大嫌いな君へ | ナノ
『なんでや』
コツコツと二人分の足音が閑静な住宅街に響く。ときどき通る車の音、家の中から聞こえてくるテレビや人の声、たまにすれ違う人の足音、そんなもの以外には枯れ葉が転がるカサカサというわびしい音くらいしか聞こえない。
私は隣を歩く男をちらっと見た。彼は長めの髪をなびかせて飄々と歩いている。視線を感じたのか、ん、なんや、と問うてくる彼に首を振って見せた。
結局、一緒に帰ることになってしまった。今日は雑用が多くて部室から出るのが遅くなったのだが、そんな私を見て彼は「駅まで送るわ」などと中学生男子らしくもない台詞をのたまった。
(ええっ!いやいや、大丈夫です)
(遠慮せんとき、女の子なんやさかい一人やったら危ないで)
(そんなお気遣いもったいないですから!駅までそんなに距離ないですから!他の人に見られて後で噂されるの嫌ですから!)
(……本音、最後だけやろ)
最後には、もうこの辺にはテニス部くらいしかおらんし話してみたかったんやと押し切られた。そこまで言われれば断る理由もない。一体何を話すんだろうと緊張していると、彼はとんでもなく嫌な話題を振ってきた。
「まだまだレギュラーには届かんけど正直ここまで伸びるとは思わんかったわ。これからやな、日吉は」
「はあ」
「知っとるか?あいつ、なかなか努力家なんやで。自主練のときでも最後まで必死に練習しててな、1年でそこまでやるのは日吉と鳳くらいや」
「はあ」
彼はあいつを褒め続ける。ムラっ気もなく精神的にもタフだとか。体力はまだまだ足りないが集中力が人一倍あるとか。何でもないふりをしながら水面下で作戦を立てて実行するのが上手いとか。聞きたくもない話が続くので、つい私は話を遮ってしまった。
「そうですかね、あいつすごく感情的じゃないですか」
「感情……うーん、それは越川さん相手やらかと違うかなあ。いや、ええわ」
そうだ、あいつはすごく感情的だ。私には嫌悪感むき出しだし。忍足先輩は過大評価なんじゃないだろうか、あの人間的にもよくできた鳳くんを褒めるなら分かるけど。あいつはそんなにすごいやつじゃない。確かにあのテニスはすごかったけど、それだけだ。テニス部にテニスが上手い人なんて山ほどいるじゃないか。
それでも忍足先輩はあいつを褒め続ける。私に話したいのってこんなこと?ただ同じクラスだからってなんでこんなことを私に言うわけ。褒めたいなら本人に言えばいいじゃない。段々心にもやもやしたものが溜まってくる。
「へえ、忍足先輩は日吉みたいな男が好みなんですね、初めて知りました」
「そうそう、ああいう男子がタイプ……ってそんなわけあるか」
さすがは関西人、彼はいつもの低くて大人びた声のままナチュラルなノリツッコミを披露してくれた。彼は呆れているけれどそれくらい許してほしい、大嫌いなあいつの話ばかり振ってきたんだから。
「人で遊ぶなや。俺が好きなんは脚の綺麗な子や、もちろん性格の良さは言わずもがなやけどな」
「そんなこと聞いてないです……」
全く、忍足先輩は何を言いたいんだろう。忍足先輩とはコートで一回話したきりだし、私は脚が綺麗な女の子でもない。ことさら性格が可愛らしいわけでもない。だから、彼の「話してみたかった」には何か裏がある気がしてならない。
もしかして、笹本さんの日吉に対する恋を応援してたんだろうか。それで私と日吉の噂を確かめようとしているとか。それなら面倒臭すぎる。
「で。忍足先輩は、今日はなんでこんな話をしているんでしょうか」
「そら、越川さんと話がしたかったからや」
「何でですか?」
「まあいろいろあるやん」
忍足先輩は物腰は柔らかい上にノリが良くて話しやすい。西の天才と言われるほどのテニスプレイヤーなのに気取ったところも偉ぶったところもないし、気軽に話ができる。でもいまいちよく分からない人だ。ぬるっとしていて掴みどころがない。問い詰めようとしてもかわされてしまってうまく答えが聞き出せない。
彼はあまり表情を変えない。無表情ではなく穏やかな表情をしているのだけれど、心から笑っているという風でもない。どんな言葉をかけてもちょっとしか表情が動かなくて、その顔のまま辛辣なことから面白いことまで言ってのける。一種のポーカーフェースなのかもしれない。
「越川さん。俺が何考えてるか知りたいか?」
「その台詞ちゃらいですね。俺をお前に教え込んでやるよ!みたいな」
「うっ、厳しいなあ。そういうつもりやのうて」
何を言い出すんだこの人は。そんな台詞、乙女ゲーの口説き文句くらいにしか聞いたことがない。胡乱げな目つきをして見返すと、彼は口をへの字に曲げてゆっくりと首を振った。そして急に真面目な顔つきをした。
「なあ。日吉とキスしたんやろ」
「はあ!?」
私は愕然として目をむいた。ぐるりと首を回して忍足先輩を凝視する。彼も真剣な目つきでこっちを見ていて、視線ががっちりとかみ合った。沈黙。彼は目を反らさない。
