アフターハーレム | ナノ
ここはおとぎ話の世界じゃない。
私たちはおとぎ話の登場人物じゃない。

だからこそ、ずっと仲良く幸せに、なんてできない。
永遠に同じ関係を保つなんて、とてもできない。

どれだけ彼らが努力をしても。
どれだけ私が努力をしても。


それでもまだ、道は先へ続く。







終わりの先へ




逃げないで、と言った幸村くんは由紀の顔をのぞき込んだ。彼の髪が顔にかすかに掛かる。


「どうして?私はテニス部員じゃないし、もう……」


からからに乾いた唇でようやく言葉を紡ぐけれど、出てきたのは不明瞭なものだった。違う、逃げてるんじゃない。だって、私。足が少し震える。


「だったらいけないっていうのかい」

「私、テニス部にあまり干渉したくない」


明確で、そのくせ曖昧に濁した言葉が漏れる。もう、だめだ。なんとかごまかしてごまかして、表に出ないようにしまい込んであった本音が漏れだしてしまう。これじゃあ、今までの努力が台無しだ。
その台詞を聞いた幸村くんは、ぎゅっと唇を引き結んだ。


「長崎さん、今までありがとう。それから、ごめん」


突然の謝罪に、由紀の心臓は再び拍動し始めた。ごめん、って、どういう意味だろう。混乱したまま顔を上げる。すこし近づけば触れられるくらいの距離にいる、彼。


「たくさん、負担をかけてしまった。心理的にも。君は真面目だから、俺たちのことで悩んでいるって知っていた。だから、ごめん。俺たちはおかげで助かったけれど、長崎さんからしたらつらかっただろう?」


そんなこと、ない。私は純粋にテニス部を助けたかったってわけでもない。自分のためにいい機会だと思ったから引き受けただけで。それに、嬉しかったのだ。間違いなく。私が重荷を背負ったのだとしたら、それは私が無理矢理背負わされたものではなくて、元々私が負うべき荷だったのだ。


「君は今でも悩んでいるんだろう、テニス部のことで。優香と夏美が辞めたこと。それから、俺との距離の取り方で」


彼は、俺たちとの、とは言わなかった。見透かされている。こんなところまで。ずっと、彼はテニス部の方に注力していたから、私のことになんて気がつかないだろうと思っていたのに。
驚いた由紀に、幸村くんはなんてことのない顔をして、相手を観察しているのは君や蓮二だけじゃないんだよ、とあっさり言ってのけた。


「余計なことをしたって思ってるんだろう。でもそれだって、優香のことと同じだ。どのような結果になったとしても、君は必然だったんだよ。俺にとって、俺たちにとって。そのおかげで今があるんだから」


必然だった。本当にそうなのだろうか。私が役に立ったと、私がしたことが良かったと、そううぬぼれてもいいのだろうか。こんな、私が。


「それにね、君はテニス部に干渉なんてしないだろう?」

「したくない、けど」

「なら大丈夫だよ。俺たちだってそう簡単に外から干渉されてしまうほど弱くない。テニス部全体だって成長しているし、いろんな意味で前よりもずっと強くなったし」


また少し、幸村くんが近づく。


「だから逃げないで、お願いだから。余計なことなんて何もない。……それに、君が俺と仲良くしてくれていたのは、君がテニス部に協力していたから?ただそれだけ?」


由紀は泣きたくなった。

違う、そんなわけがない、ただそれだけなんて、だって、私は。

由紀は全部ぶちまけて、叫びたくなった。私は好きだ、最初はつらいばかりだと思っていたけど今はもう大好きだ、今の自分を取り巻くすべてが、この世界が、家族が、友人が、キコが、テニス部が、幸村くんが。
でも、どうしてそれを声高に宣言できる?私がいくら相手を好きだったとしても、相手にとって自分が必要な存在かどうかなんて分からないのだ。トリップなんて妙な経験をして、どうしてトリップしたんだろうってずっと考えた、それでも理由なんて分からないまま時間だけが流れて、どうしてここで私が生きているのかさえ、神様しか知らない。この世界で生きようにも昔の記憶が邪魔をする、でもそれは簡単に捨てることなんてできないほど大切な思い出で、でもその思い出の存在は自分の異質さをはっきりと自覚させるもので。
中学生の長崎由紀として生きるために私は全てを飲み込むことにした、そうやって思い出さないようにして、それでようやくこの世界を受け入れるんだって。特にテニス部、私がトリップしたと確信するきっかけになった彼らの存在を受け入れるには、それしかないんだって。そういう結論にたどり着いて、その通りにしてきたのに。

