大嫌いな君へ | ナノ
侵食は進む

幸い、私がテニスコートにいるところは誰にも見られなかったらしい。今更だが、見られていたらと思うと恐ろしい。どうやって中に入れてもらったの、から始まり次から次へと質問攻めにされるに違いない。そして私が何を言おうとも、「日吉と付き合ってるから入れてもらったんでしょ」という結論にされるに決まっている。
見られはしなかった、それでも、私の生活はまだまだ平和にはいかなかった。


「ほんとすごかったね、日吉くん」

「綺麗だったよね!なんていうのかな、舞踊?演武?みたいで、おまけに強いし」

「……」


目の前の二人、教室における私の唯一のオアシスであるゆっことしろちゃんが、口々に日吉のことを話すのだ。昨日の今日だから仕方がないかもしれないけれど、でもなんとなく沈んだ気分になる。私を気遣ったのか、しろちゃんが優しく言う。


「ね、日吉くんってことを抜きにしてもすごい試合だったよ。準レギュラーの座を獲得するための試合だから、有里ちゃんも今日の放課後、一緒に見に行かない?」

「ありがと。でも今生徒会のお手伝いが忙しくてさ」


実は見てた、とは言いにくくて、私はごまかした。嘘をついているわけじゃない。部室で雑用やってるんですとは言いにくい。言えないことじゃあない、でも、本当だったら生徒会室にいたいんだ、私は。だって、日吉が。


「日吉といえばなんかさあ、有里、ちょっと柔らかくなったね」

「へ?」

「日吉の話題出しても憎々しい顔しなくなったじゃん。なになに、心境の変化?」

「憎々しい顔、ねえ」


私は半目になって、はあ、とため息をついた。そうかもしれない。でもそれは柔らかくなったというよりも、疲れているというか、混乱しているのだ。分かっている。分からない。ここ最近の変化について行けていない。この強固な相手を嫌う気持ち、それはずっと普遍で変わらないものだと思っていたのに、全ての根幹が今、ぐらぐらとゆさぶられている気分なのだ。分からない。何が分からないのかも分からない。日吉のことは嫌いだ。今もそのはずだ。でも分からないことがある。
全く、我ながらひどい状態だ。


「有里ちゃん、……まさか、本当に日吉くんのこと」

「やめてくれ」


私はもひとつため息をついて、机につっぷした。好きだってことはない。イライラさせられるだけだ。生徒会でお手伝いをして、そこが自分の聖域になるはずだったのに、気が付いたらテニスコートの近くにいることになって。同じく聖域だったはずのゆっことしろちゃんも日吉の話をしていて。誰も悪くないし恨むつもりもそんな気力もないけれど、いつの間にか、じわじわじわじわ、日吉に自分の場所を奪われている。


「昨日の試合で勝ってからさ、日吉、人気がうなぎ登りみたいだね。昨日まで何にも言ってなかった子までが日吉日吉って言ってる」

「格好良かったもんねえ、昨日のあの試合。日吉くん、先輩を倒したわけだし」

「日吉にも跡部先輩みたいにファンクラブできたりしてね」

「もう作っちゃおうか、うちのクラスの女の子で」


別に、誰かに憧れるのは普通のことだ。でもイライライライラ、その感情が止まらない。馬鹿みたいだ。そう思っているくせに、私はこれから毎日、日吉と一緒にテニスコートに行くのだ。あいつと一緒に行動しているとなるときっとまた、私たちはひそひそと噂を囁かれることになるのだろう。ありもしない妄想がむくむくと膨れるのだろう。

それでも、私はテニス部に行くことを拒みはしないのだ。できないのだ。
髪の毛を下ろして隠していた首の傷がずきりと痛んだ。私があいつに付けた傷もまた、痛むのだろうか。




***




俺が演武テニスをものにしたあの日から、越川は毎日俺と共に部室に来た。俺とあいつは一言も話さず、また、隣を歩くこともない。どうでもいい。どうでもよくない。どうでもいい。どうでもよくない。俺はいつからここまで煮え切らない人間になったのか。自分自身の気持ち悪さに反吐が出る。


「越川さん。今日もおつかれさま」

「そっちこそ。昨日、勝ったんだってね?おめでとう、話題になってたよ」

「え、そうなんだ?なんか恥ずかしいなあ」


越川は、ほとんどの時間をミーティングルームの片隅で過ごしているようだ。休憩時間や部活終了後に部室に入ると、あいつはいつも真剣な顔で書類やパソコンに向き合っている。ときどき跡部さんに何かを伝えたり、跡部さんと生徒会の間で書類を運んだりしているらしい。どの部員とも話そうとはしない。俺たちもあいつも遊んでいる時間などないから当たり前のことではあるが、その態度だけは、評価できる。最初はあいつの存在に戸惑っていた部員たちも、全く自分たちを意に介さない越川の様子を見て徐々に慣れていった。