私は目を反らしてため息を吐いた。他の先輩になら喰ってかかったかもしれないけれど、なんだかこの謎めいた先輩に言われると怒る気にもなれなかった。
「忍足先輩もですか……してないですよ。するわけないです」
「そういう噂で持ちきりやで」
「根拠のない話を信じる人なんて嫌いです」
「まあまあ、そんなに怒らんといてえな」
怒ってないです、呆れてるだけで。じろりと彼を睨み付けると、彼はもうとっくに私から視線をそらして明後日の方向を見ていた。聞いてるのかこの人は。誤解されてまた噂が広まったらたまらない。私は仕方なく、どうしてそんな噂が立ったのか正直に話した。
何か言われるかと思ったが無反応で、普通の人だったら慌てそうな話なのに彼はどこを吹く風だ。首に噛みつかれたという話をしても驚かない彼に疑念がわく。
「先輩、私とあいつがキスなんかしていないってこと、本当は知ってたんじゃないですか?」
「さあ、どやろなあ。知らんかったけど知ってたような。……で?」
「はい?何ですか?」
彼は少し口を持ち上げてかすかに笑った。にこりというよりもニヤリという効果音が似合いそうなそれに嫌な予感が走る。
「で。好きなんか、日吉のこと」
「いやいやいや!なんでそうなるんですか!喧嘩もするって今言ったじゃないですか、私大嫌いなんですよ!?あいつのこと」
「へー、ふーん、ほー。嫌い、なあ」
頭のネジ外れてるんじゃないかこの人。テニスでは天才だとか策士だとは言われてるけど他人の話理解できないんじゃないか忍足先輩って。失礼なこと考えているのは分かるけれど、またとんでもないことを言い出しそうだ。分かってないような口ぶりだし。
「ほんなら首噛まれて嫌やったんやな?」
「もちろんですよ。屈辱でしたよ、無理矢理あんな」
「ふーん、屈辱、なあ。嫌がって逃げる女の子を追っかけて捕まえて無理矢理なんて日吉も酷いやつやな」
「え?え、いやさすがにそういうわけじゃ」
それや。
突然彼はパン、と両手を打って宣言した。驚いて足を止めると、彼も止まってしっかりこちらを向いた。真正面から対峙する。弱い北風が吹いて彼の長い前髪を揺らした。
「ほんならなんで抵抗せいへんかってん。1回目はともかく、2回目――ほら跡部が目撃したときのは抵抗できたやろ」
「げっ跡部先輩喋りましたね余計なことを!!……抵抗しましたよ。でもさすがに男子には力負けしますから」
「普通、怖ない?嫌いなやつに首に口付けられるとか気持ち悪すぎて鳥肌もんやんか。俺がもしそんなんされたら全力で逃げるで」
真正面から見据えた忍足先輩の目は予想以上に鋭くて、私はたじろいだ。穏やかな口調のままなのに、詰問されて自白させられているような気分になる。
「抵抗しても力負けすることくらい分かってたやろ。それなのに逃げへんかってんやろ。なんでや」
私は絶句した。忍足先輩の鋭い視線に耐えきれなくなって目を地面に落とす。目の前を、カラカラと不安定な音を立てて丸まった枯れ葉が転がっていった。
なんでって、だって。
だって、だって。なんで逃げなかったって、だって。あいつに対してはそんなことしないよ、喧嘩してるんだから。当たり前じゃないですか、だっていつもそうだった。真正面からぶつかることはあってもしっぽを巻いて逃げるなんて、そんなこと。
「それに、無理矢理されて屈辱ってどういうことや。無理矢理やなかったらええってこと?」
「なっ、そんなつもりじゃ」
「ほなどういうことや。嫌悪感よりも屈辱感の方が強そうやけど、そこも俺から見たら不思議なんやで」
話しやすいなんて、前言撤回。この人苦手だ。なんでこんなに問い詰められなきゃいけないんだ。混乱した頭でそう思うけれど、一向に問いに対する答えは出てこない。
逃げなかった。確かに逃げなかった。首を噛まれて屈辱で、その感情は確かで、でも忍足先輩は普通は屈辱じゃなくて鳥肌ものの嫌悪感だって言う、でも確かに私にはその感情はなかったと思う。たぶん、日吉にも。
「なあ。越川さん、本当は日吉のこと好きなんちゃうん?」
丸眼鏡の奥の鋭い目が、私に痛いほどの視線を向けているのが分かった。手が汗ばんでくる。少し手を開くとその汗が冷えて、その凍えるような冷たさだけが確かなものとして感じられる。
ま、ぼちぼち考えたらええわ。この話はオマケや、行くで。本当に話したかったのはテニス部の雰囲気のことでちょっと部外者に意見聞きたたくてな――
彼は私の方にぽんと手を置いて歩くのを促す。こわばった体をなんとか動かして彼に続く。元の調子に戻って語られる彼の言葉はもう私にとって何の意味もなさず、ただ頭の中には問いかけだけがぐるぐると渦巻いていた。
(20110710)
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