アフターハーレム | ナノ
2、3ヶ月放っておけば噂なんて自然と消えるわよ。
嫌な噂を立てられたとき、ありもせぬ噂に迷惑を掛けられたとき、人を慰めるのにあのことわざは大変便利だ。そして、非常に的確なことわざだと思う。噂なんて、それが噂を立てられた張本人にとってどれだけ重要事項であろうとも、周りから見たら一つの話のネタ、ただのゴシップにすぎないのだ。内容の真偽などどうでもよくて、面白ければなんでもいいのだ、たいがいの場合において。有益な噂もあるけれど、そんなのごく少数だ。
2、3ヶ月放っておけば、いや、1ヶ月も放っておけば、中学生は噂に飽きて次の噂にとびつくようになるだろう。

噂の対象となった当事者は、その長い時間を針のむしろで過ごすはめになるわけだが。







人の噂も七十五日




由紀はげんなりした。いつの間にやら、ずいぶん噂をされていたようだ。廊下を歩けばひそひそ、教室にいてもひそひそ、単なる被害妄想だと良かったのだが残念ながら本当のことらしい。しかもその内容は幸村くんがらみのようだった。幸村くんに変な虫がついたとか、幸村くんに迷惑かけんじゃないわよとかそんなところだろう。
噂を知らないわけではないだろうが今日もキコはいつも通りの様子で、由紀には何も言ってこない。ちょっと長崎さん、と見知らぬ女の子に声を掛けられたりしたけれど、そのつど適当に逃げたりキコに助けてもらったりしている。噂の内容を聞けば気になるし否定して回りたくなる。でも今は、特に幸村くんがらみの話ならば、そっとしておいてほしい。


あの日幸村くんのあの冷ややかな様子を見てから、由紀は尚更彼と顔を合わせづらくなった。もちろん顔を会わせることはあるし、会えば雑談もするし、そして前と変わらずメールもするけれど、それでもそこはかとなく気持ちが重い。

――それで?

淡々と言い放った彼。あれが、彼の覚悟なのか。覚悟、か。そういえば以前真田くんがそのようなことを言っていた。

――精市はひそかに、最善の解決策を探しているのだ。たとえ最終的に全部員に非難されることになったとしても、すべての責任を一人で背負って。

一緒に遊びに行ったときに彼が言った、どうなったとしても諦めないという台詞。強くまっすぐに前を見据えた目。私は確かに幸村くんの強さに感服し、その真剣さを感じたはずだ。私は確かに彼の覚悟を認めたはずだ。そのはず、だった。でも、あんなこと。
あの優しい幸村くんが、少なくとも私の前では優しくて、そして彼は部長として強くもあったし今までに部員を叱ることもあった、それでもあんなに感情的になって怒ったところは初めて見た。それだけ彼が重圧を感じていたということなのか。それだけ、部内の空気を変えなければならないという使命を重く見ていたということか。仲間から非難の目を向けられてつらくないはずがない、たとえそれが部長の役目だったとしても。彼がそのつらいという自分の気持ちを必死で奮い起こして、いっぱいいっぱいのところで部長として周りを導こうとしていたとしたら。

彼だって中学生なんだから怒鳴ることくらいあるだろう。それなのに、私は勘違いをしていた。彼は大人だから、彼は『あの幸村くん』だから、きっともう問題なく仲間を引っ張っていけるだろうと思い込んでいた。彼のことはよく見ていたはずだったのに、そのつもりだったのに、実は何も見えてはいなかったんだ。だから自分の想像を超えた幸村くんの反応がショックだったんだ。


由紀は廊下を歩きながらため息を吐いた。最悪だ。曲がりなりにも友人なんだから、彼の痛みに気がついても良かったはずなのに。気分は落ち込むし、噂をされてどこにいても居心地が悪いし、もうやってられない。
少し助かるのが、立てられている噂に明らかな悪意は含まれてなさそうだってことだ。それでもこんなにつらいのに、飛び交う中傷と悪い噂に耐えた仁王くんと藤川さんは本当にすごい。


「あーーっ!いたーーっ!」


急に後ろから大声が飛んできて、何事かと振り返ると、もじゃもじゃがこちらへ向かって走ってきた。身軽な彼は、大きな目をきらきらと輝かせている。


「よーやく見つけたぜ。アンタだったのかー、長崎先輩って。コートのそばで俺たちの絵を描いてる人ッスよね?」

「うん、そうだよ。はじめまして、切原くん」

「あれ、俺の名前知ってるんスか?いやあ、やっぱり俺って有名?」


あっけらかんとした切原くんの満面の笑顔に、由紀は思わず笑みをこぼした。かわいい。彼にも彼なりの苦労はあるだろうに、そんな影などみじんも感じさせない明るい調子に、由紀は機嫌が良くなった。厚い雲が風で一気に吹き飛ばされたような気分。彼の明るさはなかなか伝染力が強いみたいだ。


「切原くんは期待のエースだもんね」

「へへ、いずれ俺が立海の頂点に立ちますからね!」

「ふふふ、幸村くんが楽しみだって言ってたよ」


切原くんは、おお、それッス、と声をあげた。それってなんだ?由紀は首をかしげた。それに、なぜ彼は突然私に話しかけてきたのだろう、嬉しいことだけど。今までは切原くんと私にはほとんど接点がなかった。


「今、ちょっと時間あります?優香先輩のところに行くんスけど、付き合ってもらえません?」


幸村くんのことで、藤川さんのところに付き合う?なんだろう?とますます由紀は分からなくなった。

藤川さん、か。
テニス部には新しいルールができて、少数と言えど部内が割れて、でもたぶん藤川さんは気がついていない。彼女が気がついていないであろうことに、幸村くんたちが気がついていないはずがない。今のままでは、せっかく幸村くんが宣言した意味が半減してしまう。あれは他の部員に対する牽制であると同時に、仁王くんと藤川さんに対する忠告だったんだから。

私から何か言うべきかな、という考えが頭をよぎる。
あの雨の日に藤川さんの言葉を聞いてから、私と彼女の距離は少し近くなった。積極的に話をしたりするわけじゃないし、廊下で出会っても軽く挨拶をするだけだけれど、顔を合わせれば微笑み合うような、そんな関係になった。雨音の中で見た彼女の涙。私はその話を誰にもしなかった。私が内緒にしていることは、たぶん彼女にも伝わっていただろう。あれからまるで何か小さな秘密を共有したような、そんな気持ちになっていた。
きっと彼女には誰かがはっきり言った方がいいだろう。このまま気がつくまで放っておくなんて、テニス部にとっても彼女にとってもいい方向にはいかないような気がする。でも、それは私がやっていいことなのかが分からない。幸村くんたちが気がついているならば、彼らもどうにかしようとするはずだろうし、でも、彼らが藤川さんに直接もの申すのはしにくいからああいう遠回しの宣言をしたんじゃないかな、という気持ちもあって。


「長崎先輩?どうかしました?」

「あ、ごめん、なんでもない。いいよ、行こうか」

「こっちッス!」


切原くんは先導するように足取り軽く進み始めた。由紀はひとつかぶりを振って、切原くんの背中を追いかけた。


***


祈るような気持ちだった。頼む、分かってくれ、と。でもその期待は蓮二たちと予想していた通り、半分、叶わなかった。

1年生の時に部のために身を粉にする部長の姿を眼前で見てから、いいリーダーとは何なのか、ずっと考えてきた。部長がすべき最善の策はなんだろうかとずっと考えてきた。多少強引になっても、表立ってまっすぐに強い意志を通すのがいいのか。それとも多少緩くても鷹揚に構えるのがいいのか。権謀術数を巡らせるように、秘密裏に意見を通し物事を処理していくのがいいのか。その答えが分からぬまま、部長になってから数ヶ月が過ぎてしまった。

それで今、俺は問題にぶつかっている。今起きていることは部全体の問題であると同時に、部長としての俺の資質を問われている問題であるように感じた。これは俺の試練であり、部長としての自分自身と向き合うチャンスだった。

優香と仁王に、最初からはっきり言うべきだったかもしれない。いいかげんにしろ、お前たちの行動が周りにどれだけ影響を与えているか分かっているのか、と。他の部員たちにも言うべきだったのかもしれない。言いたいことがあるなら腹を割って言え、文句がないなら練習に集中しろ、と。
でも俺はそうしなかった。上から頭ごなしに叱られるよりも、自分たちで気がついた方がいいと思ったから。だから俺は新しいルールをみんなに伝えたとき、このやり方が最善だと思っていた。でも今は、それが正しかったのか分からない。

反発はある程度予想していた。そして反発を抱いた部員がはっきりと俺に意見をしてきたことは、とても望ましいことだった。少なくとも今までのように相手の顔色ばかりうかがっているような状態よりも、ずっと。
でも、優香のことはどうだろう。彼女に俺の意図が伝わってないと気が付いたときに、がっかりすると同時にかすかにほっとしてもいたのだ。優香には特に、自分の考えを伝えにくかった。彼女がつらいと感じていて、それにもかかわらず必死でマネージャーの仕事を精一杯していることを知っていて、それでも尚、俺は彼女に私情を入れるなと強要するのだ。赤也や他のレギュラーたちだって、今まで落ち込んだり荒れたりすることぐらいあったのに。なのに今回の問題があまりにも複雑すぎて、みんなには認められていたことが彼女には認められないのだ。その事実が、俺には重くて、どうしようもなく罪悪感があった。その罪悪感と王者の地位を揺るがしてはならないというプレッシャーが心の中を吹き荒れて、つい、部員に声を荒げてしまった。
もう今となっては、頼む、気がついてくれと祈るだけでは駄目だ。言葉を使って、優香と対峙しなければ。どれだけ嫌なことでも、まず俺は彼女に対して正直にならなきゃいけない。これは俺の仕事だから。


夏美に聞くと、優香は赤也と一緒に中庭に向かったと言う。教室前の廊下から広い中庭に目をめぐらすと、確かに木の下に彼女らしき影がある。俺は中庭に足を向けた。
途中で、ときどき女の子から声を掛けられる。何を聞きたいのか、何故か皆、そわそわしている。


「あの、幸村くん」

「ごめん、用事があるんだ。急ぎのこと?」


そう言って薄い笑みを顔に貼り付ける。今は上手く笑えない。女の子たちはだいたい、それならいいの、と言って引き下がってくれた。途中で弦一郎とすれ違ったが、軽く声を交わしただけで、今はたいして気にとめる余裕もなかった。


(20110220)

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