大嫌いな君へ | ナノ
転機を誘う男

「君の分はこれね。やり方はこのマニュアルに書いてあるけど、分からないところがあったら遠慮なく聞いて」


生徒会書記長の竹内先輩が、机に積み重なった紙束をぽんとたたいてにっこり笑った。なんとも爽やかで、面倒見の良さそうな人だ。2年生ですでに幹部になっているあたり、跡部先輩と同じく実力者なのだろう。


私は授業を真面目に受けていたし私語もしないけれども、成績優秀でも優等生でもでもない。明るいとは言われるけれども、カリスマ性があるわけでも面倒見がいいわけでもない。だからこの自分が、まさか生徒会の雑用を手伝うことになるとは思わなかった。
全ての委員会と部活を統括する重要な生徒会に、一時的なお手伝いとはいえ私がかかわることになったのは、ただの偶然である。人手不足に悩む竹内先輩が委員会の顧問である鈴木先生――うちの担任でもある――に相談し、そのときたまたま私が放課後の教室で暇そうにしていたから鈴木先生によってお手伝いに貸し出された、という本当にどうしようもない偶然。


「じゃあ悪いけどよろしく、越川さん」

「はい、頑張ります」


有里は素直に返事をすると、椅子に座って書類に手を伸ばした。与えられた作業を始める前に、横目でちらりと周りの様子をうかがった。

アンティークっぽく見える、ずっしりと重く高そうな木の棚と机。部屋の中央にはいかにも最先端っぽいパソコンが並び、生徒会の役員さんたちはそこで必死に仕事をしている。有里が座っている机の近くには、ティーセットとコーヒーメーカー、給湯器が置かれている。もともと氷帝学園の校舎は隅から隅まで綺麗なのだけれども、生徒会室は綺麗なだけじゃなくて、応接室とか校長室の調度品に通じる高級さがある。奥には、会長とか副会長とか、幹部専用の小部屋もあるらしい。生徒会室は想像していたよりもずっと広かった。
氷帝学園の生徒会は権限が大きくて、体育祭や文化祭を始め、多くのイベントを率先して取り仕切ることができる。各部や委員会に予算を自由に振り分けることもできる。まあ生徒会の権限の大半は、跡部先輩ひとりが持っているんだけど。雲の上の存在みたいな委員会だと思っていたからこそ、生徒会室に入ることさえ予想していなかった。

机に目を落とすと、この前行われた新入生説明会のアンケートが山積みされている。今からこれを、貸してもらったノートパソコンに入力していかなければならない。面倒だ、実に面倒なんだけど、今回は好奇心が勝った。
生徒会に入れて、こうして腰をじっくり落ち着けられるなんてラッキーだ。こういう雑用でもしなければ、じっくり生徒会室を見る機会なんてあるまい。この部屋であのふてぶてしくも輝かしい跡部先輩が真面目に仕事をしているのかと思うと、なんだか感慨深かった。


***


「おい、紅茶を入れろ」


集中して作業をしていると、いきなり跡部先輩の声が飛んできた。顔を上げると跡部先輩がこちらを向いて立っている。彼は有里の顔を見ると一瞬変な顔をして、それからアンケートの山を見、有里の手元のパソコンに視線を移動させた。


「生徒会の役員じゃねえな。手伝いか」

「はい、1−Cの越川です。鈴木先生に派遣されました」

「そうか。紅茶は一つでいい、ダージリンだ」


さっさときびすを返した跡部先輩に、一瞬有里はぽかんとした。
紅茶、って。結局私が入れるのか。ただのお手伝いの自分が、備品をいじって勝手に入れて良いのだろうか。会長が言っているんだからいいんだろうけれど。しかし紅茶の入れ方なんて全く分からない。どうしよう。


「あの、竹内先輩。紅茶の入れ方、全く分からないんですけど、私が入れていいんですか?」

「ああ、給湯器の横にマニュアルが置いてあるから、それに従ってくれれば大丈夫。こんなことまでさせてしまってすまないね」


跡部先輩って、待たせたら怒りそうだ。急いでマニュアルをひっぱり出して目を通す。ティーポットとカップはあらかじめお湯で温めておくこと。お湯は熱湯で、でも沸騰させすぎるとよくない。茶葉の量はティースプーンで1人1杯くらい。お湯は勢いよく注ぐこと。蒸らし時間は……。
有里は愕然とした。め、めんどくさい。適当にポットに茶葉を入れて沸騰したお湯を注ぐだけではダメらしい。マニュアルをよく見たら「跡部くんに入れる際は、特別な注文がない限り必ずストレートにすること」とただし書きがある。更に下に目をやると「文責:竹内」の字。今までにも、私のように跡部先輩から突然紅茶を入れろと要求された子がいたのだろうか。それで、いちいち手取り足取り教えなくてもいいようにマニュアルを作ったのかな。
給湯器の横には蒸らし時間でも計るのか、タイマーまで置いてあった。
跡部先輩、うるさそうだもんな。竹内先輩苦労してるな。心の中で勝手にそう決めつけてから、有里はとりあえず給湯器のスイッチを入れて、カップとポットを用意することにした。






