アフターハーレム | ナノ
学者さんとか学識者とか、そういう類の人ってどうしてあんなに理屈っぽいんだろう。
ほとんど大丈夫ですと言ってくれればいいのに、「正確に言うと問題が起きる可能性も僅かに残っていて、でもそれはとても可能性としてはとても低いので云々」とか細かいことを言い出すんだ。
細かいことは分からないからいいのです。
欲しいのは学術的な正確さじゃなくて、不安定な自分に対する確固たるメルクマール、判断基準が欲しいだけ。
正確で詳細な情報は時に自分を不安にする。細かいことは分からないから、だから余計に不安になる。それじゃあ不安なままだ。
私が要求しているのはただ、おおざっぱでもいい、できるかできないか、正しいのか正しくないのか、それを測る基準が知りたいだけ。
私は正しいのか間違っているのか、どうすべきなのか、それが知りたいだけなのに。
不安定なメルクマール
切原くんは何も気がついていない。だからきっと、彼女が気がつきそうになっていることにも気がつかない。
「正直、俺もよく分かんないッス。幸村部長だけじゃなくて夏美先輩も変ッスよね、なんかぎこちねーっつうか」
「夏美も?」
「そういや優香先輩と仁王先輩が別れた後あたりからッスね」
高橋さんが変だったのは周りの人間関係を取り繕おうとしていたからだ。狂っていく歯車を必死で回そうとして。
藤川さんの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。手を口にあてて、目は見開かれている。こちらに声を掛けようとしていた幸村くんが、息を呑むのが見えた。
「俺の勘違いってこともあるッスけど……ってうわっ幸村部長!?いたんなら声かけて下さいよ!」
気がついた切原くんが、大声を出して飛び跳ねた。それなのに藤川さんは固唾をのんで動かない。彼女は少しだけ顔を幸村くんの方に向けた。彼女は青ざめたまま、どこを見ているかよく分からぬ目をしている。
「私、ずっと分からなかった。どうして突然、精市があんなルールを作ったんだろう、って。誰も何にも言わないし、夏美だって何にも」
「え?優香先輩?」
ただならぬ様子の彼女を見て、切原くんは焦っている。幸村くんは立ったまま、彼女の横顔を見つめていた。彼女の独白に由紀もまた何も言うことができなかった。きっともう彼女は気がついている。
「夏美のことも、反発のことも、全然気がつかなかった、何にも見えてなかった、自分のことで精一杯で」
遅かれ早かれこうなったのかもしれない、でもこんな形で彼女が理解することになるとは思いもしなかった。彼女の感情を殺した声は微かに震えていた。
「『私情を持ち込むことなかれ』って、なんでだろう、って……でもそれって」
膝の上に置かれた藤川さんの手が、しわになりそうなほど強くスカートを握りしめた。
「それって、私のせい?」
幸村くんが身じろぎをして、ゆっくり口を開いた。真剣な顔でまっすぐに藤川さんの方を向いた。
「優香、ちょっといいかい。話があるんだ」
彼の瞳は強い光を放っていて、でも同時に傷ついたような目をしていた。
じゃあ俺たちは席はずしますね部長、と素直に答えた切原くんののんきな声が、嫌に耳に響いた。
***
どうしようどうしよう、という言葉が体中を駆けめぐるけれど、私は結局何もできないまま幸村くんと藤川さんから離れた。逃げるように背を向けて。何かできないだろうか、でも何ができるのだろうかと自問自答をし続けて、結局何も答えが出られないまま、今ここにいる。
3階の廊下の窓から中庭を見下ろすと、幸村くんと藤川さんが向き合って何かを話しているのが分かる。中庭から走るようにここまで来たせいで、由紀の息は少し上がっていた。大きく深呼吸をして、もう一度中庭を見下ろす。彼らは一体、どんなことを話しているんだろう。
「長崎」
振り向くと、腕をくんでしかめっつらをしている真田くんがいた。
「精市を知らないか。さっきすれ違ったんだが」
「ああ、彼ならあそこ」
