アフターハーレム | ナノ
習い事や勉強、趣味を新しくはじめたとき。最初はなかなか、上手くならない。

上手くならないと、だんだんやるのがつらくなってくる。

それでも頑張って続けていると、ある日ふと気づくのだ。


ああ、私、上達してるじゃないか。


何事にも努力と我慢が必要で。たとえ微々たるものだとしても、頑張っていれば、上手くなる。

さあ、もうちょっと。変化の端緒は、すぐそこにある。







戦慄




男子テニス部を描き始めてから、1週間が経った。
早くも木々には淡い緑の新芽が芽生え始め、桜の木はあっという間にみずみずしい若葉に覆われた。日が沈むのはだんだん遅くなってきたようで、部活が終わる時間でも、徐々に明るさを取り戻してきているように感じる。

由紀はふう、とため息をついて、手を止めた。早くカンバスに描きたいとは思うのだけど、構図がなかなか決まらない。私はもう少し、男子テニス部を知らなければならないのだろう。とりあえず、今日はもう終わりだ。

由紀はスケッチブックと鉛筆を鞄にしまった。

男子テニス部員たちも、着替えと片付けを終えたらしく、ぞろぞろと、コートから出てくる。
帰ろーぜ、つうか俺腹減ったわ、お前なんかよこせ、コンビニ寄る?明日英語テストじゃねー?
ふざけたり話したりしながら、由紀のそばにある出口を通って、ちりぢりに散らばっていく。

柳くんは真田くんに声をかけ、一緒にコートから出てくる。柳くんは私に軽くあいさつをすると、書道がどうの、道具を買いにいくが店がどうのなどと真田くんと話しながら、帰って行った。これから、筆でも買いにいくのだろうか。




私も、もう帰ろう。鞄を持って立ち上がったところで、長崎さん、と声を掛けられた。

頭を上げると、フェンス越しに、制服に着替えた幸村くんが立っている。


「長崎さん、これから帰り?」

「うん、そのつもり」

「俺と一緒に帰らない?」


由紀は予想外の誘いに驚いて、目を見開いた。
幸村くんの肩越しに、レギュラーと藤川さんがこちらにやってくるのが見えて、なおさら返事をためらってしまう。幸村くんは彼らと一緒に帰らなくていいの、かな。
そんな考えを読んだかのように、幸村くんは言葉を続けた。


「長崎さんといろいろ、話したいんだ」


由紀ははっとした。そうだ、話をしなくちゃ。まだ何も『観察の結果』はでてないけれど、それでも報告した方がいいだろう。結局、あの日美術室で依頼されて以降、ろくに話ができていない。私は彼の協力者なのに。

うん、とうなずいたとき、それに被さるようにして「優香!」という声が聞こえた。

見ると、仁王くんが藤川さんに後ろから抱きついている。


「ゆーか、一緒に帰るぜよ」

「うん!」


藤川さんは、本当に、心から嬉しそうな笑顔になった。藤川さんの肩から顔を上げた仁王くんも、相好が崩れている。
クールな彼でも、あんな表情をするんだ。

そのとき、藤川さんが大きな声で言った。


「みんなも、一緒に帰ろうよ!」


仁王くんの隣にいた柳生くんはちょっとうつむいて、眼鏡を押し上げた。眉尻がちょっと下がっている。


「申し訳ありません、私は今日も用事があって……」

「むー、そっかあ。比呂士は忙しそうだねー」

「すみません、いつも用事を済ませてから帰ることにしているものですから」

「んーん。じゃあ、比呂士はまた今度ってことで!ねえ、ジャッカルとブン太はー?」

「俺はもちろん大丈夫だぜぃ」

「あ、ああ俺も一応……」

「ちょっとジャッカルー、一応ってなによー?」

「そうだぜジャッカル、生意気だぜぃ?」

「そ、そういう意味じゃねえよ、」


わいわいと、彼らはこちらにある出口に向かってくる。
笑顔が広がる中、藤川さんはこちらを見た。


「せーいち、精市も一緒に帰ろ!」


ぎくりとして、由紀は幸村くんを見る。やっぱり、私は邪魔だろう。なんだか私が、チームの輪を乱しているみたいに感じる。

幸村くんは振り返って、あっさり答えた。


「ごめん、今日は長崎さんと一緒に帰るから」


彼女にとっても予想外だったのだろう、藤川さんは目を丸くした。


「ええ、一緒に帰れると思ったのにー」


レギュラーと藤川さんから向けられた視線にばつが悪くなって、由紀は目をそらした。そして一応、声を掛ける。いい訳じみてるけど。


「……なんか、ごめんなさい」

「あっ、長崎さん?だっけ?ごめん、そういうつもりじゃなかったの。気にしないで!」


優しい調子で返事が返ってきて、由紀はほっとする。良かった。


「ゆーかには俺がいるじゃろ」


仁王くんが後ろから藤川さんにほほをくっつけて、笑って言う。







その顔を見て、由紀は、背筋が凍った。






仁王くん、目が、笑ってない。


***


しばらく黙って、幸村くんと二人で一緒に歩く。

仁王くんの、あの、目。

声色も、表情も、仕草も、全てがいつも通りだったのに、異様に冷たい目をしていた。あの冷めた目。あれは一体、何?誰に対して、なぜ?


「長崎さん?」

「……あ、ごめん。考え事してた。えっと、テニス部の話だよね?」


今はまだ、仁王くんのことは話さない方がいい。変に気にさせてしまうとまずい。もう少し、観察してから報告しよう。彼のポーカーフェイスからどこまで読み取れるか、分からないけれど。


「いや、今日はその話じゃないんだ」

「え?」

「俺、長崎さんをこんなことに引っ張りこんじゃったのにさ、ぜんぜん君のこと知らないなあと思って」


そうか、そういえばそうだ。柳くんからはいろいろ聞いただろうが、そもそも知り合ったのがつい最近だ。メアドは交換済みだけど、メールは数回やりとりしただけだ。
でも私の方は、幸村くんのことをある程度知ってしまっている。妹がいるとか、焼き魚が好きとか、動植物が好きとか、ルノワールの画集を欲しがっているとか。……なんかごめん、幸村くん。


「そっか。じゃあ、まずは自己紹介からだね」


おどけて言うと、幸村くんはくすっと笑った。


「俺もね、実は絵が好きで――」


ほのかに薄暗い夕闇の中で、彼は何の悩みもないかのように、穏やかな顔をしていた。

(20101124)

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