アフターハーレム | ナノ
他には何も見えない。何も聞こえない。
ただそれだけが私の頭の中に広がり、占領して、そして私自身になる。
何も考えなくても、自然と私が目指すのはただ、それだけ。

自分の中で燃えるパッションを逃さぬように、手を動かす。
何かに憑かれたように、ひたすら、一心に。

脳裏に焼き付いた光景の全て、その姿、色、雰囲気、匂い、音、そして彼の思い。全てを一つの絵に描いて残しておきたい。

それが、今の私のすべて。







不透明な心





夢中で絵の具をカンバスになすりつける。混ぜ合わせて、筆でぬぐい取って、すべては思うがままに絵を描く。私が、あの輝きを忘れてしまわぬように。たとえ忘れてしまったとしても、記憶とは別の形であの心震えるような思いを残せるように。

あれから由紀は、暇さえあれば美術室にこもって絵を描いていた。もう絵のモデルたちを見に行く必要はない。書きたいものはまぶたに焼き付いているから。

窓を締め切った美術室には、むっとするような絵の具の臭いが充満している。美術室の古さも相まって、中はほこりっぽくなっていた。でも今はそんなことも気にならないほど絵に集中していた。


描き始めて1時間ほどしたところで、3枚目の絵に一旦区切りを付けて道具を机に置いた。ぐるぐると肩を回して、伸びをする。根を詰めて作業をすると、体が凝り固まる。でも、それも今はどうでもいい。それよりも、早く絵を完成させたい。
由紀が首をぐるぐる回していると、美術室の扉がいつの間にか開いていたことに気がついた。そしてそこから、入り口付近でうろうろしている高橋さんが見える。


「あの、今いい?なんか集中してるみたいだったけど」

「うん、ひと区切りつけたところだから大丈夫。どうしたの?」


ためらいがちに入ってきた高橋さんは、由紀に向き合って、真剣な顔をした。


「あのね。長崎さんに改めて、お礼、言いたくて」


お礼?彼女の言葉で思い出してみれば、由紀は最近すっかり忘れてしまっていた。私、彼女に勝手なことを言った。冷静に考えてみれば、本当に意味不明なことを聞いてしまったのに。


「高橋さん、この前は本当にごめん。藤川さんとテニスどっち取るかとか、そんなこと言っちゃって」

「どうして謝るの?」

「だって、私が二択を迫る権利はないし、あまりにもデリカシーがない質問だし」


高橋さんは、ううん、と首を横に振った。それから、何かを思い出すような、懐かしそうな顔をした。


「私ね、実は、元々はマネに興味なかったんだ。優香に頼まれて入ったようなものでね。でも、やってみたら楽しかった。とても。優香もいきいきしてたし、私にも大切な仲間ができた」


彼女はこちらへ寄ってきて由紀が先ほどまで描いていた絵をのぞき込んだ。これ赤也だよね、と嬉しそうに笑う。由紀は、黙って彼女の言葉に耳を傾けた。


「最近テニス部がちょっとごちゃごちゃしててさ。私、どうしたらいいのか、何をすればいいのか、全然分からなくなっちゃってた。でも、長崎さんにどっちが大事って聞かれて、自分にとって本当に大事なものが何か、考えられた」

「……それで、マネ辞めたの?」


微笑んだ高橋さんを見て、由紀は自分の口が歪むのを感じた。仁王くんは選んだ。藤川さんも選んだ。幸村くんも選んだ。この目の前の女の子も、選んだのだ。でも、もしかしたら選ばなくてもよい選択肢を、私が介入したせいで選ばせてしまったかもしれないのだ。
――それなのに、みんな、こうやって自分に笑いかけてくれるのだ。


「マネを辞めたって、過去が消えるわけじゃない。縁が切れるわけでもないし。でもさ、私がずっと男テニにいたら、優香だって仁王たちだってつらいと思うんだよね」

「高橋さんは、それで良いの?こんな結末で、良かったと思ってるの?」

「私はマネ業より優香が大事だから。ああ、それとね。幸村と優香の仲、取り持ってくれたんだって?ありがとね。あの子、マネ辞めた後にさ、もう自分は男テニにとって害でしかないとか思い込んじゃって」


でも、また差し入れもするって、そう言ってたから。だから、ありがと。

高橋さんの言葉に、由紀はうつむいた。肯定してくれている。この子が。柳生くんにも、お礼を言われた。そうやって彼は私を肯定してくれる。

目を閉じたらすぐに思い出せる。君のせいじゃない、と藤川さんに微笑みかけた幸村くんの笑顔。穏やかで落ち着いた声色、柔らかい視線、その奥にこもった誰よりも熱い情熱と努力、汗、彼の服の香り。ただの同級生という立場から、2カ月も経たずにこんなに近しい存在になって。まるで旧友のような、気のおけない親友のような、そんな錯覚さえ起こしてしまうほどの。

