大嫌いな君へ | ナノ
追伸、最後に送る一言

雷鳴は遠かったけれど雲はどす黒く絶え間なく動いて、いやに重く湿った空気を放っていた。降り出しそうな空模様に背中を押されるように、私も日吉も早足で駅に向かう。だがシャッターのとっくに閉まった商店街にたどり着いたところで、水気を過多に含んだ天気が崩れた。
ぽつん、と鼻に水滴が落ちる。空を見上げるともう大粒の雨が大変な勢いで降り注いで来て、早足もむなしく、私もあいつもあっという間に濡れ始めた。
土砂降りだというのに、あいにく駅まではまだまだ距離がある。


「行くぞ」


どうしようと思う間もなく、日吉はそう言って走り出した。私もその後を追いかける。靴に跳ね上げられた水が靴下に染み込んだ。冷たい。冬には珍しい大雨に髪が濡れ、顔が濡れ、はき出す息は白く暖かいというのに大気の冷たさに体の表面が冷えていく。
あいつは商店街のお店の一つ――小さなカフェの軒下に体を入れた。私もその隣に滑り込む。板張りの軒に降り注ぐ雨水が騒々しい音を立てた。全面がガラス貼りになっているそのお店は当然閉まっていて、店の中は暗い。ガラスに街灯の光が当たって、私とあいつの姿がぼんやりと写り込む。軒先の屋根の突き出た部分は小さくて二人がぎりぎり入れるくらいだ。でも他に雨宿りできそうなところもなく、このまま走って帰るにしては駅は遠く、これが最善なのだろう。歩道のアスファルトに跳ね返った雨が靴に飛んでくる。制服越しに、右腕があいつの左腕に触れるのが分かった。ドアに掛かった「closed」の看板に鞄の後ろが当たって、カラカラと揺れた。

私とあいつは、並んで立った。左肩にかけた鞄が水でびしょ濡れになりそうで、右にいる日吉の方に体を押す。あいつも同じ状態だったのか押し返してきた。屋根のついた空間は狭い。しばらく無言のまま押し合いが続いた。


「ちょっとそっちに詰めてよ」

「濡れる、馬鹿」


なんとなく妥協して状況が落ち着く。濡れまいとお互いが内側に詰めた結果、私とあいつは密着した。くっついている体の側面が暖かい。あいつが動く気配がした。長いジッパー音の後、頭にぼふりと柔らかいものがかけられた。視界の端には白。


「使え」


落としていた視線を上げると頭に清潔そうなタオルがかぶせられていた。部活用に何枚か持っていたのか、あいつは別のタオルで頭を拭いている。使っていいということか。あいつが。私に。
手を伸ばして恐る恐るタオルに触れる。ふわりと、よく知っている――でも自分のではない香りがする。私はぎこちなく指先でゆっくりその柔らかさを確かめて、濡れた髪に押しつけた。冷えた水滴が乾いたタオルに吸い取られて、少し気持ちが落ち着く。
なぜと聞いたところで風邪引かれて俺の責任になったら困るとでも言うのだろうか、きっとそうだろう、でもなんで、こんな気遣いなんてするやつじゃなかったのに、じゃあもし立場が逆で私が複数のタオルを持っていたらどうしただろう、やっぱり同じ事をしていたのだろうか。心がぐるぐると渦巻いて、不安定な何かに突き動かされるように私は乱暴に自分の頭を拭いた。そこからただようあいつの香りが余計に気持ちを不安にする。いったいどうして、どうして、ここまで一緒に来たことだって、なんで。
でも、意外だと思う驚きの気持ちと困惑の他に、日吉ならこうするだろうという納得と少しの熱が確かにそこにあって。

心臓が、ずくりと揺れる。


「……洗って返す」

「ああ」


タオルを触る手のひらが熱い。こんな、不安定な、そして今までと違うわけの分からない自分。今の状況が腹立たしくて、でも体が冷えた状況で相手を感じられることも気を遣われたこともなんとなく恥ずかしくて、あいつの方が見られない。

暗闇をわずかに照らす街灯は、絶え間ない雨で川のようになった道路を白く反射させている。どしゃぶりの雨が目の前に水のカーテンを作った。軒からは水がつたって、絶え間なく水滴が落ち続けている。せわしない雨音が他のもの――いつもなら聞こえる人の気配や車の音、そういったものを全て消し去って、まるで私と日吉だけが世界から隔離されてしまったかのように思えた。

私たちはお互いを見ずに、ガラスの壁を背に、黙ってじっと道路の方を見つめていた。ただ雨宿りをしているだけ。それだけ。それだけで、相手の存在など気にしなくてもいいはずなのに。隣にいるこの男の存在が、どんどん大きくなっていく。





***





分かってますよ、言われなくても。
売り言葉に買い言葉のように「行くぞ」とあいつに声を掛けて、俺は部室から飛び出した。腹が立つ先輩達だ。それでももう分かっている。彼らが俺とあいつにやろうとしたことも、その意図も。そして自分がどう思っていたかももう分かっていて、その事実にまた腹が立つ。
小走りで斜め後ろからあいつの足音がする。校舎から出たあたりで俺は歩く速度を緩めた。すっかり街はすっかり闇に覆われていて、無機質な光を放つ街灯がときどき不吉に明滅した。空を見上げると黒々とした雲が渦巻いて、そこに青白い稲光が走った。しばらく時間を置いて響く雷鳴。まだ雷は遠いらしいが、不気味な雰囲気がある。

この中を女が一人で帰るのは、確かに怖いのだろう。









珍しく冬の雨に見舞われて俺はあいつと雨宿りしていた。タオルを余分に持っていたのは幸いだった。未使用の方をあいつに渡して、自分でも濡れた髪を適当にぬぐう。こんな寒い日の夜に準備もなく濡れるようなざまになってみっともない限りだ。だが一番情けないのは今の状況よりも、今までの自分の有様なのかもしれない。全く、みっともない。


「……洗って返す」

「ああ」


つっぱった反応が返ってくるかと思いきや、越川は珍しくも殊勝なことを言った。それを意外に思うと同時に、なぜか、そうだ、こいつはこういうやつだという納得があった。いつの間にか違う反応を返すようになったのはこいつだけじゃない。自分も同じだ。
俺は首を曲げて越川を見下ろした。越川はじっと歩道を見つめていた。濡れた髪がほほに張り付いているのが寒そうに見えた。見慣れた横顔。小さい頃から当たり前のように見てきた顔。越川の右肩が俺の左腕に当たっている。昔はこうして並べば肩に肩が当たった。それだけ身長差ができているということが、今更ながら不思議に思える。


前に喧嘩したときにもそうだった。自分とは違う生き物。弱く、柔らかく、華奢で、どうしようもなく憎いやつ。それが、こんなにも小さい。俺があれほどにも敵視して憎んでいたはずのやつが。


相手の体温で体の側面が熱い。近くにいたようで、どんどん遠く、俺には理解できなくなっていった女。どうして越川はこんなにも俺を苛立たせるのか、どうして俺はこんなに苛立つのか。全く分からなくなったままここまで来た。中学に上がって勉強も部活も忙しくなって、いつの間にか越川の側には吉村がいて、俺の側には笹本がいて、そして話さなくなって。喧嘩をして、嫌いで、嫌いで、大嫌いで、誰よりも遠くにいったつもりでいたのに今は体が密着するほど近くにいる。

もう、分かっていた。理解できていたが受け入れられなかったものがあるべきところに収まった。俺はもう納得していた。目を伏せ気味に前を向く越川をじっと見ていると、固まっていた何かがぼろぼろと剥がれていくような気がした。





