アフターハーレム | ナノ
古代ローマのある劇作家はいう。「恋には蜂蜜と胆汁が入り混じっている」、と。
また、ある悲劇の詩人はこう謡った。「愛は最も甘く苦いものだ」、と。
アラビアの人たちはことわざでこんなことを示すそうだ。「恋は甘く、恋の汁には風味がある。だが恋の練り物は苦い」、と。

理性は恋を支配するものではない――モリエール。
恋は手に持てる火ではない――ナヴァール。
恋は、誰にも容赦しない暴君である――コルネイユ。

甘いだけではすまされない。恋は薬にも毒にもなる、劇薬だ。







二度目の正直




幸村くんからは、少なくとも好意的に見られていると言っていいだろう。だがこの男はそうではない。嫌われてはいないだろうが、知人友人というよりはむしろ、知的好奇心を満たすための観察対象と見なされているようだ。


『from: 柳蓮二
 Sub : 今日の昼休み
 本文: お前が暇な確率92.5%。第一進路室に来てくれ、この前の続きをやる』


こんなメールを3時間目直後という、ぎりぎりのタイミングで送ってくるあたり、こちらの反応をデータとして測っているようにしか思えない。まったく、もてあそばれてるのか、私は。
お弁当をつかんで第一進路室に行くと前と同じように、既に三強はそろっていた。由紀の姿を見ると、柳くんはちらりと腕時計を見てノートに何かを書き込んでいる。


「柳くん……私の行動のデータなんて集めても仕方ないと思うけど」

「いつ何時役に立つのか分からないのがデータだ」

「なんかモルモットっぽく見られてるようでヤなんだけど」

「ほう、長崎は中学生らしい反応もできるんだな」


そういうって、私は中学生なんだから当たり前じゃないか。何だか腑に落ちない気分になる。そしてすぐにそんな自分の感情に気がついて、私はぎくりとした。
『中身』は大学生のはずなのに、私は心のどこかでずっと自分を大学生だと思っていたはずなのに、今の私は、あっさりと自分を中学生だと認めた。何のためらいもなく、言うまでもないことであるかのように。つまり、それだけ『私』は中学生思考になっているということで、それだけ『この世界』に馴染んだということか。
由紀は複雑な気持ちになった。これは良い傾向なのかもしれない、いや、良い傾向なのだ。この世界を受け入れたいとずっと願ってきたのだから。……でも、いくらなんでも、彼らに「嫌」なんて言うのは失礼だ。中学生としては普通の台詞であったとしても。だって、トリップしたと主張するこんな妙な存在である私が、真っ当に生きる彼らに嫌なんて言う権利があると言えるだろうか?

そっと幸村くんに肩をたたかれて、由紀は席についた。真田くんは腕組みをしたまんま椅子に座っている。難しい顔をして、彼は口を開く。


「すまんな、長崎。お前の方では何か分かったことはあるか」

「分かったこと、ではないけど、藤川さんと話をしたよ」

「優香、何か言っていたかい」


幸村くんは、痛ましそうな顔をした。それはそうだ。ずっとテニス部で一緒に頑張ってきたわけだし、何より彼は、藤川さんのことが好きだった、と言っていた。幸村くんは、恋愛という意味で彼女のことが好きなのだ。彼らはいつも一緒に団結していて、藤川さんは可愛くて性格も良くて、レギュラーの誰からも愛されていて。そして彼女は話題の中心にいる、私は偶然こうして彼らと話をしていて、幸村くんには特に仲良くしてもらえたけれど、私は彼女をとりまく彼らを外側からガラス越しに眺めているだけだ。
由紀は少し、自分の心が痛むのを感じた。私はこれ以上内側へは行けない、彼らの側には行けない。踏み込みすぎてはいけない、これは私の問題じゃないのだから。部外者でも仕方ないじゃないか。私はただの協力者なんだから。部外者だからこそ幸村くんたちに協力するとになったのだから。
それに、私には家族だってキコだっている。


「私はただ話を聞いただけなんだけど、どうしてこうなってしまったのか分からないって、泣いてた」

「……む」


真田くんは顔をしかめた。彼も心配しているのだろうが、どうもそういう表情を作るのは難しいらしい。


「そうか。精市、蓮二。お前たちはこの前焦りがどうのと言っていたが、それは何だか分かったのか」

「俺はきっと、なんとなく気がついたんだ。新人戦が終わった後に。このままだったらいつか俺が駄目になりそうだって」

「どういうことだ」

「恋愛と部活の『けじめ』がきちんとつけられるか、ということだよ、弦一郎」


恋愛と部活のけじめ。この話、キコが言っていた「領分」とか「覚悟」の話と似ている。

(藤川さんは領分を侵した)
(恋愛がからんだらさ、ややこしいことになるのは当たり前)
(感情がコントロールできないなら、踏み込みすぎるとキケンなんだよ)
(覚悟がないままに)

黙って幸村くんの言葉を聞いていた柳くんが口を開いた。


「つまり、部活に必然的に存在する『仲間』という関係と、互いに恋情を抱く『恋人』や片思いの『恋愛対象』といった関係を、その場に応じて適切に使い分けることができるか、ということだ」


分からなかったことが解明されていく興奮、これでこの問題の解決方法が見つかるかもしれないという期待感、それと同時にわく不安で、由紀は自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。聞こえてくる彼らの声とともに、自分の体がどくどくと音をたてる。そう、きっとそういうことだ。彼らが言う言葉一つ一つが、キコや他の人たちの台詞一つ一つがゆっくりと頭の中で織り上がっていく。曖昧でぼんやりと頭の中を浮遊していた霞が、少しずつ少しずつ形を形成して、目の前に現れてくる。


「あの、ね。その話なんだけど。キコ、って覚えてる?私が協力を頼まれたときに、話した私の友人のことなんだけど」

「ああ、覚えている。女子テニス部のクラスメイトだな」

「うん、そう。彼女がね、藤川さんは、男テニの選手の『領分』を『覚悟』がないままに犯してしまったんじゃないかって言ってたんだ。それってつまり、柳くんが今言ったことと同じじゃないかな」


幸村くん、柳くん、真田くんの視線が由紀に集中している。口に出すのに少し勇気がいって、由紀はごくりと唾をのんだ。


「マネと選手が付き合うなら、部活動っていう『公』でも、家とか休日とかっていう『私』でも一緒にいることになるわけでしょう。『公』では仲間として、『私』では恋人として。でも、そうやって割り切っているつもりでも、よっぽど上手くやらないと、『公』でも恋人とか恋愛っていう『私』の面は出ちゃうよね。『私』が『公』を侵食しちゃうっていうか」


柳くんはあごに手を当てて、すっと視線を私からノートにそらした。そして情報を探すようにぱらぱらとページをめくって、何かを思案しながら言った。


「弦一郎は、部活の休憩時間や部活の帰りに、優香にふざけてだきつかれたりしたことがあるな?」

「なっ、は、破廉恥な」


真田くんは顔をしかめて小さくうめいたが、柳くんは意にも介さず「やはりあるのだな」と決定事項のように頷いた。真田くんは渋い表情をしている。


「精市、お前はどうだ」

「俺も、しょっちゅうだよ。そう、それもあるんだ、そこなんだ」


ふう、と幸村くんはため息をついて、淡々と言った。真田くんはまだよく分かっていないような顔をしている。


「俺も、優香のことが好きだった。でも、部活中はテニスにだけ集中したかったし、実際そうしている。優香はテニス部員の誰とでも仲良くしようとする。それは『仲間』としては悪いことじゃない。むしろ良いことだ。でも距離が近すぎるんだ」

「距離だと?分からん、どういうことだ」

「つまり、だな、弦一郎。男同士ならともかく、女子が男子に気軽にボディタッチをしたらどうなる」

「その女子に恋情を抱くやからも出てくるだろうな」

「藤川さんは『仲間』として接しているつもりでも、相手からはそう思えないってことだね」

「そうだ。さっき長崎は部活と恋愛のことを『公』と『私』と表現したが、実際に公私混同をしないというのはかなり難しいことだ。藤川が『仲間』としてとったつもりの行動が原因で、恋情を抱いた部員も少なくないだろう。そして藤川が俺たちに抱きついたりしたことを仁王だって良くは思わないだろう」

「優香に悪気はなかっただろう。でも、結果的に――、ずいぶん悪い表現になってしまうけど、周りの気持ちを振り回してしまっているんだよ」


そう、つまりは、そういことだ。

藤川さんの真っ直ぐな性格から考えて、別に男子を手玉に取ろうとかはべらせようとしたわけじゃない。きっとそんな子じゃない。でも、その真っ直ぐさが裏目に出るようなことになってたとしたら?彼女が純粋に仲間として、仲良くしたい役に立ちたいと思い、男子テニス部員に親しく献身的に振舞った行動が裏目に出てたとしたら?美しくて自分たちに尽くしてくれる女の子に抱きつかれたりしたら、普通の中学生男子はどう思う?

新人戦で強敵と当たり、もっと強くならなくてはと彼らは思った。そんなことをしている場合じゃない、振り回されている場合じゃないと気がついた。部活ではもっと集中しなければならない、と。でも男子テニス部の中では自然と恋愛沙汰が起こってしまう、藤川さんを中心として。彼女を好きになったのは仁王くんだけじゃない。
藤川さんはマネだから、男子テニス部員は練習中に彼女から離れられないのだ。物理的にも、心理的にも。彼女は好意を振りまく、集中すべきときに近くに彼女がいる、彼女によって心理的に振り回される、でも同時に彼女に支えられてもいる、そんな中でどうしたらいいかという葛藤、ジレンマ。それが幸村くんや柳くんには焦りとなって表れ、仁王くんは別れを選択した。

そう、つまりは、こういうことだったのだ。

最後の幸村くんの一言で、四人は黙りこくった。教室の壁時計の秒針だけがチッチッチッと音を立てている。真田くんは渋い表情をしたまま、柳くんはノートに顔を向けたまま、幸村くんは少しつらそうに視線をそらしたまま。何も言わず、沈黙が落ちる。
仁王くんと藤川さんの別れから一気に表層に突き出た、感情の絡み合った問題が、静かに一つの仮説となった。まだ分からない。まだ分からない。人の感情なんて分からない。でも、たぶん、きっと。

もう、私が彼らに協力してあげられることはない。


「長崎さん?」

「本当に、分かって、良かった。もう大丈夫だね」


今、少しだけ怖い。ああもうこれで終わったのだと冷静に考える一方で、こんな仮説で本当に正しいのか、こんなことをして良かったのかと思う気持ちがある。本当にこれでいいのか、と。

でも、もう彼らは大丈夫だ、きっと。由紀はガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、にっこり微笑んでみせた。これからどうするかは主役の彼ら次第だ。舞台袖から去るときが来た。幸村くんとは、これからも仲良くさせてもらうつもりだけれど。
協力者、傍観者、なんと言ったら良いのかわからないが、私はここで退場だ。


「幸村くんたちなら絶対今の困難も打開できる。もうちょっとだけ、絵は描かせてね。そしたら、ちゃんと彩色した絵を描きあげるから」


心が苦しいのは、きっと寂しいだけだ。でも、それは仕方がない。
さあ、頑張って。私はただの美術部員に戻って、この先を見守らせてもらうから。

この世界を受け入れられなかった1年生のときとはまた違う小さな痛みが、私の中にある。


***




「いいのか、精市」


弦一郎が真面目な顔で俺に問うてくる。彼は長崎さんと俺の様子から何かを感じ取ったようだった。
俺は、長崎さんを引き留められなかった。彼女が出て行くのをただ見ているだけで。違う、そうじゃないんだよ、長崎さん。違うんだよ、そうじゃない。


「長崎は俺たちに一線を引いているな。心を開いていないというわけじゃないだろうが。さっき俺に『ヤなんだけど』と言った後もはっとした顔をしていた。何をそこまで遠慮しているのかは分からないが」

「蓮二にも分からないのか?」

「ああ。これはきっと、精市、お前にしか解決できない謎だろう」

(20110113)

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