それでもどうしても忘れられない昔の記憶があって、それはテニスの王子様に関することで、その記憶が変に作用してしまうかもしれないことも怖くて、だから彼らから離れようとしたのに。これじゃあ、離れることなんてできないじゃないか。


「もっと仲良くなりたいと思ったのは、俺だけだった?」


一歩を踏み出す足音がして、彼の香りをふわりと感じた。


「たぶん、違うよね」


自分の背中には、彼の腕。顔の横には、彼の顔。私の体の正面には、彼の体。幸村くんに抱きしめられていた。じわじわと、体中から彼の高い体温を感じる。
由紀は体をこわばらせた。


「君が何を考えてそういう行動をとったのか、どうしてそこまで人に踏み込みたがらないのか、まだ俺には分からない。でも、君が許すなら知りたい。俺は、長崎さんにもっと近くに来て欲しい」


彼は小さな小さな声で、そうつぶやいた。


「ただ助かったっていうだけじゃない。テニス部に協力してもらったからってだけじゃない」


幸村くんは、ぎゅっと腕に力を込めて、由紀を抱きしめた。これじゃあ、意味がないじゃないか。せっかく、頑張って距離を置いたのに。せっかく、思い出にして綺麗に残しておこうと思ったのに。呆然としたまま、由紀はつぶやく。


「余計じゃなかった?ろくなことができなかったのに」

「君は大きな役割を果たしてくれた」

「私、……いいの?これで」

「うん」

「私、」


私、この世界に居ても、いいの。それでも。
こつん。幸村くんの頭が、ゆっくり由紀の頭に当てられた。その固くて優しい感触。後ろにまわされた彼のてのひらが、ゆっくり背中をなでる。


「長崎さん、ありがとう。これからも」






俺の側に、いてくれるかい。



彼の声には、計算だとか魂胆だとか、感謝だとか負い目だとか、余計な感情がいっさいこもっていなかった。ただひたすら大きくて、暖かくて、優しくて。異性に対する媚びだとか虚勢だとか慰めだとかそういったものは一切なくて。
幸村くんの真摯な気持ちだけが伝わってきて。


大切な思い出であるほど、捨てられるわけがない。昔の私が見たもの、考えたこと、感じてきたもの、全てが大切なもので、私はそれを隠して生きてきたけれど、どうやったって捨てられはしなかった。
でも、捨てなくていいかもしれない。昔を捨てなくても今を受け入れてもいいのかもしれない。そうできるのかもしれない。できるはずだ。藤川さんが、仁王くんとの間に作った傷を抱えたまま前に進もうとしているように。高橋さんが、マネージャーを辞めてからもかつての人間関係を大切にしようとしているように。受け入れることも受け入れられることもできるはずだ。



ねえ、本当に感謝しているのは私の方だよ、幸村くん。



彼から伝わってきた熱が、『ここ』へ来たときからずっと固く閉められていた気持ちをゆっくりと融解させていく。熱いものはそのまま分解されて由紀のじわりじわりと体中に広がり、少しずつ、体温を上昇させる。
いいんだね、ここで生きても。

由紀はそっと目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、コートの側で一生懸命絵を描いている私自身。今なら中学生の顔をした私の自画像も描ける気がする。気がつかなかった。もう私は、とっくにこの世界を受け入れていて、とっくに世界に受け入れられていたというのに。


自分の両腕を彼の背中にまわして、ぎこちなく彼を抱き返す。
幸村くんがそっと微笑む気配がした。



もうすぐ、長い長い梅雨の季節が終わりを迎える。曇り空の下で雨に打たれていた木々は、これから来る夏の太陽の下で精一杯葉を伸ばし、その生命をはじけさせるだろう。この、咲き誇る前の生命エネルギーが存分にため込まれた時期に、誰かの恋が終わりを迎え、誰かの友情が変化を迎え、私の内面も誰かの影響を受けて、彼らの人生も変わっていった。

お伽噺ならもうとっくに幕が降りているころだろう。でも、私達の生活は終わらない。
痛みを背負ったまま、希望を胸に抱いて。喜びと悲しみの両方を感じながら、私達は前を向いて歩いて行く。私も、彼女も、彼も、彼らも、前へ向かって歩いて行く。


アフターハーレム、fin
(20110509)

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