大嫌いな君へ | ナノ
ウラオモテ

「日吉、もうそろそろあがれ」


ふと気が付くと周りには誰もいなくなっていた。集中しているうちにすっかり日も暮れて、コートは巨大な照明に白く照らされていた。額から垂れた汗がほほをつうっと伝って顎から落ちる。汗は温度の低い空気に冷やされ、息は白く濁って夜空へ上る。
振り返ると、伸びた自分の影の先に跡部さんが立っていた。みな自主練を終えたのか他の部員はほとんどいない。彼もまたジャージ姿で汗を流していた。


「閉門時間ぎりぎりだ、着替えずにそのままコートから出ろ」


俺が荷物を持って部室から出ると、跡部さんが直々に戸締まりをした。部長が仕事をしているのに先に帰るわけにもいかず、かといって鍵を持っていない俺にできることもなく、仕方なく跡部さんの後ろに付き従う。


「駅まで付き合え。話がある」

「はい」


話とは、何のことだろう。来年の役職決めのことか。部長は跡部さんに決まっているが、会計係だの何だのと他の部員がすべき仕事はたくさんある。この人選がまた面倒で、いいかげんなやつに任せると部活が上手く回らなくなる。


「なかなかやるじゃねえか、越川は」

「……は」


いきなり越川の名前が出てきて、俺は面食らった。思わず跡部さんを横目で見るが、いつもの余裕綽々といった表情を浮かべているだけで、他には何も変わりがない。重要な話じゃなかったのか。何で越川なんだ。


「能力値は普通だな。格別優秀でも何でもねえ。だが馬力はある」

「そうですか」

「生徒会で効率よく仕事をこなすには、ああいう人材がもっと必要だ。地味な仕事しかできなくとも、それを正確に大量にこなせるやつがな」

「……そうですか」


俺にお構いなしに跡部さんはあいつのことを語る。余裕の笑みを浮かべて、あいつのことを語る。まさか部長に失礼な態度を取るわけにもいかず、俺は仕方なく適当に相づちを打った。
住宅街の窓に移るオレンジの光が暖かさを演出する。無機質な街灯で照らされた灰色の通学路とは大違いだ。俺はマフラーに顎を埋めた。はあ、と息を吐き出すとそれが跳ね返ってきて顔に当たった。


ふと、あることを思い出して俺はぎくりとした。


笹本。前にこうして一緒に駅まで帰ったこともある。思えば最近は全然話しかけてこない。目も合わない。どうでもいいことだが、笹本と親しいやつらに何かを訴えられるように視線をよこされていた気もする。


「気に入ったぜ。もう少し能力があれば生徒会の総務課にでもスカウトしてえところだ」

「それは良かったですね」


全てが変わったのはあの日からだ。結局そこに行き着く。俺とあいつが喧嘩をして、それを笹本と吉村に見られてから。そして、その後俺はあいつとテニスコートまで一緒に行かなければならなくなった。笹本と話さなくなることも吉村に避けられることもどうでもいいが、周りの目は鬱陶しい。
笹本さんをふったの。なんで、どうして。越川さんと付き合ってるの。いつから。なんで。どうして。喧嘩してたんじゃないの、嫌いなんじゃなかったの。


うるさい。お前らには関係ないだろ。


跡部さんは一体何がしたいのか、あいつについて長々と語る。
俺様に媚びるでも怖じ気づくでも毒を吐くわけでもないところもいいじゃねえか。ま、言えば普通だな。だがその普通さが力になることもある。生徒会に必用なのは優秀な人間だが、それだけじゃあ組織は動かねえ。

しぶしぶ話を聞いていた俺は段々イライラしてきた。どいつもこいつも越川、越川、越川。なんでわざわざ俺にあいつの話をしてきやがるんだどいつもこいつも。鳳にでも言えばいいだろうが。テニス部にいればあいつのことなんて聞くことも見ることもなくて済んだのは、もうとっくに昔の話になってしまっている。こんなところまで入って来やがって。どこまで邪魔をする気だあの女。


