アフターハーレム | ナノ
言うことがやさしさならば、言わないこともまたやさしさ。
決断することがつらさならば、決断しないこともまたつらさ。

何が正しいかは分からない。前に正解だった行動と正反対の行動が、今回は正解になることもある。それは仕方がない。人の数だけ生き方があれば、人の数だけ成功談があり、人の数だけ失敗談があるのだから。誰かと一緒に生きれば、お互いの生き様が複雑に絡み合って、余計に『正解』が何か、見えなくなる。
成功したと思っていても後にそれが失敗へと変貌してしまうこともある。

それでも前に進むことが、ときに強さとなるだろう。







ある女の決断




ついに本格的な梅雨が始まって、ますます雨の日が多くなった。今日も朝からどしゃぶりで、教室の窓は室内との温度差でくもっている。人の少ない朝の静けさ。由紀はきゅっと窓を手でぬぐって、空を見上げた。見渡す限りの空を一面に覆う雲から絶え間なく大粒の雨が落ちてきて、木に、家に、窓にあたって砕け散る。
クラスメイトたちが登校してきて、教室はいつもの活気を取り戻し始めていた。今日も外で部活はできなさそうだ。あの日、藤川さんと幸村くんの話し合いがあってから、由紀は一度もテニス部の練習を見に行けていない。雨のせいにして。


「おはよう、キコ」


朝に強い彼女の目に隈ができている。こころなしか顔のつやも良くない。夜更かしでもしたの、と聞くと彼女は眠そうに目をこすって、ぎゅうっと眉根にしわを寄せた。


「夜に、女テニの子とずっとしゃべってたんだ。ねえ由紀、たぶん聞いてないよね。昨日の放課後のことなんだけど」

「うん。何の話?」

「藤川さんと高橋さん。二人とも、マネージャーやめたんだってさ」


由紀は息を呑んだ。
もしかして。もしかしなくても、あの日、幸村くんと藤川さんが話をしたこと。新しいルールのこと。平部員の男の子が言っていた、今のままだったら藤川さんを追い出す、という言葉。
キコは少々乱暴に着席して、両手を伸ばして机にペシャっとつぶれた。片ほほを机にくっつけたまま、目だけこちらに向けて、その話を夜通ししてたんだよ、ともごもごとしゃべる。


「家庭の事情だって。やめる理由の説明は、それだけだったみたいよ。突然ですが申し訳ありませんって」


キコは大きいため息を吐いてから、なんだろうなあ、なんでかなあ、とつぶやいた。無責任なこと言うけどさあと付け足して、彼女はおでこを机にくっつけた。


「正直、あの二人、どうにかなるかもなあ、すごく変わるかもなあとは思ってたんだけど。なんでかなあ、マネ、やめちゃうとは思わなかったんだよね」


二人の間に、沈黙が訪れた。
私には関係ある。関係ない。どうにかできたかもしれない。どうにもできなかっただろう。彼らが決めたんだから仕方ないことだ。本当に、仕方なかった?
たとえ男子テニス部の全てを壊すことになったとしても、当事者たちが決めたことならばそれでいいのだ。きっと、そうなるべきだったのだろうから。でも、もしも私のせいならば。仁王くんは悪くない、藤川さんも悪くない、他の部員たちも悪くない。それでもダメならどこかで妥協するしかない。誰かが何かを我慢するか、変わるかしかない。
それでも、こんなの。


「ねえ、由紀。ショック?」


突っ伏したままキコがつぶやいた。由紀は口を開いたが、声は出てこなかった。


***


昼休みになるなり、由紀は美術室に逃げ込んだ。吐き気がする。誰もいない美術室で、その絵の具の独特の匂いに少しだけ心が落ち着く。ぴしゃりとドアを閉めて、由紀はずるずると壁にもたれかかった。

私が何か藤川さんに言っていれば、いや、それはうぬぼれなんだ、でもそれならいっそ、私が何もしていなければまだましだったのかもしれない。彼らは私を必要としていたけれど、でも、その結果が、これ?私のしたことは、本当に余計じゃなかったと言えるんだろうか。

幸村くんのあの目、悲しそうででもくっきりと強い目。あれがあなたの覚悟なんだね。
幸村くん、幸村くん。目じりがじんわりと熱くなる。なんで自分がこんな気持ちになっているかが分からない、つらいのは私じゃないはずなのに。幸村くん。今、会って話がしたい。でもそうすることで、私が一方的に頼ってしまいそうなのが怖い。彼が向き合うべきなのはテニス部で、私が向き合うべきなのは自分で。たとえ私たちが近しい存在であったとしても、まったく違う方向を向くべきはずなのに。それなのに、なんで。私の気持ちは幸村くんを向いている。

幸村くん。あなたは今、何を考えているのだろう。

彼らにもうあまり関わらないと決めた日から、心の中で、小さくて、でも決して消えずにずっと存在していた痛みが、ここに来てぴりぴりと膨張し始めている。


『大学生』だった私がかつていた場所、友達、家族、近所の人、私がかつて持っていたもの。私をとりまく全てが去年の春に全て消えて、私はここに来た。そしてカウンセリングを受けて、トリップしたことを受け入れられるようになって、決して忘れない昔の思い出を、あの世界で生きていた私の全てを心のなかにしまいこんで、そしてこの世界で生きようと、1年掛かって思えるようになった。

それなのに、ここに来てまた古傷がぱっくりと口を開けて、私を混乱させる。

藤川さんと高橋さんがテニス部からいなくなった。私が彼女たちの居場所を奪ってしまったのだとしたら。私がこの世界に来たせいで、私がかつての友人たちの元から去らねばならなかったように、こちらの世界の誰かが仲間の元から去らねばならないのだとしたら。

そして、藤川さんたちは私と同じ思いをするんだろうか。すべてを心の内に飲み込んで。


美術室のドアががらりと開いた。


「長崎さん」


会いたかったけど、会いたくなかった。顔が上げられない。どんな顔をしていいかが分からない。どうしてここにいるの。


「あの女子テニス部の子がここにいるだろうって教えてくれて。探してたんだ。長崎さんと話がしたくて」


彼はいつもどおりの様子で近寄ってくる。3メートル、2メートル、1メートル、0.5メートル。
普通の知り合いにしては近くて、友人としても近い、でも恋人同士の距離としては遠い、ふれそうに近く、瞬きの音が聞こえそうだと思えるほど近くて、でも決して体が触れあわない、そんな距離で幸村くんは立ち止まった。


「俺は今になってようやく気がついたんだ。もっと早くに、仁王とも優香とも向き合うべきだったんだって」


ふう、と静かに彼は息を吐いた。由紀はようやく顔を上げることができた。彼は少し寂しそうで、悲しそうで、でも穏やかで、なんとも言えない顔をしていた。


「俺たちは何だったんだろうと今になって思ったんだ。仲間だったはずだ。テニス部で繋がった、大切な仲間だったはずだ。でもそれならどうしてもっと早くに、その絆を守るために戦おうとしなかったんだろうって」


幸村くんが何を言おうとしているのかが分からなくて、由紀はただ黙って耳を傾けた。


「仁王と優香のこと、口を挟むべきじゃないと思ってた。個人的な問題だし口を挟んでいいとは思えなかった。でも、実は二人のことを腫れ物でも触るように扱っていただけで、本当は真っ向から問題に踏み込むべきだったのかもしれない。テニスには関係ないから、なんておかしいだろ。俺たちはただ一緒にテニスをするだけじゃなくて、今までに喧嘩もしたし、文化祭で馬鹿なことをやったりもした。それなのに、二人が悩んでいたのに、それに誰も踏み込めなかった。優香は俺にとっても弦一郎にとっても丸井にとっても……、いろいろな意味で周りから大切にされていたから。俺は怖かったんだ、個人的な彼らの問題がテニス部に流れ込んでくるのが。でもその恐れが逆効果になるなんて皮肉だね」


そう、誰かが藤川さんにはっきり言えば良かったのかもしれない。こんな遠回りなことをせずに。でも、なんて言いにくいことだろう。言えないじゃないか。藤川さんも仁王くんも絶対的に悪いことをしていたわけじゃない。それに、ぎくしゃくしてしまったのだって、本当に何が問題だったのかは最後まで分からなかったのだ。


「でもね、これで正しかったのかもしれない。まだ分からないけど、後ろばかり見ていても仕方がない。少なくとも俺たちは、その時々に最善と思われることをやったはずだから」

「みんなは?どう思ってるの。藤川さんも、高橋さんも、やめちゃったんでしょ、マネージャー」

「彼女たちは何も言わなかった、周りには詰め寄られていたけど。丸井や他の部員も、納得はしていないだろうけれど、たぶん大丈夫だ」

「幸村くんは、つらくないの。好き、なんでしょ」


動揺のかけらも見せない彼に投げかける。あなたはそれでいいの。もしかしたら、もしかしたら、一緒に頑張っていける道があったかもしれないのに。
幸村くんと目があった。彼の真っ黒な目にうつる自分は、情けない顔をしていた。


「好きだよ。今は違う意味で、だけど。でもね、俺はこれはすごく彼女らしい、彼女たちらしい決断だと思うんだ。だからこれで良かったんだとも思ってる。長崎さん、今まで助けてくれてありがとう。君のおかげだよ」


幸村くんは穏やかだったけど、傷ついたような色をも帯びていた。この前中庭で見たあの目と同じように。彼はきっと、私がそれに気づいていることにも気づいている。その上で、今の言葉を言ったのだ。

ねえ、いいの。私はここにいてもいいの。でもそれに答えるのは自分自身であって、彼ではない。


「藤川さんは、いいの、それで」

「きっと彼女は、後悔はしていないだろう。でも、確かに心配ではある」


長崎さん。申し訳ないんだけど、もう一つだけ頼みがあるんだ。
彼はそう言って、由紀に頭を下げた。


(20110312)

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