートの整備は全て、1年生の手によって終わっている。いつものことなのに、ぴんと張られたネットを見ると気持ちがぴしりと締まる。


「まずはいつものように走り込みから。今日は目標タイムを言うから達成できるように努力すること。まずレギュラーは、各自の自己最高記録の更新しようか

「えええーっ!!いきなりなんちゅうこと言うんスか部長!」

「できるだろう?赤也」

「……はい」


***


 午前10時。テニス部員各自がメニューに沿ってトレーニングを積んでいる。精市はパワートレーニングに取り組んでいた。
 やめ、という蓮二の声で彼は動きを止めた。彼はノートに精市の記録を書き込んでいる。息づかいが荒い。ぽたり、と乾いたコートに汗が垂れた。足に生まれる疲れに、まだまだ強くなれる、という向上心が沸いてくる。


「どうだ?」

「わずかだが確実に筋力が上がっているな。もう少ししたら、飛躍的に伸びるだろう」

「それは楽しみだ」


***


 午前11時。精市は練習を止めて、ふっと校舎の時計塔を見る。集中していると時間が過ぎるのが早い。だが、強くなるには効果的に休むことも必要。動かすだけが効果的なトレーニングではない。彼はコートに散らばる部員に声を掛けた。


「休憩!15分後までに、水分補給をしてしっかり休め。その間に、この前蓮二が説明したストレッチもしておくこと」

「部長!ドリンクでヤンス」

「ああ、ありがとう」


 ぴょこりと頭を下げて浦山しい太は走って行った。最初はその朴訥さにどうなるかと思った彼だが、今やしっかり部内になじんでいる。精市は少し目を細めた。


***


 午前12時。そろそろお腹が減ってきて、部員たちの集中力が下がってくる頃合いだろう。精市は練習をしている真田弦一郎と柳蓮二に声を掛けた。


「真田、このままレギュラーの練習相手をしてくれるか。柳は2年の指導をしてくれ。俺は1年の状態を見てくる」

「わかった」

「ああ。幸村、真田。昨日、レギュラー、1年、2年のデータと、俺たちの1年から今までのデータを比べたグラフを作った。参考にしてくれ」

「へえ、良くできているな。ありがとう」


***


 午後1時。ようやくお昼ごはんにありつけて、まだ体力のない1年生はほっとしたような顔をしている。精市はふと、あるモノに目を止めた。


「丸井、その荷物はなんだ?」

「ん?弁当に決まってるじゃん」

「いや、だから弁当の他にそこに入っているものは何だ?」

「だから、全部弁当だって」

「……その風呂敷の塊、全部?」


***


 午後2時。練習を再開しようと集まってきた部員の顔を見て、精市は心の中でくすりと笑った。先ほどまでぐったりしていたのに、昼食を食べて休むと、あっという間に元気になって、ぴんぴんした顔をしている。だが練習の山場はここからだ。


「レギュラーはいつも通りのメニューだ。今日から少し量を増やしたからそのつもりで。他は、Aグループはストローク強化メニュー、Bグループはボレー強化メニュー。40分ほどかかると思うが、終わり次第、メニューを交換すること」

「幸村、Cグループはどうするつもりだ」

「それはこの俺、柳蓮二特別メニューをこなしてもらう」

Cグループの部員たちが、顔を引きつらせた。


***


 午後3時。精市は再び、1年生のところへ向かう。だいぶ疲労が溜まってきているようだ。疲れるように練習をさせているのだから当たり前ではあるのだが。疲労が溜まると、どうしても集中力は下がる。それは仕方のないことだ。怒ればいいという問題でもない。
 幸村部長が来た。
 自分の姿を見て、彼らはひそひそとつぶやく。顔に緊張が走る。笑いたくなったが、そういうわけにもいかない。せっかくの気を引き締めさせるチャンスなのだから。練習でなければ俺を何だと思っているんだ、と腹を抱えたいところなのだが。


「だんだん疲れてきただろう。それはしょうがないけど集中すること。……それとも、練習に飽きてきた?それなら俺と試合する?」


 練習がんばりますと、一番前にいた1年生が半泣きになってつぶやいた。


***


 午後4時。今日の練習は終了した。明日は日曜日でオフだ。土曜の練習が終わると開放感がある。疲れて、朝よりも動きが緩慢になっているというのに、妙に柔らかな安堵感が漂っている。