「紅茶お持ちしました」

「入れ」


幹部専用の部屋に入った瞬間、高ぶった興奮が一気に収まった。会長たちの部屋なのだからフランスの宮殿みたいなものすごい部屋に違いないと思っていたのに、案外普通だった。外の生徒会室と同じく、調度品は確かに豪華ではあったけれど。
跡部先輩はちらりともこちらを見ようとせず、黒い皮のソファで足を組んで、分厚い資料に目を通していた。
室内には観察したいものもあまりない。しいて言うなら跡部先輩の様子には興味があるけれど、まさか堂々と観察するわけにもいくまい。失礼すぎる。集計作業もまだ残ってるし、もう退散しよう。有里は丁寧に紅茶をテーブルに置いて、ぺこりと頭を下げた。さっさときびすを返そうとしたところで、跡部先輩が口を開いた。


「ふん、案外悪くねえな。お前、入れ慣れてんのか」

「紅茶ですか?いいえ、全く。マニュアルの通りにやっただけです」

「マニュアルだと」


いぶかしげな顔をして、跡部先輩がこちらを向いた。アイスブルーの目にドキっとして、有里はさりげなく目を反らした。目力が強くて直視できない。特段目が大きいわけでもまつげが濃いわけでもないのに、さすがは跡部先輩で、視線だけで気圧される。


「入れ方のマニュアルがあって、竹内先輩が作ったものみたいですけど」

「ふん、なるほどな。最近はまずい紅茶がなくなったと思ってはいたが」


彼は口の端を少し歪めて、有里に話しかけているというよりも独り言のようにつぶやいた。言うだけ言うと、彼はもう有里にも紅茶にも興味をなくしたようで、再び資料を読み始めた。有里はこれ幸いと一礼して、部屋から出た。

幹部専用の部屋から生徒会室に戻ったとたん、大きなため息が出た。肩の力がふっと抜けて、それでようやく自分が緊張していたことに気がつく。跡部先輩。決して、嫌に威圧的だったり高圧的だったりするわけじゃない。それなのに気が抜けない。先輩であるというのも大きいだろうけれども、それだけじゃなくて、あれがオーラなのだろうか、つい頭を下げたくなる。俺がキングだって言ったり、指を鳴らしてド派手なパフォーマンスをしたり、輝かしいけどどこか変な人だと思っていたのだけれど、実際、普通じゃないけれど、本人を目の前にしたらそんな考えは吹き飛んでしまった。
確かに、自称キングだけはある。


「越川さん?大丈夫?」

「……あ、すみません」


跡部先輩の雰囲気に当てられてぼうっとしていたら、少し心配そうに竹内先輩に声を掛けられた。彼はキーボードを打つ手を止めると、わざわざ立ち上がってこちらへ近づいて来た。慌てて席に戻ろうとしたが、肩をぽんと叩かれる。


「疲れたんじゃない?たくさん仕事してもらったし、もう帰ってくれていいよ」

「私はまだ時間ありますよ」

「いや、もう十分だよ。君がこんなに早く4セットも処理してくれるとは思わなかった」


まっすぐな褒め言葉に、少し照れくさくなった。役員さんのように難しい仕事をしたわけじゃないのに、それでも役に立てたのかと思うと嬉しい。


「単純作業でしたから」

「こういう平坦な仕事を淡々と正確にこなせるってすごいことだよ。正直、今日中に3セット終われば上出来だと思ってたんだ」

「褒めすぎですよ」

「いやいや、ほんとに。どうもありがとうね。今度改めて遊びにおいで。お礼に、美味しいお菓子と紅茶をごちそうするから」


一生懸命何かをしたことと、自分が他の人の役に立てたという充実感で、有里は久しぶりに満足した。しかしまたこの後、自分のしたことが他の人の力によって勝手にどんどん進んでいくとは、予想もしなかった。


***


「そういえば竹内がずいぶん上機嫌やったけど、生徒会で何かあったんか」


今日もいつも通りに部活が終わって、全員で用具を片付けているときに、忍足さんが跡部さんに問いかけた。竹内――たしか、書記長をやっている先輩だったか。忍足さんの声を背中で聞きながら、彼がこういう質問をするのは珍しい、と俺は直感的に思った。今まで、そこまでかかわりがあるわけでもない誰かのことを聞くのを見たことがない。


「今年は新入生説明会のアンケート集計が予想以上に早く終わりそうだからな」

「そらすごいな、せやからあんなにはしゃいどったんか。いつもは落ちついとんのに。去年は生徒会役員のほとんどがひいひい言っとったさかいな」

「去年の失敗を生かして、今年は役員以外の生徒に手伝わせた」

「手伝い?よう見つかったな、集計なんて面倒な仕事、誰もやりたがらんやろ」


俺はほほにつうっとたれてきた汗を袖でぬぐった。生徒会にはあまり興味をそそられない。生徒会で何があろうとどうでもいいと思ったのに、次に跡部さんが発した言葉に俺は愕然とした。


「竹内が鈴木先生のクラスから借りてきたんだと。名前は越川だったか」

「えらいよう覚えとるな。生徒会に入れるつもりなんか」

「生徒会室に部外者が入ること自体が異例なことだ。能力があれば、入れるかもしれねえ。生徒会が十分に力を発揮するには、とにかく人手不足だ」


鈴木先生のクラス。1−C。うちのクラス。越川。
まさか跡部さんの口からそんな単語が出てくるとは思わず、頭が真っ白になった。越川。越川有里。だんだんと、その単語が頭に入っていき、それにつれ、心の中でいつもと同じ怒りがこみ上げてきた。
あの女、跡部さんにまで取り入るつもりか。鳳だけじゃない、こうやって跡部さんの口からもあいつの名前を聞くなんて。テニス部にまで入ってくるんじゃねえよ、あのクソ女が!
俺はぎり、と歯をかみしめた。


(20110305)

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