アフターハーレム | ナノ
チャレンジ精神という言葉がある。私はあまり、好きではなかった。とりあえずやってみろとよく言うが、やればいいってもんじゃないだろうと反論したくなる。

でも、彼が持っているのは、本当の意味でのチャレンジ精神だと思う。自分のことを歯牙にもかけないような強大な敵に、一人で立ち向かっていくのだ。もしかしたら、歯が全くたたず、今までの自分の努力をむなしく感じるはめになるかもしれないのに。もしかしたら、己の小ささに絶望することになるかもしれないのに。

それでも彼は挑むのだ。何がそうさせるのか。内なる本能なのか。たとえ自分の身を焦がすことになったとしても上へ行きたいという欲望なのか。
彼には、頭上に輝く光しか見えていない。







決戦のとき




あの切原赤也が、真田弦一郎にテニスで勝負を挑むらしい。

そんな話が、あっという間に校内をめぐった。興味のない人はふーん、と言ってそれで終わり。でも、スポーツ観戦が好きな人やテニス部が好きな女の子は、目を輝かせてその話にくいついた。
そりゃあそうだろう。たかが2カ月前に惨敗した1年生のスターが復活して、全国大会で活躍した真田くんに挑むのだ。
試合の日時は、今日の午後4時。
一部の生徒たちは、わくわくしながら時が来るのを待った。






幸い、今日は天気が良い。風もほとんどない。その分、少しだけ湿気が強く、外はむわっとしている。少しきつくなってきた晩春の日差しが目にしみる。校庭には昨日の雨の跡がまだしっかりとあって、土の部分はややぬかるみ、アスファルトで舗装された道には水たまりが残っていた。

イーゼルとカンバスは邪魔になるから置いてきた。スケッチブックと鉛筆だけ持って、テニスコートに走る。溜まった雨水が靴下にはねたが、気にしない。早めに来たつもりだったのに、到着したときはすでに、コートの周りにはもう結構な数の人が集まっていた。藤川さんと高橋さんの姿も見える。
由紀はいつもの場所にはいかなかった。いつもの場所はコート全体を見るにはもってこいだったが、木陰になっているから見にくい。今日の試合はコートの近くで見たい。由紀はなんとか人の隙間を見つけて、フェンスに近寄った。

目の前のコートの中には、部員たちが集まってざわめいていた。大勢が話をしていて、何を言っているかまでは分からない。だが、彼らは一様に興奮していた。目をきらきらと輝かせて、浮き足だっている。
由紀はフェンスに手をかけて、コートを見渡す。レギュラーたちが、少し離れたところに集まっているのが見えた。切原くんと真田くんは準備をしているのか、姿が見えない。あたり一面を、緊張、興奮、好奇心、期待、さまざまな強い拍動の生み出した異様な雰囲気が覆っていた。

その雰囲気にあてられて、由紀は深呼吸をした。

ふいにフェンス越しに立って試合を待っていた部員たちがゆらりと動いた。彼らをかき分けて、幸村くんがこちらへやってくる。フェンスを挟んで、由紀と幸村くんは向き合った。周りから注目されて、由紀は恥ずかしさに眉を下げた。


「やあ、来てくれたんだね」

「うん、楽しみにしてたんだ」


幸村くんは、穏やかな笑顔で、優しい声を響かせる。私は逃げたくて逃げたくて、でも逃げられなくて彼と言葉を交わす。彼の目には、何かが含まれているような気がした。彼女たちのいない寂しさなのか、悔しさなのか、分からないけれど。次に彼が言葉を発した瞬間には、その含みはもう消えていた。


「赤也の『果たし状』に珍しく誤字がなかったんだよ、今回。この前赤也と話していたときに、君が直してくれたんだろう?」

「うん。最初はかなり漢字間違ってたよ」

「ふふ、だろうね。赤也は勉強が苦手だから。……彼は成績ではあまり進歩が見られないけれど、テニスではここのところ急成長している。今日は面白い試合になると思うよ」


幸村くんは笑って、少し横を向く。


突然、彼の笑顔が変わったように見えた。
いつもの穏やかな微笑みとは明らかに違う。体の奥底に闘争心の炎を静かにたたえて、しかし押さえきれぬそれが節々から溢れ出てきているような闘志。強い視線を送る漆黒の瞳、いつもは穏やかに細められるそれが今日はギラギラと野性的な迫力を帯びて、チャンスをうかがい敵の隙を見定めるかのようにコートを見つめている。少し持ち上げるように微笑まれた口元、まるで、良い獲物を見つけた肉食獣のような。少しねじった首から肩のラインが明らかに鍛え抜かれた男のそれで、一見線の細そうに見える彼が決して華奢なんかではない、むしろとても男らしいのだと物語る。
いつもの幸村くんのはずなのに、いつもの彼ではない。由紀は普段とは違う彼に飲み込まれた。

格好、良い。

鼓動がだんだん早くなり、どくどくと心音が私の中を激しく駆け巡る。周りの目はいつの間にか意識の外に行っていた。
いつもの彼は言うなれば美しい森のような人だと思っていた。いつも穏やかで、静かで、いろいろなものを包み込む。全てを見通して調和を保ち、あらゆる生命を内包して、強く、しかしその強さは戦闘的な強さではなく、何かに耐え、支えるような強さだと思っていた。――でも今の彼は、間違いなく、軍神。無駄のない筋肉を身にまとい、躍動的に生き、肉を食らう美しい動物だった。荒れ狂う攻撃性を抱え、強さを求め、だがそれを発散してしまわぬよう、体の奥底に押さえ込み、獲物を狩るにふさわしい機が熟すのをじっと待っている。
今の彼からは押さえきれない興奮が溢れ出ていた。


……ダメだ、これ以上は、ダメ。踏み込んではいけない。これ以上は。もう、十分じゃないか。そう、私にはもう、十分だ。


「もう始まるね。じゃあ、また」


幸村くんはきびすを返して、レギュラーたちの元へ戻っていった。見ると、切原くんと真田くんがコートに立っている。審判は3年生が務めるようだ。周囲は大きくどよめいた。


由紀は胸に手をやって、ぎゅっと握った。
もう、大丈夫。鼓動は落ち着いた。


ついに、試合が始まる。


***


切原くんがサーブ権を取った。彼は大きな目を強く見開いて、にらみつけるように前を見ている。彼もまた、いつもの彼ではない。いや、テニスの練習をしているときの真剣さには通じるものがあるけれど、それよりもずっと濃い緊迫感、決意、そういうものが見て取れる。彼の目は、すでに赤い。切原くんが黄色いボールを持って、ベースラインに立った。真田くんも、サービスラインで構え直す。

そのとたん、ざわめいていた観衆が一斉に静まり帰った。鳥の声も聞こえない。風のそよぐ音も聞こえない。生徒の声も聞こえない。誰もが息を殺して、試合の始まりを待つ。

自分までも生命の危機にいるかのような、真空のように張り詰めた空気。

ジャリ、と切原くんのテニスシューズが音を立てる。てん、てんと何度かコートにボールをつく。彼はぐっとボールを握り直して、ラケットを構える。一拍おいて、彼はすっとボールを上に向かって真っ直ぐ放った。青い空、微かに浮かぶ白い雲、それに交差するテニスボールの黄。


「――っ!」


彼の声にならない声とともに、鋭い音を立てて彼のサーブが向かいのコートに突き刺さる。その瞬間、緊張感は最高潮に達して、一気にはじけた。観衆はおおきく叫んだ。


わあああああっ!
ナックルサーブだ!


歓声は止まらない、ふくれあがってコートの全てを包み込んで行く。真田くんは一瞬目を見開いたが、ボールを返す。目の前にいた部員の誰かが、「風林火山は出るのか!?」と叫んだ。それに会わせるように、歓声も大きくなる。「赤也のやつ、ナックルサーブの威力が上がってやがる!」と言った男の子もいる。

そこからは、怒濤のラリーだった。通常のラリーのような高い音を通り越して、重くて鋭い音が響く。切原くんが打ち込むたび、真田くんが切り返すたびに歓声は大きくなり、コートを包み込む興奮は爆発した。
レギュラーだけが、静かに彼らの試合を見守っている。彼らの表情はまちまちで、仁王くんみたいに面白そうな顔をしている人から桑原くんみたいに神妙な人までいて、でもみんな、何かを見定めるような興奮を抑えた真剣な目つきをしていた。

ドッ、ドッと低い音が鳴る。

切原くんは歯を食いしばって、ボールを打ち返す。対する真田くんも、真剣な表情をして、ラケットをあやつっている。

外野の大歓声も、二人には届いていないようだった。彼らの間からは、張り詰めた空気が消えない。

第一球目のラリーが途切れない。

真田くんが決めそうになるが、切原くんが食らいついて、体制を立て直す。どちらかが押されるたびに、もう片方が押し返す。






永遠に続くんじゃないかと思われた戦況に変化が現れたのは、試合開始の10分後だった。

切原くんがじりじりと波に乗り始めた。真田くんはなんなく押し返すが、切原くんは勢いづいたまま、攻め続ける。







一際鋭く大きな音が空気を切り裂いて、切原くんの放ったボールがネットにひっかかった。
ああ、と一瞬悲鳴に似た歓声があがる。由紀ははっと息を呑んだ。
そのまま切原くん側のコートに落ちるかと思いきや、ボールは勢いづいたままネットを登り、てん、てん、と音を立てて真田くん側のコートに転がった。







「――――っしゃああああああっ!」





黙ったまま荒い息をしてボールの行方を見守っていた切原くんが、ガッツポーズをとって、天に向かって吠えた。


一拍遅れて、どっと大きな歓声が上がる。


すげえ、赤也が1ポイントとったぜ!
あの副部長からか、信じられねえ!!


真田くんは驚いたような顔をしていた。レギュラーたちも、驚いている。幸村くんは少し満足そうに、口の端をあげた。

由紀は、声もなくフェンスにしがみついた。周りの生徒たちは興奮して、口々に何かを叫んでいる。もう何を言っているのかも分からない、ただ興奮だけが嵐のようにその場に渦巻いていた。その喧噪の中で一人、声もなく、由紀は切原くんを見つめた。




そうだ。これだ。これが描きたかったんだ、私は。




だれよりも強くなりたいと願う、その思い。そしてそのためなら自分の身もかえりみず、自分よりも遙か高くにいる者に必死で食らいついて離さない、その姿。

これこそが、王者立海にふさわしい。







その後、試合はあっという間に真田くんにひっくり返されて、切原くんは敗北した。
コートにひっくりかえっていた彼は、汗を流して苦しそうだったが、同時に、満足そうにも見えた。


(20110507)

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