窓の外を指すと、それにつられて真田くんが視線を中庭に投げた。青葉を茂らせた木の葉の間から、幸村くんの姿がちらりと見えた。中庭か、と言ってきびすを返した真田くんを由紀は慌てて呼び止めた。
「待って。今ね、幸村くん、藤川さんと話をしてるの。二人で話したいんだと思う」
「何」
彼はぴたりと足を止めた。由紀はなんだか落ち着かなくて、心の中にたまったよどみを吐き出したくて口を動かした。
「幸村くん、真剣な顔してた。少し悲しそうだった気もする、分からないけど。藤川さんも、顔が青ざめてて、それで」
「あいつらは何の話をしているのだ」
「たぶん、男子テニス部で最近できた、あの新しいルールのことだと思う」
窓の方を向いている由紀の隣に、真田くんが静かに並んだ。自分と真田くんの姿がおぼろげに窓に反射する。窓を介して見た彼は、さっきよりももっと難しい顔をしていた。
「様子が変だったから気になったのだが、そういうことか」
またざあっと風が吹いて、中庭の木が揺れた。今度ははっきりと、木の下にいる藤川さんの姿まで見えた。由紀は小さく葛藤を吐き出してしまった。
「私、藤川さんに言うべきだったのかな」
「どういうことだ」
ああ、真田くんだって優しいんだ、幸村くんだけじゃない。私を気にかけている暇なんてなかろうに、それなのにこうやって私の話を聞こうとしてくれる。
「藤川さんと仁王くんのこと、それからテニス部のこと、私、藤川さんに伝えるべきだったのかな」
「なぜそう思うんだ」
「前に、藤川さんに聞かれたんだ。私、どこで間違えちゃったんだろう、って。その時は私にもよく分からなくて、何にも言えなくて」
あの雨の日に聞いた藤川さんの独白。そしてそれまで何にも関係なかった私と彼女の間に、一つの共有するものが生まれた。特に仲が良いわけじゃない、友達ともいえないくらいの関係で、でも確かに私たちは知り合って、簡単には人に言えない気持ちを伝え合ったはずなのに。
「でも今は違うのに、それなのに私、黙ってた。幸村くんが変じゃないかって聞かれても、何にも言わなかった。知ってたのに知らんぷり。藤川さんは私のこと信用していろいろ話してくれたのに。真田くんたちには藤川さんのことを少し話ちゃったのに、それなのに、藤川さんには何にも言わないで、内緒にして」
それは二枚舌の卑怯さ。真っ白な振りをして情報だけ引き出して。幸村くんたちに協力しているから仕方ない?テニス部をより良くするためにした行動だから仕方ない?そう、そう思っていたけれど、逃げていただけじゃないのか、人の信用を逆手に取るような真似をして。
「それで結局彼女を傷つけて、たぶん、幸村くんまで傷つけた」
気持ちが悪い。なんて馬鹿。正義のヒーローぶってるつもりはなかった、もともと自分が正義のつもりなんてない、でも頭のどこかで自分は正しいからいいんだと正当化してたかもしれない。だって、私は藤川さんに誠意を向けられなかった。
しばらく沈黙が落ちて、それからびりっとした声が響いた。
「うぬぼれるな、長崎。これは俺たちの問題だ」
耳元で響いた強い声色に、由紀は少しびくっとなった。彼は厳しい表情で続けた。
「これは俺たちが解決しなければならないことだ。お前の問題ではない。俺たちが、部長の精市が、こうしようと決めたことだ」
「……うん、そうだね」
「お前にはさんざん助けてもらった。たとえどうなろうともお前の責任ではない。だから堂々としていろ」
ほら、やっぱり優しいんだ、真田くんも。こうやって私を突き放して、それで私を精神的に楽にさせようとしている。意図的なのかどうかは分からないけど。こうやって、優しくしてくれる。卑怯なことをした私に。
「お前が気に病むことではない」
真田くんの言葉が耳に優しい。お前は悪くないと言って欲しかった、でも同時にそれはそれで悲しいのだ、お前には関係ないと言われることが。
結局、私は何ができたのだろう。何がしたかったのだろう。なんて贅沢で無い物ねだり。
私の、中途半端。
(20110308)
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