アフターハーレム | ナノ
ちっちゃいころは、お母さんや先生が何が正しくて何が悪いのか教えてくれた。
次に何をすべきかも。どういう場合にすべきかも。全て教えてくれた。
周りの大人は神様みたいな存在であって、何でも知っているのだと思っていた。
そして、自分の存在や行動を肯定してくれる大人によって生かされていたのだと思う。
今は、全てを自分で判断しなければならない。
自分を肯定してもらうには、それ相応のことをしなければならない。
誰かに相談はできても、それは参考にしかならない。
自分の足で立て。たとえ、周りから力を借りたとしても。
自己肯定のロジック
まわりから人の気配がなくなるのを確認して、幸村精市は目的の教室に入った。中では、呼び出しをした張本人――柳蓮二が窓枠にもたれかかって腕を組み、うつむき加減で体をこちらに向けていた。
「やあ。待たせたかな」
「いや、想定の時間内だ」
蓮二はいつもの淡々とした口調で返事をする。昔から蓮二は冷静で、激情を表すことがない。そう、昔から。どうしたらここまで物静かでいられるのかと、小さいころは不思議だった。
精市が蓮二の前で立ち止まると、閉口一番、彼はこう聞いてきた。
「何があった?」
いつもように微笑を浮かべ、答える。
「何もないけれど?」
「――通常状態の精市なら、『どうしたんだい、突然』という確率85%だ」
顔がこわばったのが、自分でも分かった。
蓮二は指摘しようとしている。俺が無意識のうちにそんなことはない、そんなはずはないと否定してきた違和感を。
蓮二の意図に気づくと、無理矢理見ないようにしてきたもの、いつもの自分を保とうと蓋をして隠してきた「違和感」がどろりと溢れ出した。自分の中で少しずつ少しずつ、じくじくと蓄積していた、膿んだマイナスの感情。無意識のうちに正面からは向き合いたくないと思い、でも無視し続けるうちに確実に膨張してきそうな、かすかな傷。
精市はこわばった表情のまま、蓮二を見上げた。
気持ちが悪い。この違和感は怒りなのか、でも何に対する怒りなのか、それとも悲しみなのか、恐れなのか、虚脱感か、あきらめか。いつから、誰に対して、なぜ。分からない。ぐるぐると思考と感情がうずまいて、何でこんなことをしているんだろう、混乱しているのか俺は。
電気がついていない教室は普段よりも薄暗く、窓から入る、曇天の白くて淡い光だけがぼんやりと教室を浮かび上がらせている。逆光を背負った蓮二は影絵のようで、こちらからは表情がよく見えない。モノトーンの教室の中で、精市が着ているジャージだけが白い光を受けて、その色味をかすかに主張していた。
先に顔をそらしたのは蓮二だった。
「藤川か?」
「……蓮二、なんで優香が出てくるんだ」
なぜ藤川優香の名前がでてくるのだろうか。男子テニス部は確かに優香に支えられているし、今まで特に問題も起きていないはずだ。テニス部員にも、部外者にも、優香本人にも何かあったとは聞いていない。
「精市は気がついていないのか」
「だから、何をだい」
蓮二は口をつぐんだ。珍しく奥歯に物を詰まらせたような話し方をする蓮二に、精市はいぶかしく思う。そこでようやく、気がついた。蓮二の表情もまた、固くなっていた。
「蓮二、お前……」
言葉がでてこない。自分だけだと思っていたが、もしかして蓮二も自分と同じなのか。同じように何かを、感じているのだろうか。今の男子テニス部に対して。
「……もう部活に行こう。あまり遅れるとまずい」
お互いに感情を整理する時間が必要だ、と蓮二は続けた。
そこでいったん、話題は途切れた。
校舎を出て、黙って蓮二の隣を歩く。そうだ、やっぱり俺は、今の男子テニス部に違和感を覚えている。少なくとも去年の夏ごろには全くなかったのに。一度、距離を置きながら部活の様子を観察すれば分かるだろうか。
コートの近くで、突然蓮二が立ち止まった。
見上げると、彼はわずかに目を開いて、ある一点を眺めていた。
「精市。あれを見ろ」
すっと伸ばした腕の先は、女子テニス部のコート脇。そこでは女子が一人、イーゼルに薄いカンバスをのせ、一心に絵を描いていた。彼女はときどき顔をあげ、にらみつけるように真剣に、練習に励む女子テニス部員を見つめる。絵は、一人の部員を中心に、必死な表情でテニスをする数名を配置した人物画だった。
その絵を見てなぜか、精市は、心の奥底がチリチリと焦げ付くような苦々しさを感じた。
***
中学生になったばかりのころ、私は自分のことを成長しきった大人だと思っていた。落ち着いていて大人っぽいと良く言われたし、そんな自分を誇らしく思っていた。でも本当は、そうやって大人ぶることも含めて、あの時の私はまだまだ子供だったのだ。何よりも繊細だったと思う。
大学生になった今では昔よりも傷つきにくくなったし、人を傷つけないように、より注意を払えるようになった。そして多少のことでは動じなくなった。あがけばなんとかなるものだ。
『ここ』に来たのが、大学生になった後で良かったとつくづく思う。きっと、実際に中学生のときに『ここ』へ来ていたら、とても精神的に耐えられなかっただろう。
それでも、最初は混乱した。とても、とても。
なんでこんなことになったんだろう。
なんで中学生に戻ってるの。
どうしてお母さんもお父さんもお姉ちゃんも、平気な顔しているの。
私がおかしいの?それとも周りがおかしいの?
『大学生の私』の沈む気持ちと、状況を把握しようと絶え間なく動き続ける思考、それとは裏腹に体は『中学生の私』として友達を作り、中学の授業を受け、普通の中学生としてそつなくふるまう。無意識のうちに、『中学生らしいふるまい』もできるようになっていて。
私はトリップしちゃったの?
それとも、『大学生の私』自体が『中学生の私』の妄想にすぎないの?
どっちが本当の私なの?
両親は、私が何かに思い悩んでいることに気がついた。そして、病院でカウンセリングを受けるよう、勧めてくれた。
病院の先生の勧めもあって、私は自分が没頭するものを求めて、絵を描くようになった。
絵を描いている間は、なにもかもを忘れることができる。
こうして、徐々に私は落ち着くことができた。慣れとカウンセリングのおかげで。
ただ、まだ、どうしても描けないものがある。
一つは、自画像。もう一つは、男子テニス部。
両方とも、『前の私』を想起させるものだ。
どちらが本当の私なのだろう。
トリップして1年たった今でも、ふっとときどきそう思うことはある。
でも、それは無意味だ。
私は私だ、と思うしかない。
私が何者かなんて、神様しか知らないんだから。
それでも、まだ描けない。逃げている、と分かってはいるのだけれど。でも焦りはしない。じっくり受け入れていけばいい。私はまだ、中学生なのだから。
こうして私は、学校生活を送る。
『中学生の私』が、徐々に重みを増しながら。
(20101114)
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