「いやっほー!ゲーセン行ってやるぜ!」

「赤也、あまり危ないところに行ってはいかんぞ」

「ああ、じゃあ俺が着いていってやるよぃ」

「ブン太一人じゃ危ねえ……幸村、俺がなんとか面倒みるから」

「……苦労かける、ジャッカル」


***


 午後5時。精市はまとわりつく汗に辟易しながら、ただいま、と家の中に声を投げかけた。


「おかえり、お風呂沸いてるよ」

「おかえりー。お兄ちゃん、お風呂入るなら洗面台に置いてある檜の入浴剤入れて」

「分かった」


 ねとっとした汗の感覚、それに混ざったような砂、疲れれば疲れるほどそれらが不快になる。やや乱暴に服を脱ぎ捨てて、浴室の扉を開けると湯気がぶわりと全身に当たった。頭から湯を被る。心地よさにほっと息をつく。妹に言われた入浴剤の口を切ると、なんともさわやかな香りがした。


***


 午後6時。精市はリビングのソファに座って、タオルで髪を拭いていた。さっぱりして心地良い。トトトト、と足音を立てて妹が2階から降りてきた。


「お兄ちゃん、どうだった?入浴剤」

「すごくいい香りだったよ、なんとも爽やかでね。あれ、どうしたんだ」

「えへへー、あれね、良平くんにもらった」

「……え?」

「だから、良平くんにもらったの。かっこいいんだよー」


***


 午後7時。いつもは仕事で遅くなるためいない父親が、今日はいる。休日の晩ご飯は貴重な団欒どきだ。好物の焼き魚が食卓に並ぶ。


「レモンいるか、精市」

「ありがとう、もらう。父さん、スーツ着てるけど今日も仕事あったの」

「ああ。まあ仕方がないな、部下が増えればそれだけやることが増える。精市にも分かるだろう、部長なのだから」

「うん。その分、楽しみも増えるけれどね」

「そうだな」

「お兄ちゃん、レモン使ったら回してー」

「こっちに新しいのあるわよ」


***


 午後8時。精市はデスクライトの灯った机に向かう。開いているのは歴史の教科書。苦手ではないが、得意というわけでもない。だからこそやらねばならないのだ、と自分に活を入れる。年代、出来事、因果関係、結果。ただの情報じゃない。

 コンコン、とドアが音を立てた。何、と声を掛けるとお盆を持った妹が入ってきた。


「お母さんから、お茶」

「ありがとう。……何か言いたそうな顔をしているね。宿題かい?」

「うん、見てくれる?算数なんだけど」

「いいよ、教科書とプリント持っておいで」


***


 午後9時。精市が勉強をしていると、ふいに机の上の携帯が震えた。電話。珍しく、赤也からだ。通話ボタンを押すと、焦ったような彼の声が聞こえてきた。何かトラブルが起きたのかと一瞬思ったが、どうもそういうわけでもないらしい。


「……で、そんな感じで悩んでるみたいなんスけど、どうすりゃいいか分かんなくて」

「なるほどね。赤也は彼に何か言った?」

「はい、でも俺らが言ってもぜんっぜんダメで、もう打つ手なしッス」

「そうか、分かった。じゃあ俺から接触してみるよ」

「さっすが部長!どーにかよろしくお願いします!」


***


 午後10時。精市はリビングに降りて、ストレッチをする。ぐっと体を曲げて、出来る限り遠くに伸ばす。ぐぐぐ、と伸ばしていくと、かすかな痛みを伴った気持ちよさが生まれる。体の筋を伸ばして、縮めて、また伸ばして。横で父親が新聞を読んでいて、少し離れたところにいる母親は棚の整理をしている。
 ぐっと体をそらしたところで、出窓に置いてある植物が目に止まった。小さくてつぶつぶしたふさのようなものが、葉の陰から顔を出している。


「あれ……母さん、あれ、花が咲いたの」

「ん?ああ、それね。私も今朝気が付いたのよ」

「そっか、もうそういう季節だね」


***


 午後11時。精市はふわあ、とあくびを漏らす。おやすみなさい、と両親に声を掛けて2階に上がる。隣の妹の部屋は電気がもう消えていて、彼女はきっと既に夢の中。ベッドに入る前に部誌を見返す。書き忘れたことはなさそうだ。

 彼は電気を消してベッドに潜り込んだ。昼間に母親が干してくれたのか、布団からは暖かい太陽の香りがする。目を閉じる。小さく小さく、音が聞こえる。1階で両親の話す声。家の前を通る車の音。どこかで猫が鳴く。

 いつの間にか意識が遠のいて、彼には音も届かなくなる。
 彼もまた、穏やかなる夢の中へ。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -