大嫌いな君へ | ナノ
闇夜に光る
同じ喧嘩でも今日はなんだか変だった。睨み合っても言葉を投げつけても、以前とは違って自分の気持ちがあやふやでもやもやとしたものが澱のように心に溜まる。激しい言葉にも力が入らない。吉村との決別も原因かもしれないけれど、でも。
跡部先輩と忍足先輩が乱入により、喧嘩は強制的に終わった。
「まあまあ、そこらへんにしとき」
「聞いてたんですか」
じろりと日吉が先輩たちを睨み付ける。跡部先輩はあきれ顔で、外まで声が聞こえんだと言った。喧嘩を止めに来てくれたのだろうとすぐに分かったけれど、今日は止められたくなかった。介入されたくなかった。心に溜まる何かには誰にも触れて欲しくなかった。親友であろうとも。自分も触れずに隠してそっとしまっておきたかった、でも先輩にそれを言うわけにはいかなくて、結局私は黙りこむ。
「お前らいいかげん素直になれ。お互いをどう思っているのか、もう分かってるんだろ?あーん」
「大嫌いです」
「大嫌いです」
……かぶった。私と日吉は相手の様子を伺うこともせず即答する。跡部先輩はこぶしをぐっと握りしめて、そこに青筋が浮いた。忍足先輩は額を押さえて天井を仰いだ。
お互いをどう思っているか。答えは一つしかない。言える言葉なんて一つしかない。そんなの決まっている、とっくの昔から。私にとっても、日吉にとっても。
「そもそもお前らはなぜ喧嘩しているんだ。昔は仲が良かっただろう」
「まあ」
それは事実だ。しぶしぶ認める。先輩たちが続く言葉を待っているのは分かったが、何も言葉にならなかった。それは日吉も同じだったようで、その場に沈黙が落ちた。
分からないのだ。何で喧嘩をしているか。何がきっかけだったのか。全く覚えていない。仲が良かった頃から周りをハラハラさせるような口喧嘩はよくしていたけれど、今のようにずっと喧嘩し続けていることなど初めてだ。
たぶん、これといったきっかけはないのだ。だけど正体不明の苛立ちは確かにあって、それは確かに他の誰でもない日吉に向けられているもので、まるで泥のように溜まっていった。その感情は何をやってもいつまでたっても解消されなくて、そして未だにそのままで。苛立ちを相手にぶつけるけれど、喉から出てくるのはただ大嫌いという言葉のみ。
先の見えぬ沈黙に耐えかねたように忍足先輩が声を上げた。
「あー質問変えるで。いつから口げんかするようになったんや」
いつから、いつからだったか。小学生のころは仲が良くて、でもずっと仲が良かったわけではなくて、卒業するころにはもうほとんど話さなくなっていた。でも喧嘩をしたというわけではなくて、ただの成長に伴う距離だったと思う。
「中学に上がった後だと思いますけど……」
「おそらく夏大会の後ですが、それがどうかしたんですか」
「ほんなら、それと同じくらいの時期に何かあったんと違うか。どっちかがどっちかに大切なもん壊されたとか、ぶつかったけど謝らんかったとか、そんな些細なことでも何でも」
おぼろげになった記憶を探る。たった数ヶ月前のことだというのに何も思い出せない。やはり何もなかったのかもしれない。
「何もありませんよ、忍足さん」
「でもなあ、二人とも何もしてへん人間を蛇蝎のごとく嫌うことなんてせえへんやろ……あっ」
忍足先輩は何かをひらめいたようで、ぽん、と手を打った。跡部先輩は黙って何かを思案している。
「日吉が女テニの笹本さんと本格的に仲良うなったん、ちょうどそのくらいとちゃう?」
「ええ、まあ……」
「越川、お前、バスケ部のエースと親しくしていたらしいな。そいつと仲良くなったのも同時期か、あーん?」
「たぶんそうですけど」
「ふん、なるほどな」
跡部先輩がつぶやいたっきり、誰もが黙りこくった。部室が静まる。4人の息づかいだけが空気を揺らす。外のグラウンドからは練習を終えたらしき運動部員たちの声がする。天気が悪くなってきたのか、遠くで雷鳴が聞こえた。でもそれは膜で隔てられた別世界の音のように遠く聞こえた。
私は自分がからっぽになった気分で、全神経をとがらせた。
真面目な顔で私を見下ろす跡部先輩。傲慢で、才能にあふれていて、派手で、そのくせ大局を見ていつも人のことを考えているようなアイスブルー。
――なぜ相手をそう思うのか、どうしてこうするのか、よく考えることだな。
