大嫌いな君へ | ナノ
溢れた水の行く末は

いつ拮抗が崩れるのか、いつ事が起こるか。張り詰めていた空気が、かろうじて日常の領域にとどまっていた日常が、ついに決壊した。


「越川さん。話があるんだけど、いい?」


話かけてきた女の子――笹本さんの親友である彼女の落ち着いた声、特に大きくもないはずのそれに教室の空気がざわりと揺れた。みんな、普段通りのふりをしようとしながら明らかにこちらに注目している、そんな居心地の悪さがじわじわと広がって教室中を占領する。ついにきたか。どうなるのかしら。そう言いたそうな視線があちらこちらから、確かに、しかし目立たぬようにちらちらと飛んでくる。
友達とおしゃべりしていた私は嫌々ながら顔を上げた。真剣な瞳とかち合う。彼女は怖いくらい真面目な顔をしていた。

目の端で、教室から出て行こうとしていた吉村が立ち止まるのが見えた。笹本さんと日吉はいなかった。

一つ頷くと私は黙って席を立った。自分の顔がこわばっているのが分かる。私だって言われなくても分かっている。日吉のことだろう。いつかは、向き合わなければいけないことだった。












着いた先は人通りの少ない校舎の端っこで、そこには笹本さんが立っていた。なんてベタなんだろう。薄暗くはないけれど人があまり通らないところで、校内では有名な呼び出しスポットだ。ある人は心を躍らせて来、ある人は憂鬱な気分で来ただろう。じゃあ、私は。私は一体どういう顔をすべきなのか、自分のことなのに分からない。

女の子は笹本さんに何かを言うと、私の顔も見ずに去っていった。笹本さんの目は腫れていた。泣いたのかなあ。やっぱり、日吉のことかなあ。人ごとのように考える。冷たいけれど仕方がない。私は私であいつとの間に抱えた問題で頭がいっぱいなのだ。

彼女と目があった。目が腫れていても彼女は相変わらず透き通るように美しい。あいつは彼女と付き合ってたんだよね。『あれ』のせいで日吉は振られたんだろうか。でも笹本さんが泣いているってことは、違うのかなあ。こうやって笹本さんと向き合う日がいつかは来るだろうと思っていた。でも一体、私に何が言えるというのだろう。


「越川さん。ねえ」


彼女は言葉をとぎらせて、指で目をぬぐった。大きく切れた目尻、それを縁取る濃いまつげからどんどんと雫が溢れ出てくる。彼女はまるで涙を私に見せまいかとするように、必死でこらえて隠そうとしている。
私はただそれを眺めていた。私が慰めるのは、場違いだった。


「越川さん、はっ。わ、若と、付き合って、る、の?」

「……付き合って、ないよ」


ゆっくりと明確に、噛んで含めるように否定する。そう、付き合ってない。付き合ってなんかいない。それは本当だ。笹本さんが日吉に向けていたような感情なんて持ち合わせていない。嫌いだ、あんなやつ、大嫌いだ。誰になんて言われようとも。


「本当?」

「うん」

「それなら、放課後、いっつも一緒にどこへ行ってるの?」

「えっ」


水の滴ったガラス玉のような目を向けられる。私はたじろいだ。彼女の瞳は悲しさだとか悔しさだとか辛さだとか、深く沈んだ感情を言葉よりも雄弁に語っていた。
笹本さん、本当に日吉のことが好きだったんだ。
分かっていたことを今更のように思い出す。ずっと自分は被害者だと思っていたし、悪いのはあいつだって今だって思っている。でも彼女からしたらどうだろう。加害者は私なんじゃないのか。
しゃくりあげるのを押しとどめて、彼女は絞り出すように言う。


「一緒に、どこか、いってたんじゃ、ないの?」

「違う!あれはそんなんじゃなくて」

「じゃあ、なんなの?」


私は詰まった。どうしよう。テニス部で生徒会の雑用をしている。そう言ってしまうのは簡単だけど、正直、言いたくない。テニスコートに最近ずっと入っていただとか、跡部先輩と竹内先輩の連絡役をやっているとか。それが噂になって広まったら、それはそれで根掘り葉掘り聞かれることになるだろう。……それでも、日吉とのことを誤解され続けるよりはましだ。
しばらく沈思した後、私は思い切って全てを告げた。


