アフターハーレム | ナノ
ボランティアすると、その行動を偽善であると言う人がいる。善い行動をしたという自己満足に酔っているだけだ、と。
偽善でも問題はない。その行動で実際に助かる人がいるならば、その助かった人にとって、それが善意でされたか偽善でされたかなんて二の次だから。
じゃあ逆に、善意でしたものの、それが相手にとって全く役に立たないものだったとしたら?水が欲しいという人に、高価なオブジェをあげたら。
それはそれで、善か偽善かはどうでもいいのかもしれない。だって、善意であろうと偽善であろうと、そのオブジェは不必要なんだから。
糸はほどける
今日は雨は降っていない。でも湿度が高くてむしむしする。本格的な夏はまだ遠いけれど。由紀は休み時間を図書室で過ごすことにした。本にとって湿気は天敵。だから、図書室はいつもドライがかけられていて、空気がさらっとしている。
図書室で小説を探していると、すみません、と後ろから小声がした。ああ、邪魔だったかな、と思って振り返ると、柳生くんがいた。
「すみません、お話があるんですが、少しお時間いただけませんか」
「うん?うん、もちろんいいよ。廊下に出ようか」
図書室から出ると、閉口一番、柳生くんはこう言った。
「突然失礼しました、あなたにお礼が言いたくて」
「お礼?私、別に何も――」
ぎょっとして由紀が言うと、柳生くんは微笑んだ。
「以前、ファミリーレストランで幸村くんや柳くん、真田くんと一緒にいたでしょう?偶然見かけたんですが。もしかして、長崎さんはテニス部に関する相談を受けていたのではないですか?」
あの三人以外には誰にも言っていなかったこと、キコにさえ話していなかったことを柳生くんに言い当てられて、由紀はあっけにとられた。そしてつい、本音がもれる。
「な、何で」
「長崎さんが絵を描いている最中、難しい顔、と言いますか、悩んでいるように見えたのです。最初は絵のことかと思ったのですが、本当はテニス部について何か悩まれていたのではないかと思いまして。幸村くんが時々あなたの方を見てましたし」
由紀は絶句した。それだけのことで、ばれてしまうなんて。柳生くんって、何者なんだろう。洞察力が半端じゃない。
「思えば病院で長崎さんと話をしたのも、仁王くんについてでしたしね。……おや、違っていますか?」
「う、いや、ううん。まあ、そんなところだよ」
「やっぱりそうでしたか」
由紀はばつが悪くなった。自分のためにやったことだ。それに、結局自分も中途半端な気持ちで彼らに手を出してしまって、余計なことをしたのかもしれない。お礼を言われるようなことは何もしていない。
そんな気持ちを知ってか知らずか、柳生くんは優しい声で由紀に語りかけた。
「私が言うのもおかしいかもしれませんが、それでもお礼が言いたかったのです。僭越なことかもしれませんが、他のテニス部員の代わりに、心から感謝します。あなたのおかげで、私たちはまた、前に進めそうです」
***
幸村くんと切原くんのお願いを聞いて、そこで自分の気持ちにも決着をつけたつもりだったのに、柳生くんから言われた言葉でまた大きく心が乱れた。何やっているんだろう、私。私はまだ、幸村くんと顔が会わせられない。
今日も男子テニス部はオフだ。ちょうどいい、私ももうちょっと、自分の気持ちに整理をつけたい。
放課後に、美術室へ向かってふらふら歩いていると、誰かにドンとぶつかった。本当に何やっているんだろう、私。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ、長崎。待っていた。これから時間はあるだろう?もうそろそろだ、見せたいものがある」
ぶつかった相手は、柳くんだった。柳くんは、相変わらずのデータに基づいた強引さで話を進めていく。
「それはいいけど、何を?」
「それは見てからのお楽しみだ」
向かった先は校舎の外。ある場所に着くと、柳くんは立ち止まって、校舎のそばに植わった木の陰から、顔だけをのぞかせた。柳くんはこちらを振り返って、静かに、と言うと、再び木陰から向こう側をうかがった。
「長崎。あれを見ろ」
そうっと由紀もあちらをのぞく。そこは人気のあまりない、校舎と校舎の間にあるただの小さな草地だった。そこには校舎の隙間からさんさんと日が差していて、明るい。そのど真ん中にベンチが一つ置いてあって、仁王くんがそこにあぐらをかいて座っていた。その後ろには、丸井くんが立っている。二人ともこちらに背を向けていたから、表情は分からない。
「仁王……」
「丸井か。話すの、久しぶりじゃのう」
「ああ」
ややぎこちなく、ゆっくりと、二人は話す。丸井くんも、仁王くんから少し離れて、ベンチにゆっくりと腰かけた。丸井くんはベンチの上でひざをかかえた。そして、ひざにあごを付ける。数拍の沈黙ののち、丸井くんがぽつり、と言った。
「俺、優香のこと、すっげえ好きだった。今でも好きだ」
ざあっと、生暖かい風が吹き抜けて去る。仁王くんの長い髪がふわふわと揺れた。しばらくして、仁王くんが口を開く。
「ああ、知っとるぜよ。あんないい女、もうおらんかもしれんな」
「そんなん、当たり前だろぃ」
丸井くんはぎこちなく、それでも普段通りの自信満々な台詞を返した。仁王くんが、ちょっと苦笑したのが分かった。
「だが俺ではあかんかったんじゃ。まったく神様もひどいぜよ」
「付き合えただけでもいいじゃねーか」
「それも、そうじゃな」
仁王くんは、空を見上げた。鳥の声さえもしない、ただ二人だけの声が響く、静かな空間。
誰も微動だにしない。
「俺は優香と向き合って、喧嘩すればよかったのかもしれん」
丸井くんは返事をせず、黙って聞いているようだった。私も、私のすぐ上に頭がある柳くんも、固唾を呑んで彼の言葉を聞いていた。
「優香のことを考えているつもりだった。最善の道を選んだつもりで、自分を納得させていた。だが本当は、優香から逃げてるだけだったのかもしれんの」
また少し、沈黙がおちた。静かな呼吸も心音も、思惑も気持ちも、すべてが風に巻き取られて空へ登っていく。しばらくして、ぽつりと丸井くんが言った。
「仁王、お前って器用だよな。器用すぎて、逆に不器用だ」
「そう、かもしれん」
少し仁王くんは笑った。ふう、と息を大きくはいて、今度はしっかりした声で、彼は言った。
「今まで余計な気を遣わせてすまんかった、丸井」
「何いってんだよぃ、お前のためじゃねーよ」
二人の声は、まだ静かな調子だった。でも少しだけ、いつも通りの元気さがこもっていた。たどたどしくはあるが、彼らは会話をする。ゆっくり、ゆっくりと。
「ありがとな」
「駅前の菓子屋のケーキ5つでいいぜ」
「……ピヨ」
また強めの風が吹いて、二人の髪や服をもて遊んでいった。仁王くんはあぐらをかいたまま、丸井くんは膝をかかえたまま、もう何も言わなかった。それでも二人の間にあった気まずい空間には、いつの間にか、暖かな空気が流れていた。
頭がぼうっとしてつっ立っていると、また柳くんにひっぱられて、由紀はさっきの廊下に戻っていた。
「ねえ、柳くん。何でさっきの、私に見せたの?」
「お前には知る権利があるだろうと思ったからだ」
柳くんはいやにはっきりそう断言すると、あと残るのは――いや、ここから先は俺じゃないな、と謎の言葉を残して、颯爽と去っていった。
(20110503)
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