アフターハーレム | ナノ
いくつもの世界が、ものが、人が、ドラマが繰り広げて、そして消えていった。

立海大附属中学校、この場所で。
去年の春に私の物語が始まって、1年経ってもなお、終わりは見えない。
それと前後するように、一つの恋の物語が秋に始まって、それと同時に別の誰かの恋の物語が変化を迎え、そして今年の春に終わりを告げて、また様々なものが変化して。喜びがあり、怒りがあり、哀しみがあり。楽しさがあり、苦しさもあり。

人の数だけ物語が生まれ、ものが飛び交い、情報が錯綜し、ありとあらゆる世界は変化を続けながら、私の周りを取り囲む。







さようなら、大切なひと




雨足はひたひたと壁を叩き、窓をすべり落ちて土へと帰る。絶え間のない静かな水音が、放課後の校舎に響く。ときどきすれ違う生徒や先生の足音、遠くから聞こえる楽器の音、かすかな笑い声。その中で、自分の上履きが床にこすれてキュッキュッとなる音がひときわ大きく聞こえる。由紀はある教室の前で足を止めた。
静かに戸を引くと、教室には女の子が一人。藤川さんが椅子に座って由紀を待っていた。


「お待たせしました。突然ごめんね」

「ううん、いいの。ちょうど私も、なんだか長崎さんに話を聞いてもらいたかった気分だったから」


藤川さんは穏やかな顔をしていた。元気はないけれど、以前のような、ほとばしるような哀しみを背負った雰囲気はもうない。由紀は彼女の前に腰掛けて、落ち着かない気分で口を開いた。


「藤川さん、後悔、してない?」


彼女は伏せていた目をあげて、じっと由紀を見つめた。彼女のきれいな瞳に映った自分は、相変わらず情けない顔をしていた。本当に、情けない。つらいのは私じゃないのに、これじゃあ立場が逆だ。


「うん。してないよ」


藤川さんは小さな声ではっきりとそう言った。彼女は顔をこちらに向けたまま、ゆっくりまぶたを閉じる。何かを思い出すように。そしてちょっと笑って、形の良い唇を歪めた。


「私、分かってなかった。自分ではちゃんとしてるつもりで、でも本当は自分のことで精一杯だった。みんなに気を遣わせていたのに、みんなに守られてたのにそんなことにも気がつかないで」


そうじゃない、ちゃんと仕事はしていたじゃないか、藤川さんは。由紀はそう言いたくなったけれど、結局何も言わなかった。今私が何を言っても、慰めにもならない。


「本当は頑張るだけじゃダメだったんだよね。前、夏美に選手に絡むときには気を付けろって言われたの。私、仁王くんとかブン太と全く同じ立場にいるって思ってたし、夏美が何言ってるのか分かってなかった。ううん、分からないなら聞けば良かったのに、気にしてもいなかった」


彼女はすっと顔をそらし、雨の降りしきる窓の外に目を移した。初めて彼女の涙を見た、あの雨の日のように。


「本当は分かってたのかもしれない。仲良くなったら、男の子からは友達以上の好意を向けられるかもしれないってこと」


うぬぼれててごめんね、と彼女は自嘲気味につけ加えた。なんとも言えなくなって、由紀はいや、とだけ返す。確かに彼女は、愛されていただろう。ただの仲間、という意味だけではなく。


「でもね、大丈夫だと思ってた。私には仁王くんがいたし、同じ部活の仲間だし、仕事をちゃんとしていれば大丈夫だって思ってた。みんなの支えになれると思ってた。ずっとただの友達でいられるって思ってた」




でもね。違ったの。




彼女は哀しそうな顔をしていて、でも、ぎゅっと唇をかんで、泣かなかった。

彼女には、気遣いが足りなかった。そして、彼らにも、自覚が足りなかった。
同じ立場に立とうとするのではなく、それぞれがわきまえるべきだったのだ、集団に争いを持ち込みたくないのなら。自分の気持ちにケリをつけながら。でも、それができなかった。

そしてまた、私にも。私にも覚悟が足りなかった。
自分に向き合いたいと思った。この世界で生きる自分に。そして幸村くんに出会った。彼らに出会った。私は、ちょっと協力をする、くらいのつもりだった。だって私は主役じゃないのだから。
無責任だったかもしれない。関わるっていうことは少なからずとも影響を与えるということだ。私なんかが彼らに関わって良かったの?こんな妙な経験をしている私が。彼らに対してだけじゃなくって、現に、目の前にいるこの女の子にも、私は大きな影響を与えてしまったかもしれないのだ。それも、悪い形で。振られたことには私は関与していない、でも、彼女がマネージャーを辞めたのは私のせいでもあるのだ。

廊下で誰かの足音がした。こちらに向かって歩いているようで、だんだんと大きくなってくる。藤川さんは、由紀の気持ちを代弁したかのようなことをつぶやいた。


「私、余計なことをしてしまった。こんなことをしてしまうなら、最初からいなければよかったのに」


そんなことはない、だって藤川さんはずっと、彼らを支えてきたじゃないか。ずっと、ずっと。間違えたことはあったかもしれない、でも本当に彼らの役に立っていたじゃないか。本当に余計だったのは私の方かもしれない。
由紀はそう言いたかったけれど、まるで藤川さんに自分の気持ちをまるまる言い当てられたようで、何もいえなくなった。


それに、彼女を救うのは私じゃない。


ガラリと教室の戸が開く。私が待っていた人物が一人、そこに立っていた。


「え、精市……?」


驚いた藤川さんは、椅子から立ち上がった。幸村くんは教室に入ってきて、藤川さんの真ん前で立つ。


「優香、伝えられなかったことがあるんだ」

「何?」

「俺たちはもう、今後、マネージャーの入部は認めないことにした」


藤川さんははっと息をのんで、手をぎゅっと握りしめた。彼女の肩が、髪が、唇が、小刻みに動いた。彼女がこぼした言葉は小さく震えていた。


「それって、私の、せい?」

「そうだね」


はっきりとした肯定に、彼女はうつむいた。幸村くんは彼女の様子にはかまわず言葉を続ける。


「テニス部のマネージャーをやりたいって子はたくさんいる。でも俺たちのマネージャーは、優香と夏美が最高だった」


幸村くんは手を伸ばして、宝物にさわるように彼女の髪にそっと触れた。


「君でダメなら、きっと他の人でもだめなんだよ。だからもういいんだ。男子テニス部のマネージャーは君たちの永久欠番にする」


彼女ははっと息を呑んで顔をあげた。大きく見開ひらかれた目には、きっと幸村くんが映っている。


「優香、すまなかった。本当に、ごめん。俺たちは君のことを、踏み台にしてしまった」


幸村くんは、苦しそうな顔をした。藤川さんはじっと彼を見つめた。


「君はあれだけ俺たちに尽くしてくれたのに。俺たちの勝手な都合で、結果的に君を追い出すようなまねをしてしまった。君を傷つけた。優香のおかげで、俺たちは練習に集中することができたのに。君を使い捨てるようなことをしてしまった。謝ってももう仕方がないというのは分かっているけど」


一言も発せずに黙って彼の言葉を聞いていた藤川さんのほほに、つうっと涙がつたった。


「そんなこと、ない。私、楽しかった、それに、ほんとは分かってた、分かってた、のに」

「優香。俺たちは感謝しているんだよ」


幸村くんは哀しそうな顔をしたまま、微笑んだ。また、遠くから足音が聞こえてくる。こんどは急いだ、やや乱雑な足音。


「去年全国で優勝できたのは君のおかげでもある。優香と夏美が、俺たちがちょっとでも多く練習できるように頑張ってくれていたことは知っているんだ」


バーンと大きな音を立てて、誰かが廊下から飛び込んできた。
さあ、遅刻ぎみだけど最後の一人の登場だ。


「優香せんぱいっ!」


それは切原くんだった。彼は藤川さんに飛び込むようにして抱きついた。


「俺、おれ、絶対、真田副部長だって倒せるぐらい強くなりますから、だから」


彼はぼろぼろ泣きながら、つっかえつっかえ、大きな声で叫んだ。


「だからまた、練習、見に来て下さい!また、前みたいに、話、してください!」

「赤也……」


由紀が幸村くんから頼まれたのは、話があるから教室で待ってて、と藤川さんに伝えること。藤川さんはマネージャーをやめてから極力男子テニス部との接触を避けていたようで、あまり連絡がつかなかったそうだ。きっと、自分の気持ちを整理したかったんだろう。
そこで、部長として決定したことであれ、きちんと藤川さんに謝罪をしたいという幸村くんと、それからついでに、彼女とどうしても話をしたいという切原くんの間を取り持つことにしたのだ。彼女がマネージャーを止めてからまだ日は浅いけれど、こういうことは早い方が良い。


藤川さんはついに、声をあげて泣きじゃくり始めた。今までとは違う、静かな泣き方じゃない、ずっとたまっていたもの、我慢してきたものが一気に溢れ出したような涙だった。切原くんも一緒に泣いている。幸村くんは二人を抱き寄せて、背中をなでてあげていた。
三人の姿が、何かを象徴しているように見えた。

これも一つ、覚悟のなかった私なりのけじめ。してしまったことはもう撤回できなくても、できるだけ、良くなるように。
これで本当に、私が幸村くんにできることは何もなくなった。今度こそ、もう、大丈夫。後は私が絵を仕上げれば終わりだ。絵を描くためにテニス部に足を運ぶだろうけれど、私が助けることはもう何もない。これからも同じ趣味を持つ友人としてメールは交わすだろうけれど、一緒に学校から帰ることはきっと、もうない。

由紀は三人の邪魔をしないように静かに立ち上がって、教室から出て行った。


(20110501)

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