「だから、テニスコートに入るためってだけだから」

「……じゃだめなの」

「え?」

「私じゃだめなの。生徒会の雑用をするの、私じゃだめなの」


予想外の言葉にぎょっとして顔をあげると、彼女は白くなるほど唇をかんで手を握りしめていた。


「それは……私じゃなくて跡部先輩か竹内先輩に言ってもら」

「若の!若の、そばにいるの、は」



どうして、あなたなの。



ぽたり。また、彼女の目から涙がこぼれた。彼女は私を責めてなんかいない、ただ悔しくて悲しいのだ。彼女の利己的で不合理な無音の叫び。ずっと好きだったのに。好きなのに。若のそばにいるのは私のはずだったのに。なのに、それなのに。どうしてあなたなの。私じゃなくて。そんな声なき声が私に突き刺さって、無数の傷を付けていく。

私は泣きたくなった。そんなの知らないよ。泣きたいのはこっちだ。私にだって分からない。嫌いだ。嫌いだ。大っ嫌いだ。大嫌いなんだよ、それなのに、なのに。あいつが嫌いで、喧嘩ばかりして、あんなことになって、教室の居心地が悪くなって。生徒会に入れてもらって、居場所ができて、雑用とはいえこんな自分にもできることがあるのだと、ようやくそう思えたのに。それなのにいつの間にか私はまた日吉の近くに居ざるを得なくなっている。元凶だと思っているあいつから離れようとあがけばあがくほど、蜘蛛の糸に絡まる羽虫のようにどんどん距離が近づいていく。

心に抱えすぎて消化できぬほど大きくなった感情を、誰に向ければいいか分からない感情を相手に向けている。私も、彼女も。威勢がいいのか悪いのか、私たちはつっかえつっかえ話す。


「ほんと、に、それだけなの。この前のあれ、キスし」

「してない!本当だよ」

「じゃあ、なにを」


それは、と言葉を濁して私は押し黙った。キスなんてしていない。本当。それは本当。……でも、首に口を付けられたのも本当だ。口づけなんて甘いものじゃないけれど。それはそれで言いたくない。笹本さんには。言えることじゃない、こんなこと。なんで、どうして。私だって知りたい、どうしてこうなっちゃったんだろうって。
ふと、頭の片隅で疑問が生まれる。笹本さんと日吉は付き合ってたんだよね。今も付き合ってるなら日吉に問い詰めればいいし、別れたならば話あったはずだ。なんで私に聞くんだろう。彼氏に嫌われたくないとか、わずらわせたくないとか、そういう女心なんだろうか。










何を言えばいいのだろうか、ぼんやりしていると笹本さんが突然私の後ろに視線を向けた。後ろから足音が聞こえる。振り返るとそこにいたのは、私を呼び出した女の子。そして女の子の奥にいた人物を見て、私はまた泣きたくなった。悲嘆なのか憂いなのか、それとももっと別の感情なのか分からないけれど怒りはわいてこなかった。ただどうしようもなく、やるせない気分になる。
女の子は笹本さんに耳打ちすると、私たちから距離を置いた。


「何の用だ」


連れてこられたあいつはかなり不機嫌だった。びりっとした日吉の声色に、笹本さんは身をすくめた。そういえば笹本さんにはいつもやさしかったもんな、あいつ。喧嘩ばかりしていた私には聞き慣れたものだが、彼女はこういう声を投げつけられたのは初めてなのかもしれなかった。


「ねえ、……若、どういうことなの」


彼女は形のいい唇を歪めて日吉を見つめた。こんな時でも彼女は綺麗だ。私のすぐ近くにいる日吉が苛立った空気を醸しだしたので私はひやりとした。自分が喧嘩をしているときは平気だったのに、不思議なものだ。自分も当事者だというのに、頭の片隅に冷静な私がいる。
日吉は無神経なことを言って笹本さんを傷つけたりまた余計な誤解を与えたりしてしまうんじゃないか。それに、日吉に問い詰めるなら最初っから私はいらないじゃないか。恋人同士の痴話喧嘩は2人っきりでやってほしい。今のうちにどこかへ逃げてしまいたい。
彼女が日吉に詰め寄る。あいつは盛大に舌打ちをした。


「若、越川さんのこと……好きなの?」


私はぎくりとして、さまよいかけていた心が一瞬にしてその場に引き戻された。そんなことはない。ただ一言そう伝えればいいだけのことなのに、空気がさっきよりも張り詰めているような気がした。笹本さんは真剣な顔をしてあいつを見つめ、あいつは相変わらず面倒臭そうに彼女を眺めている。


そのままあいつは一言、言い放った。










「お前には関係ないだろ」










あいつは不機嫌そうな顔のままで、言う。

笹本さんが目を見開いた。

私は、自分の口がからからに渇いていくのが分かった。


(20110722)

[back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -