アフターハーレム | ナノ
思い入れがあるから、ためらう。
自分の中にあるさまざまな感情、苦しさも喜びも、後から後からわいてくる感傷もみんなひっくるめて、私をためらわせる。
それでも、前に進む必要がある。
だから、顔を上げなければ。
音が消える
『From: 幸村精市
Sub : Re:絵
本文: おめでとう。今日の放課後、見に行くよ。楽しみにしてるね。』
チカチカと携帯のランプが光る。久しぶりに送ったメールに、まもなく返事が返ってきた。なかなかメールを送る気になれなくて、でも一応、頼まれた以上は、男子テニス部の絵が完成したと報告しておいた方がいいだろうという気持ちもあって、葛藤の末、ようやく今朝、幸村くんにメールを送った。こちらの気持ちには関係なくあっさりと返ってきた返事にほっとする。
『幸村くんのこと、好き?』、か。
相変わらずキコはストレートだなあ、と由紀は苦笑する。
好き、ねえ。もう、自分でも気がついている。そんなことはないだろうと否定する感情と、そうあってはならないと主張する心、それから、たぶん好きなんだろうと認める気持ち。今、好きかと聞かれても素直に頷けない。じゃあ1年経ったら自分の気持ちが分かるようになるのかと聞かれても、それもどうだかは分からないけれど。
私は自分が必要とされたことが嬉しかった。趣味の合う幸村くんと出会って、話す機会もたくさんできて、楽しかった。トリップしてきてから1年間ずっと悩み続けた『大学生』の自分も気にならなくなるほど、一緒に悩んで、考えて。友人以上の「好き」を感じているのは確かだ。これが恋情なのか強い友情なのか、それとも家族愛に近いものなのかただの思慕なのか、どれが今の自分にぴったり当てはまるのかは分からないけれど。
その感情とは裏腹に、罪悪感は消えない。藤川さんや高橋さんがマネージャーを辞める結果になってしまったこと。そしてもう一つ、彼らに対して。これ以上は、踏み込みたくない。踏み込んではいけない。
彼らの邪魔になるから。
柔らかい午後の日差しが窓から差し込んで、美術室の内でかすかに舞うほこりに当たり、ちらちらと光を反射させる。晴れた日なのに、ぽつりぽつりと窓に水滴が落ちる。これはきっと、きつねの嫁入り。常緑樹の光沢ある厚い葉から、しずくがまた一滴、こぼれ落ちた。
高橋さんからもらった写真、今私が飽きもせずに見つめている写真にも光があたって、輝きを添えていた。どうしたらいいのだろう、どうしたら状況がよくなるだろうと悩んでいたあのころの私。テニス部の問題を見て暗い気分になったりもしたけれど、確かにあの時、私には居場所があったのだ。
思い出は捨てなくてもいい。そう、その通り。過去のことは消せないのだから。だったら、無くしたくない物は全て思い出にしてしまえばいいのかもしれない。
しばらく待っていると、やあ、とあいさつをして幸村くんが美術室に入ってきた。
幸村くんが、いる。
そう思ったこと自体に、心がちくりと痛くなる。ちょっと前までは隣を並んで歩いていたぐらいだったのに。今ではもう、こうやって近くにいることでさえ久しぶりで、たったそれだけなのにこんなにも嬉しくなる。もうここまで、彼と距離ができている。
「描いてくれてありがとう」
微笑む彼に、由紀は曖昧に笑い返した。久しぶり、とあいさつをして以降、言葉が喉から出てきてくれない。本当は言いたいことがたくさんある。ごめんなさい、ありがとう、私こそ、本当にこれで。でも溢れ出るぬるい感情も、痛いことも、伝えたいことが多すぎて何を言うべきかが分からない。もしかしたらどれも言うべきではないのかもしれない。
手にしていた写真を机の上に載せて、由紀立ち上がった。そして、黙って絵を指さす。指し示した先には、イーゼルに載った三枚の油絵があった。
二枚目は練習中の風景、三枚目は切原くんが真田くんからワンポイント取ったときの勇姿。あの真剣さ、緊迫感、高揚感、非日常的なそれが日常的に存在する立海大附属のコート。若い彼らが全てをかけて目指すもの。
私はまだまだ技量不足だけど、納得がいくまで描くことはできた。他の人から見たらつたない作品であろうとも。だから、これで満足だ。
「これは……」
幸村くんは、一枚目の絵の前で立ち止まった。目を細めて、表情が少し変わる。それは、マネージャー2人が部員たちにドリンクとタオルを配る様子を描いたもの。休憩をとりつつ、そこに映る彼らはみんな笑顔で歓談していた。きっと、幸村くんたちが1年生のときから見てきた光景。
彼女たちは辞めてしまった。その結果、再び男子テニス部は上手くいくようになった。でも彼女たちが余計な存在だったと言えるのだろうか。彼女たちの功績は本物だった。マネージャーとしての優秀さだけじゃない、彼女たちが彼らから勝ち得ていた信頼も本物だったのに。
「長崎さん、どうしてこの絵を描こうと思ったの?」
「間違いなく大切な時間だったんじゃないかって思うから、かな」
「彼女たちを入部させたこと、君は間違いだったって思う?」
「ううん」
彼女たちを描きたかった。描くべきだと思った。残しておきたかった、彼女たちがテニス部にいたということを。初めて見たときは仲が良い部活なんだな、くらいにしか思わなかったあのシーンが今でも鮮明に思い出せる。あれは彼女たちの真面目なサポートがあったからこそ出来るもの、であるはずだ。
「いろいろ大変だったのかもしれない、でも、彼女たちがいたことも大切な立海大附属男子テニス部の軌跡だから」
彼女たちがあって今の男子テニス部がある彼女たちのおかげで気がついたこともたくさんあるはずだ。彼らからみたらどうかは分からないけれど、彼女たちも大切な彼らの歴史の一部。
「そうだね、俺もそう思う」
幸村くんは絵から目を離さずに、微笑んだ。
体の奥底がぎゅうっと締め付けられる。初めて話をした日、あの女子テニスコートの横。彼は私の絵を見て、辛そうな顔をしていた。
ようやく、笑ってくれたね。
幸村くんがこちらを向いた。
口ごもった由紀に彼が近づいて来る。自分の鼓動が早くなるのが分かる。おねがい、それ以上は近づかないで。とっさに身を引いたけれど、それ以上に彼は距離を詰めてくる。3メートル、2メートル、1メートル、0.5メートル、そして、さらに近くへ。
「でもさ、それは君にも言えることだよ」
急に左腕を捕まれて、由紀はびくっとした。あわてて顔をそらしたけれど、いつも通りの、深い幸村くんの声が耳朶に届く。
「覚えてる?前に俺が言ったこと。もっと早くに、仁王とも優香とも向き合うべきだったって」
「うん」
「何かが起きてしまったときに、そっと見守るべきなのか、正面からぶつかるべきなのか、どっちがいいのか分からないことはよくあるんだ。きっとあまりにもデリケートで正解のない問いなのだと思う」
由紀は黙って耳を傾ける。自分の心音がうるさい。彼のまばたきの音さえ聞こえてきそうな距離。
「今回も、そう。正しいかどうかは分からないけれど、俺が向き合うべきだったのは仁王や優香に対してだけじゃないんだと思う。きっと、長崎さんに対してもそうだ」
私に対して幸村くんが向き合う。何のことだろう。向き合うも何も、私と彼の間には何もないはずだ。彼を害してしまった記憶もないし、彼に何かされた覚えもない。それとも、私が気がつかない間に何かをしてしまったんだろうか。
「長崎さん、俺を避けてるよね。メールも、前よりよそよそしくなった」
「そんなことないよ、気になってたならごめんね」
とっさに口から言葉が転がり出るけれど、なんて空虚なんだろう。確かに私は彼を避けている。関わりたいけれど、関わりたくなかった。優しい彼に気づかれないように少しずつフェードアウトしたつもりだったのに、分かっていたのか。
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「長崎さんがそうなったのは、第一進路室で話し合いをしてからだ。君が『もう大丈夫だね』って言って、教室から出て行ってしまってからだよ。話しかけてもメールを送っても、君は前と違って当たり障りのないことしか言わなくなった」
「そんなこと……」
「自覚、あるよね?」
穏やかで優しくて、真綿で首を絞められるように幸村くんに徐々に追い詰められて、段々息苦しくなってくる。止めて、幸村くん。お願いだから、もう止めて。近づいてこないでよ、それ以上は。
そう、私の言葉は嘘だよ。大嘘だ。本当はずっと思っていた。もっと親しくなりたい、もっと幸村くんの近くに行きたい、もっと話がしてみたいって。彼の隣に私の居場所があるならばどんなにいいだろうって何回思っただろう、でもそれは気がついちゃいけない感情だったんだ。私には家族もいるし友達もいる、だからそれで満足すべきだって。
「逃げないで。お願いだから」
緊張で喉までせり上がった心臓が、音をなくした。
(20110509)
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