丸眼鏡の奥から視線をこちらによこして、何かものいいたげなひと。穏やかで、でも見ないようにしてきたことを一言で鋭く言い表してしまう忍足先輩。
――抵抗しても力負けすることくらい分かってたやろ。それなのに逃げへんかってんやろ。なんでや。
……それから隣にいる、あいつ。昔っから女の子に優しくなんかなくて、ぶっきらぼうで、無愛想で、冷たくて。そのくせ好きなことには妙に熱くなったり、何かを追いかけたりして。どうしようもなくて、嫌いで、嫌いで、大嫌いで、あいつの顔は見たくない、見られない、今は。
――お前が大嫌いだ。
そう、いつもと同じようにそういってあいつと私は喧嘩をした、でもいつもとは違うこともあって、それを周りに知られて、自分でも何が何だか分からなくなって、そして未だに分からなくて結局こうして黙るしかない。正面から向き合うこともできなくて、必死で隣を見ないように、その代わりに他の人を見つめ、今はこうやって先輩達を見つめているのだ、私は。
私は。
私は、私と日吉は。
忍足先輩は黙って私と日吉を見つめる。跡部先輩が形の良い唇を開いた。
言わないで。言わないでください。止めてください跡部先輩。もう十分ですから。
心の中でそう叫んでも乾いた喉から言葉は出てこない、息さえもつまったかのようにできなくて、私には跡部先輩から出てくる言葉を止めるすべがない。彼が紡ぐのはただの言葉じゃないことは分かっていた。普通の単語でできあがった普通の言葉、でもそれは私とあいつにとってはきっと決定的な何かを起こす言葉で。私はうつむいた。先輩たちは何かを言わんとしていた。それが何なのか、私にはもう分かっている、認めたくはないけれど、そしてきっと日吉にも。
もう分かってるんだ、今はまだ聞きたくない、いつかは聞かなきゃいけないかもしれないけど、でも、だけど、まだ。
「言ったはずだ、よく考えろってな」
しんとした部室内に跡部先輩の声だけが響く。私はうつむいたまま、自分の靴先を見つめた。何も考えられなくて、ただ心に跡部先輩の声が響いてぐるぐるとうずまいて残る。
「隠すことも逃げることもたやすいことだ。だがな、そんなことばかりしていたら本当に大切なものを見失う。タイミングが重要ということもある」
見失う。タイミング。
言葉の意味は何も頭に入ってこないのに、なぜか強く心を叩く。
「もう答えは見つかっているんだろう?あーん」
あいつは何も言わない。言えないのかもしれない。私と同じように。あいつは何を考えているんだろう。私が嫌いだとあいつは言って、それは重大な事実で私はそれを知っている、そのはずなのにはあいつが何を考えているのか何も分からなかった。
音の消えた空間に、遠くの雷鳴だけがかすかに届いた。
***
私の右側の、斜め前をあいつが歩く。あいつは何も言わない。私も黙って足を動かした。こうやって二人で歩くことに、最近はすっかり慣れてしまった。毎日のように教室から部室に行ってたから。私たちはいつも何も言わずに歩いて、私はいつも早く部室につけばいいと思っていた。
でも今日は勝手が違った。学校帰りに一緒に帰るのは小さい頃からの付き合いを考えても初めてのことで、何をどうしたらいいかが分からない。今更話すこともない。話せることもない。さっきの跡部先輩の言葉、それを考えて、何かが喉まで出てこようとするけれどそれをここで出していいものかどうか分からない、そして日吉が何を考えているかも相変わらず分からない。
(送ってやれ)
ゴロゴロと響く嫌な雷鳴を聞いて、あれから一言だけ、跡部先輩は言った。いつもなら速攻で憎まれ口を叩いて拒否しそうな日吉が今日は何も言わなかった。
(行くぞ)
あいつは自分の荷物を持つと跡部先輩と忍足先輩のことをちらりとも見ずに、そう言って部室からするりと抜けて出た。私は混乱したままで、先輩達を直視できないままで頭だけを下げて慌てて日吉を追った。
遠くの空が雷で青白く光った。冬の夜空は水気を含んだ分厚い雲に覆われて、月も星も見えなかった。道路も家も木も、すっかり闇に覆われていた。ただあいつが肩に掛けたラケットバッグの留め金と髪の毛だけが、街灯に照らされてきらりと光を放った。
(20110818)
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