***





その存在の大きさに耐えられなくなって、私は日吉を見上げた。昔は私をわくわくさせて、今は私を苛立たせて、いつだって気持ちを熱くさせる男。あいつもまた、私を見ていた。

日吉は昔から目つきが鋭かった。でも子供らしいほほの丸みが落ちて、身長もいつの間にか伸びて。元から鍛えられていた体は更に引き締まって。精悍になった。精悍な、男に。最初っから私は日吉と同じ土俵に立ってなんかいなかったのだ。私と日吉は全く違う生き物だったのだ。でもそれを、幼くて馬鹿な私は知らなかった。
相手を知っていると思っていて、でも分からなくなっていった。でも考えてみれば当たり前だった。私だって変わったんだから。冒険が好きでませてなんかいなかった私が、今では髪の手入れなんか気にしてる。どんどん距離が離れて、話もしにくくなって、いつの間にかあいつの側にはいつも笹本さんがいて、私も吉村と仲良くなって、余計に距離があいて。嫌いで、嫌いで、大嫌いで、もう二度と近寄らないだろうと思っていたのに今はこうして目の前にいる。

これほど近い距離で、喧嘩をするでもなく静かに向き合ったのはどれほどぶりだろう。あいつの茶色い瞳に私が写っている。

それを見たとたん、心を締め付けていた熱の塊が喉に上ってきた。喉よりももっと上へ、上へ、我慢しようと顔を歪めたけれど耐えられなくて、目に涙がにじんだ。


「日吉なんて、嫌い。大嫌い」


涙がこぼれないように奥歯を食いしばると、言葉が零れ落ちた。いつも言っていた言葉。この言葉しか私は持ち合わせていない。嫌い。嫌いだよ。あんたなんて。
私は日吉に向き合った。あいつもまた、体をこちらに向けた。雨が激しく道路をたたき、世界をぼやかした。でももう、周りは何も関係ない。
あいつは相変わらず表情を変えなくて、でも少しだけ、鋭い目が揺れた気がした。


「……奇遇だな。俺も嫌いだ」


あいつの右手が伸びてきて、指でそっと私の顔を押さえる。雨で湿った、少し冷たい感触。その手は女の子のそれとは違って、大きくて、骨ばっていた。その手は私の皮膚と熱を共有して、同じ温度になる。


「お前が、大嫌いだ」


雨の世界をまぶたの裏に押しやって、私は目を閉じた。




少しうつむかされた私の頭に、唇の感触。鼻先に、私のではない制服の香り。冷えていた体が、熱をはらむ。




唇が離れて、私はもたれるように日吉の首に顔を寄せた。自分の鼻筋に冷たいあいつの肌が触れる。皮膚越しに力強い鼓動が伝わってくる。涙が目尻ににじんだ。それを振り切るようにつぶやく。


「嫌い」


頭の後ろに手が回されて、頭が肩口に押しつけられる。私は背伸びをして、唇をあいつの首筋に押しつけた。そこに軽く歯を立てて、ぎゅっと噛みつく。あいつの熱が、体温が、鼓動が、香りが、全てが流れ込んで、一緒になった。私の首にはまだ、あいつの付けた痕跡が残っている。ぼろりと涙がこぼれる。


「日吉なんて、大嫌い」


もう一回そう言って、噛み跡をつけたそこに顔をうずめる。日吉が少し、私の髪をなでた。


嫌い。嫌い。大嫌いだよ。あんたなんて。


いろいろな感情が渦巻いて、何も言えない。分かるのは灼熱のようにたぎった心と、はっきりしているこの言葉。日吉が嫌い。それで、日吉も私が嫌い。そうやって確かめて、確かめて、何度も確かめて、相手に向ける気持ちにはもう、嫌いという名前しかない。
雨はますます激しく降りしきり、人の気配を絶って闇を一色に染める。



嫌いという感情がこれならば、私はきっと死ぬまで日吉を嫌い続けるのだろう。


(20110829,fin)



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