彼には、近づきすぎてはいけない。相談に乗っていたときのようにまた一緒に仲良く帰れるなんて思ってはいけない。うぬぼれたらいけない。私は、イレギュラーな存在なんだから。ただの同級生で、ただの、ともだち。
三強との最後の話し合いを終えてから、そして、藤川さんとの仲を取り持ってから、ずっとそう思おうとしてきた。それなのに、寂しくてしょうがない。人には重大な選択を迫っておきながら、なんて勝手。なんて、無責任。


「長崎さん?」

「あ、ごめん。何でもない」

「そう?それならいいけど。ねえ、もうちょっと堂々としてていいと思うよ?」

「え?びくびくしてた?」

「ええと、そういう意味じゃなくて。なんていうか、もうちょっと、言いたいこと言ったりしたいことしてもいいと思うよ。周りに対して、ね」


意味がよく分からなくて顔を上げると、高橋さんは由紀の描いた一枚の絵に向かい合っていた。男子テニス部を描いた、一番目の作品に。埃よけにかけていた布が床に落ちて、絵が丸見えになっていた。


「……これ、この絵、男テニを題材に描いてた絵って、これも?」

「うん。三部作の、一番目のなんだ」


高橋さんは右手を伸ばし、指でそっと、カンバスの表面に触れた。そして、乾いた油絵の具の凹凸をゆっくりなぞる。深い色をした何とも言えない目で、絵を眺める。彼女は絵を見つめたまま、顔をくしゃっとさせた。


「嬉しい」


そっと絵から手を離すと、彼女は愛しそうにその右の指に左手で触れた。


「泣きたくなった。嬉しいの。ほんと。私、正直に言ってまだ寂しい。気を抜くとね、放課後にテニス部に行きそうになるんだ。でも、これで、形に残ったから。私たちが一緒の仲間だったんだって」


***


朝練をする運動部しかいないような時間にも美術室にこもった結果、今朝、最後の絵が完成した。息を詰めたまま、パレットを片手に持ったまま、絵の前で立ちすくむ。これで、いい。これで納得がいく絵になった。汗まみれで天に向かって吠える切原くん。あの時の興奮、歓声、驚愕、歓喜、あの時に自分が感じたすべてがここにある。
息を大きく吐くと、どっと力が抜けた。まだ朝なのに、心なしか疲労感もある。朝からこもった空気も肺の中までまとわりつくようで、急に息が詰まるような気分にさせられる。

由紀は窓をがらりと開けた。ぬるいけれども新鮮な空気がふわりとカーテンを揺らして入ってきた。美術室には誰もいない。窓が面した校庭脇の通りにも、誰もいない。ただ遠くで、サッカー部の叫ぶ声、野球部が気合いを入れてノックをする音、そして、テニス部のラケットの音が小さく響いてくる。

ああ、朝練やっているんだ。彼らは、今日も。

絵は、完成した。相談も終わった。私も、この世界を受け入れられた。
これで終わりだ。4月から始まった、私の一大仕事。外は昨晩の雨で少しだけ湿っていた。梅雨の終わらぬうちはまだ春みたいな気分だけど、だんだんと夏の香りが濃くなってきている。空を見上げると、久しぶりの良い天気。厚みを増してきた雲がもくもくと白さを輝かせて、風にながれていく。

さあ、もう終わりだ。戻ろうか、私の、前とは少しだけ変わった、いつも通りの日常へ。







「由紀、おっはよー。ん?なにそれ、写真?」


朝練を終えたキコが教室に走り込んできた。由紀が持っていたのは、自分の写真。高橋さんに、勝手に撮っちゃってごめんね、と言われて渡された。それは、私がスケッチブックを持って、フェンス越しにテニス部を見つめている姿だった。いつの間に撮ったのやら、自分の顔が真正面から移っている。たぶん、男テニを観察し始めて間もないころのやつだ。

思い出は捨てなくていいと思うの。写真を差し出した高橋さんはそう言って、笑っていた。

真剣な顔をした、私。こんな顔をしていたのかと、今ごろようやく気がついた。必死だったもんな、あの時は。それでも、あの時が一番幸せだったかもしれない。彼に必要とされていたから。思い出は捨てなくていい。そうだ、思い出にしてしまえば捨てなくていい。


「どれどれ、面白い写真なの?」

「いや、まったく。でもなんとなく、見ちゃうんだよね……」


キコが真剣な顔をして由紀の顔を覗きこんできた。こんなことが、前もあった気がする。


「幸村くんのこと、好き?」


由紀は動揺して、思わず写真から手を離してしまった。支えを失った写真は、机の上を滑って木の床にするりと落ちた。


(20110508)

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