例外なのが鳳だった。もちろん練習中に話すことはない。部活の開始前や終了後に話をしている。くだらない話を。本当にくだらない。鳳とあいつは、俺が予想していた以上に仲がいい。鳳の様子から推察するに、あいつがテニス部で作業をするようになるまではそれほど親しくなかったようだ。
その様子を見て、俺は吉村を思い出した。『あの日』以来、吉村はあいつと一緒にはいないようだ。だが、確かに鳳と吉村は似ていて、越川は前は吉村と仲が良く、今では鳳と。馬鹿馬鹿しい。どっちも、だ。



俺は二人の横を通って更衣室に入った。準レギュラー決定戦は今日もまだ続いている。俺は勝ち続けている。演武テニスにしてから、俺は自分の動きが格段に軽くなったのを感じた。思うがままに動き、相手を翻弄できる。だが、悔しいことに体力が足りない。これではまだまだ跡部さんには届かない。汗でぐっしょり濡れたシャツを脱ぎ、袋に放り込む。タオルを適当に濡らして体を拭く。冬だというのにほてった体には気持ちが良い。

二の腕を拭いたところでひっかかりを覚えて、肩をよじってそこを見る。小さな傷があった。あのときにあいつが残した痕跡。


「あれ、傷が」


いつの間にかあいつとの会話を終えて入ってきた鳳が、言う。
それは小さく、三日月の形をして、皮膚が裂けて青黒く染まっていた。軽く押すと神経に小さな痛みが走る。じわじわと、必死でテニスをしている時は気が付かないほど小さな痛みで、しかしふとしたときによみがえる確かな存在。俺はあいつの首に傷を付けた。それもまた、確かな痛みを与え続けているのだろうか。


「痛む?」

「なんでもない」


我に返って、俺はさっさと着替えた。なんてことない、この程度のもの。それなのに、俺が認識した傷口は確かにその存在を主張していて、無視をしようと服で隠そうと、確かにそこにあるのだと感じられる。何なんだ、こんなものが。
早く家に帰ろう。鳳に適当に声を掛けて更衣室から出、腹立ち紛れに勢いよく部室のドアを押す。ごつん。ドアに嫌な手応えがあった。


「いっ……」


しまった、と思ってドアをぶつけた相手を見る。越川が頭を押さえて立っていた。何だ、こいつか。


「ぼさっとしてんな、邪魔だ」


俺は振り返られる前にさっさと部室から出た。そして動かないあいつの横を素通りして、コートの出口に向かう。時々吹いてくる風が冷たい。まだ夜中という時間ではないのに、夜のとばりはすっかり落ちて、コートを照らす真っ白なライトがまぶしい。


「さいってい!あんたが悪いんでしょ、謝ったら!?」


あいつはバタバタと追いかけてきて文句を言う。馬鹿馬鹿しい。何もかも馬鹿馬鹿しい。


「鳳くんとは大違いね、同じテニス部員でもあんなに優しいのに」

「ふん、お前だって白田と違って可愛げがないだろ」


鳳と比べるな。ふざけるな。俺は鳳とも吉村とも違う。大違いだと?そうだ、その通りだ。だが何だと言うんだ。なんであんなやつらと同じ態度でこいつに優しくしてやらなきゃいけないんだ。何様のつもりだ。ふざけんな。
俺は歩みを止めて振り返った。あいつをギロリと睨め付ける。越川も俺のそばで止まって、むっとした顔で俺をにらんだ。


「鳳くんに対してもそうだけど、テニス部でもあんな態度とってるわけ?馬鹿じゃないの」

「余計なお世話だ。お前は、今度は鳳と忍足さんに媚びることにしたのか?跡部さんだけじゃ飽きたらず」

「私はそんなことしない!」

「ふん、どうだか。どうせテニス部に取り入りたかったんだろ」


苛立ちが止まらない。なんなんだ、こいつは。いったい俺にどうしろっていうんだ。こいつがミーハーでも異性に媚びを売るやつでもないことは分かっている、だが口は止まらない。八つ当たりなのか、正当な非難なのか、判別のつかぬままどろどろと心の中の苛立ちが言葉になって溢れてくる。

挑発されたのか。越川は右手を振りかぶった。

それが到達する前に、俺は難なくそれを片手で止める。遅い。暴れないように、力を込めて腕首を握る。あいつは顔をぐにゃりと歪めた。痛いのか。悔しいのか。俺は鳳とも忍足さんとも違う。優しくしてやる義理なんてない。叩きつけてやりたい。羽虫をつぶすように、この、馬鹿な女を。

――女の扱い方も知らねえのか。
――よく考えろ。

俺はひとつ舌打ちをすると、握りしめていたあいつの手首をゆっくりと解放した。本当に、こいつは人を苛立たせる。俺はきびすを返すと、動かないあいつを置いて早足でその場を去った。


(20110618)

[back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -