大嫌いな君へ | ナノ
確かなるもの

空は街を押しつぶすように低く、分厚く灰色の絵の具を塗り込めたような姿をしている。高層ビルならその高さに届いてしまいそうだ。湿気をありったけ含んで膨張した雲はそのまま、雨を降らせもせずにもったりとうごめいている。

あれから私は泣いて、泣いて、とにかく泣いた。気持ちは重くてショックだったけれど、すっきりしたところもあった。ぐらぐらと積み重なっていた壁が崩れて全て地面に落ちたような。壁は壊れ、石は地面に落ちて傷ついたけれど、いつ崩れるかと怯える必要はもうないのだ。きっとそう思ったのは私だけじゃない。吉村も、笹本さんも、日吉も、たぶん同じ。
しかし面倒な事ながら、第三者に対してはそうはいかなかった。
笹本さんから呼び出された私。同じく呼び出された日吉。さらに後からその場へ来た吉村。泣いて去った笹本さん。去る吉村。泣いている私。黙って立っている日吉。断片的な目撃情報が合わさって、噂はある意味悪化した。


「日吉が笹本さんフって有里を選んで、有里も吉村をフって、有里が日吉に選んでもらえてうれし泣きしてた……みたいな」

「前よりも酷くなってるよねえ、有里ちゃん、大丈夫?」


翌日、教室の生ぬるさに閉口しているとゆっことしろちゃんがやってきて、興奮気味に噂の話を教えてくれた。
口から胃まで出そうな大きなため息が出る。どうしてそうなるんだ……前半はあながち間違ってはいないのに。あの時、泣かなければまだマシだったのだろうか。ある意味、あいつの一人勝ち状態だ。私みたいにショックを受けたわけでもなく、前よりも冷たく「お前には関係ない」を連発して噂話も人の目線もものともしていない。その図太さが羨ましくも、ムカムカする。あいつのせいでもあるのに罪悪感のカケラもなさそうだ。
それに終わってしまったものは仕方ないにせよ、腹立つことはまだある。いずれこうなったにせよ、ここまでこじれた一番の原因はそもそもあいつなのだ。


「なんであんなことしたのよ」


今日も日吉は部活が終わった後も遅くまで練習するのだろう。生徒会の雑用を片付けつつ、部室であいつを待つ。一言申さないと、どうしても腹が納まらない。他の部員がほとんどいなくなったころに――予想以上に早い時間に、あいつはやってきた。


「何のことだ」

「何って、決まってるでしょ……首のこと!」


睨み付けて平手打ちでもしたいところだが、顔が見られない。だって昨日の今日だ。泣いているところを見られたという恥ずかしさと屈辱感と、あまり深く考えないようにしてきたことを聞くという決心で、あいつの顔は見たくない。


「お前がうざいのが悪い」

「あんたがあんなことしたせいで、必要以上に吉村を傷つけたでしょ!」

「はん、振られてざまあみろ」

「なっ!あんただって笹本さんに嫌われたくせに」

「別にどうでもいい」


顔をそらして冷静に問い詰めるつもりだったのに、結局は怒りが強くなる。あいつはいつもこうだ。自分が良ければそれでいい。人の気持ちなんて考えもしない。そうやって冷静なところがクールだとか格好いいだとか言われているけど、何なの。何なの。何様のつもり。こんな、こんな風に、そう、いつもこんな冷たいことばかり言う。


「そういうところが最低だっていうの!」

「お前は好きでもないのにべたべたした結果だろ」

「好きだったよ!あんたの場合とは違ってね」

「好きの違いも分からなかったからだろ、ガキだな」


気が付けば椅子から立ち上がって、いつものように日吉を目の前にしていた。あいつも鋭い目で私を見下ろしている。いつもそうだ。いい気になってるんじゃないわよ、冷たくて、利己的で、そのくせ嫌に目立って私の邪魔をする。腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ。嫌いだ、大嫌いだ。


「あんたは気が付いてたんでしょ、笹本さんの本心」

「それがどうした」

「そのくせ酷く傷つけて、最悪じゃない」

「お前には関係ない」

「ある!そのせいで私がどんな風に言われてるか分かってんの!?」


噛みつくように文句を言っている間に、涙が出てきそうだった。何でこんな気分なんだろう。悔しいのか、悲しいのか、憤怒か、憂いなのか。八つ当たりなのかもしれない。もう今更言っても仕方がないことだ。でも、でも。それとも吉村とはもう話せなくなってしまったという変化の中で、日吉とは未だにこうやって喧嘩をしているという日常に安心しているのか。分からないことだらけだ。笹本さんのことも、吉村のことも、日吉のことも。忍足さんに言われたことも分からないまま放っておいて、でもそれは確かに自分に影響しているのだけれど、でも自分でも自分が分からない。
こうして言葉をぶつけて、嫌いだと言い合って、それは確かな事実だというのに。


***


「何って、決まってるでしょ……首のこと!」

「お前がうざいのが悪い」


いつもの声色で即答する。そう、お前がうざいのが悪い。あいつはいつもこうだ。美人でもない、気立てもよくない、清楚でもない、うるさい、騒がしい、そのくせいやに目立って俺の邪魔をする。大嫌いだというのに、また。

文句を言われている間に、あいつは泣きそうな顔をしていた。最近よく見る顔だ。なぜ怒りながらそんな顔をしているのか全く理解できない。笹本の方がまだ分かりやすかった。何がいいたいんだこいつは。
泣き顔が美しいのは美人だけだ。そんな言葉が浮かんでくるが、そう言ったところでどうせ「泣きたくて泣いてるんじゃない」だとかそんなくだらない言葉が返ってくるだけだろう。


「だいたいあんたがあんなことするからでしょ!」

「お前がうざいのが悪い」

「それなら殴るなり蹴るなりすればいいでしょ!?」

「残念ながらそれをやったら破門になるからな。それにいいのか」

「何が」

「古武術で手を出されてただで済むとは思うなよ」

「思ってない!でもあんなことされるよりマシだったのに」


この女の問いをあしらうのはたやすいことだった。なにせ感情的な女だ、頭がいいわけでもない。だが、自分はどうだ。自分に対する問いならば。ぐるぐると内心をうずまく感情にも跡部さんの問いにも正答が見つからない。軽くあしらったところで問いが消えるわけでもない。それに、今はもう一つだけ正しい答えが見つかっている。
俺は、ごまかしている。


「なんで、なんで、あんな首に、あんなことをして」

「お前だって俺の腕に傷つけただろ。それでおあいこだな」

「そんなんで納得いくわけないでしょ」


正答なんて口に出せるはずはない、自分にだって理解できない。なぜ首を噛んだのか。衝動としか答えられないが、それは答えになっていない。それなら他の方法だってあったはずだ。だが普段はあんなことはしようともしたいとも思ったことはない、それだけに自分の行動が不可解でたまらない。


「相変わらず感情的だな」

「うるさい!」

「ならちゃんと説明してみろよ」


答えを出せないという事実が、それでも越川はまた喧嘩を売ってきて、俺はそれに答えて喧嘩をしているという事実だけが、確かなものであるような気がした。あいつは俺を睨み上げる。俺もまた遠慮せずにあいつを睨み返す。昔から変わらない、あいつとの喧嘩をするときの作法。


***


越川さんと日吉。部室に二人っきりになったまま、十分が経った。普段ならあり得ない長さだ。笹本さんが泣いたとかいう噂もあったから、もしかして二人の関係が進んだんやろか。もしかして、ええ雰囲気なんやろか。そんな推測をする。悪趣味だとは思いつつ、俺は野次馬根性を発揮してそっと部室に近づいた。もうコート内にいるのは、日吉と越川さんと、少しのレギュラーだけだった。

ドアの前で聞き耳を立てる。……甘い言葉の代わりに喧嘩腰の声が飛び交っていた。


「なあ、跡部、あの二人、部室に入ったまま出てこんのやけど」

「ようやく素直になりやがったか、あーん?」

「喧嘩みたいな声聞こえんで」


跡部は黙って部室のドアに近づくと、立ち止まって様子を伺う。声が微かに漏れ聞こえてくる。ぐっと跡部が拳を握り、そこに青筋が浮いたのを見て俺はあちゃあ、と天を仰いだ。そのまま拳を握りしめている跡部に耳打ちをする。


「あー……跡部、この二人、もしかしてホンマもんの天敵やったんと違うん」

「そんなはずはねえ。俺様のインサイトに間違いはない」

「しめしつかへんから虚勢はっとるだけとちゃうやろな」

「……」


まあ、ともかく止めに入ろか、と俺は軽く跡部の背を叩いてから部室の扉を開けた。
本当に、分からん二人や。そう心の中で独りごちる。最も、男女の間のことなんて他人には分からないと相場が決まっているものだが。


(20110807)

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