「いいのか?」

「はあ?別に好きにしたらいいじゃないですか。俺には関係ないことですよ」


どうでもいい。だがどうでもよくない。どうでもいい。どうでもよくない。好きにすればいいだろ。勝手にしろ。勝手なことするな。迷惑なんだよ。

突然、ふっと跡部さんが鼻で笑った。


「何ですか」

「イライラしてるな、お前」

「俺はあいつが嫌いです。申し訳ないですが聞きたくないんですよ、不愉快なので」


かろうじて感情を抑えて、できるだけ普通の口調で伝える。鳳相手なら感情の赴くままに言ってもいいだろうが、先輩に対してはさすがにまずい。これは俺とあいつの問題だ。


「……なんですか、さっきから」

「嫌いだと?」


くくくっと喉を鳴らす跡部さんをじろりと睨み付けて、若干強い口調で問う。彼は笑いを含んだ声で問い返してくる。


「ええ、その通りです。憎いくらいですよ。いっそいなくなればいいのに」

「ふん、本心のようだな。だがそれは別の感情の『裏側』にすぎない」

「意味が分かりません」


本当に意味が分からない。俺は眉をひそめた。本心なのに裏側?どういうことだ。


「人の持つ感情は一つじゃねえ」


跡部さんはちらりと横目でこちらを見た。その上から投げかけてくるような余裕の笑みがまた腹立つ。


「例えばお前が今、正レギュラーになったとする。どう思う」

「そりゃあ嬉しいですよ」

「そうだ。だがそれだけじゃねえはずだ」


跡部さんと目があった。薄い青。顔は笑っているが目は本気だった。


「嬉しいだけじゃねえ。達成感、今までの努力が報われたという安堵感、強さを認められたことへの自負、そういう感情もわくだろう」

「まあ、そうでしょうね」

「それならまだ簡単だが、相反する感情が裏表になっているということもある」


俺はときどき相づちを打ちながら、黙って話を聞いた。
あいつの話から感情の話。話題がころころと変わって何が言いたいのかさっぱり分からない。最初はてっきり、俺があいつと同じクラスだからあいつの話をしたのかと思ったが、「駅まで付き合え」と誘ってまで言うほどのことではないだろう。跡部さんは強引だがかなり論理的な物言いをする。だから二つは繋がった話なのだとは思うが。


「矛盾した感情が一人の心の中に存在しうるということだ。例えば羨望と嫉妬。己への賛美と卑屈さ。一見正反対に見えて、密接なつながりがあり表と裏の関係にある。――嫌い、という感情もまた表と裏の片面だ」

「何がいいたいんですか」


聞いているうちにまたイライラしてきた俺は、跡部さんの言葉を遮るように言った。
もうすぐ駅につく。駅前の商店街が近くなってきた。冬の夜にも盛況なようで売り買いの声やら人の声やらが大きくなってきた。


「もう分かってるんだろう?」


跡部さんは街灯の下でスポットライトを浴びるように足を止めた。両手をコートのポケットに入れたまま体ごと振り返った。対峙することになった俺は正面から彼を睨み付けた。
確かにもう分かっている。ふざけんな。何も知らないくせに。


「好きなんかじゃありませんよ。感情の裏表って話は理解できますが、ふざけたことを言わないで下さい」

「ふざけてねえよ」

「ふざけてますよ!」

「それならばなぜ首を噛んだ。なぜ噛み跡なんざ残した。お前がやったんだろうが」


俺は、絶句した。


「嫌いなやつの首に口を付けたいと思うやつなんざいるかよ。俺様のインサイトをごまかせると思うなよ。もう一度聞く。『なぜそんなことをした?』」


行くぞ、と声を掛けられて、頭が真っ白になったまま俺はただ足を動かし跡部さんの後を付いていった。
あいつの話。感情の裏表。好きと嫌い。あいつの首。鼻先に触れる皮膚の熱とシャンプーの香り。柔らかな感触。


「ま、よく考えることだな。この話はオマケだ、本題はお前のテニスのことだ。監督の読み通り、プレイスタイルを変えてから――」


跡部さんは俺の様子を鼻で笑うと、あっさりと話題を変えた。


(20110630)

[back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -