アフターハーレム | ナノ
お釈迦さまはいいました。この世の苦には、四つの真理があると。

曰く、
一、苦を知れ。何について、あなたが苦しんでいるのか。
二、苦には原因がある。それを探し、省みよ。
三、その原因は、何事も人の心の持ち方あり、いつか必ず苦しさは消滅する。
四、苦から逃れるのではなく、正しい行いをすることによって、苦は消える。

空腹だって心のあり方しだいで解決できると考えるのは、普通の人には無理だとしても、恋の苦しさなら解決できるかもしれない。
恋をしなくたって人は死なない。


でも。恋する人にとって、それはその人のすべて。







春の雨に映る




変な人だと思われるかもしれない、引かれるかもしれないと思ったが、高橋さんは由紀の問いかけを真正面から受け止めてくれた。彼女は最初、呆然として立ち尽くした。それでも、彼女はすぐに、由紀の質問にはっきり答えを出した。

(テニス部の仲間は大事。でも、テニス部とかマネージャー業っていう部活そのものよりは、優香の方がずっと大事)

高橋さんは、小さい声ではっきりと断言した。そしてなぜか由紀に微笑んで、ありがと、と行って廊下の先へ消えていった。



男子テニス部は、相変わらずだった。このまま関係が崩れてしまうのではないかという不安はもうない。すでに、一旦崩れるところまで崩れきってしまったといえばいいか。

ただ澱んだ雰囲気が、どんよりと溜まっている。
表面的には穏やかで。その外と内の不整合が、よく見ると気持ちが悪い。

仁王くんは変わらず、柳生くんとつるんでいた。そして、丸井くんや桑原くんとは練習中もほとんど言葉を交わしていない。
一つ変わったとすれば、藤川さんだ。陰口がひどいせいか、少しやつれたように見える。顔も、前よりももっとつらそうだ。ただ、丸井くんや切原くんと話しているときだけは、少し救われたような穏やかな顔をしていた。

観察しているだけの私でさえつらいんだ、きっと張本人のつらさは半端なものじゃないだろう。おざなりにデッサンはしているが、ちゃんとした絵を描く気にはなれない。今日は男子テニス部の練習はオフだから、行かなくても済んだけれど。ぱーっと買い物にでも行こうかな。

今日は曇天だ。濃い灰色の分厚い雲が垂れ込めて、空が低い。今にも雷が鳴りそうだった。春雷の季節はとっくに過ぎたのに、珍しいものだ。


「長崎さん、呼ばれてるよー」


鞄に教科書を詰めていると、クラスの女の子に声をかけられた。つられて廊下を見ると、すらっとした奇麗な女の子。廊下から、藤川さんがこちらを見ていた。


「突然ごめんね、長崎さん」


由紀が廊下に出ると、藤川さんは力なく笑った。少し首を傾けて、荒れた細い指先で奇麗な黒髪を触る。


「あの、昨日ね、夏美、高橋夏美から長崎さんのこと、聞いて」


由紀はぎくりとした。覚悟がどうのという話を聞いたのだろうか。私が勝手に、テニス部と藤川さんを天秤にかけて選択を迫ったなんて、今思えば失礼すぎる。


「長崎さんの言葉で気がついた、私はずっと優香の味方だからね、って言ってくれて」


由紀は息をのんだ。気がついた?私は、彼女のための言葉なんてかけなかったのに。藤川さんはうつむいてしまって、表情が分からない。


「今日、知ってると思うけど、練習オフだから。だから、今日なら長崎さんと話ができるかもって、思って」

「高橋さんのかいかぶりだよ。私、そんなたいそうなこと、してない。でも、私でよければ、話を聞くよ」

「ごめんね、聞いてもらっても、いい?」

「うん。廊下で立ち話もなんだから、うちの教室に入ろう。たぶん人もいないだろうから」


***


向き合って座っても、うつむいたまま、なかなか藤川さんは話出さなかった。つらいこともいっぱいあって、話したいことは多いだろう。それに、初対面なのだ。どこまで話そうとか、迷いもあるのだろう。
由紀は、彼女が話し始めるのを忍耐強く待つ。
ぱらぱらと振っていた雨がいつの間にか勢いよく地面に降り注ぎ、タタタタ、と窓を叩いている。薄暗い教室の中には、雨の音だけが響いていた。

それにかき消されてしまいそうなほど小さい声で、対話は始まった。


「長崎さん、精市と仲いいよね?精市、私とまさは……仁王くんについて何か言ってた?」


答えはイエス。でも、そのまま彼女に告げるわけにはいかない。由紀は表情を変えないまま、どこまで話そうか、考える。


「テニス部の人間関係、今後が心配だとは言っていたよ」


嘘ではない。隠しているだけで。でも、幸村くんや柳くんの言葉をそのまま伝えても何も解決にはならないだろう。きっと、藤川さんが傷つくだけだ。


「そう……。ねえ、長崎さんは私のこと、どう思う?」

「まっすぐだなって思う。それから、可哀想っていうか、つらいだろうなって思う」


彼女は、横を向いて、雨でろくに眺めの見えない窓の外を見た。


「うん、つらい、の、今。私、どこで間違えちゃったんだろう。仁王くんはね、何にも言ってくれなかった。優香は悪うない、っていうだけで」


由紀は藤川さんの横顔を見つめた。始めて言葉を交わしたときよりも少しやせて、憂いを帯びた顔は、美しかった。


「ねえ、私、どこで間違えちゃったのかな」


彼女は横を向いたまま、急いで手をあてて涙をぬぐった。ただ静かな悲しみが、彼女を支配していた。
由紀は鞄をさぐってティッシュを差し出す。あまりこすると、腫れてしまう。


「きっと、どこも間違えてないんだよ、仁王くんは嘘をついたんじゃないと思うよ」

「でも、でもね、」

「私は仁王くんのことはよく知らない。でも、少なくとも私からは、仁王くんは本気で藤川さんのことが好きなんだなあって見えたんだよ」


彼女はうつむいて、しゃくりあげ始めた。


「だ、たら、どうして?仁王くんに迷惑かけた、のかな、そんなつもり、じゃなかったのに」

「どっちが悪くなくても、それでもね、価値観とか生き方が違えば、すれ違っちゃうことって、あるんだよ。好きなだけじゃダメなことって、あるんだよ」


ぽろぽろ、藤川さんの大きな瞳から音もなく涙が溢れ出て、ほほをつたい、あごにそい、ぽたり、ぽたりとスカートの上に落ちた。


「でも、だって、どうしようもないほど好きだったの、に」


由紀は彼女の手に触れた。

きっと、藤川さんは自ら距離をおくべきだったんだ。彼らの「領分」を犯さないように、「覚悟」を持って。
でもそんなこと、できる?社会人だって、職場で公私を完璧に使い分けるのは難しいのだ。職場恋愛のこじれで退職したとか左遷されたなんてよく聞く話だ。それを、普通の中学生の女の子にやれと、どうして言えようか?
彼らは悪くないけれど彼女だって悪くない。


「ごめんね、長崎さん、あ、りがと」


彼女の冷えた手には力がこもっていなくて、ただひたすらに、彼女の悲しみが伝わってきた。


***


長崎さんは、俺と趣味がほとんど同じだった。被っていないのはテニスぐらいで。彼女と話をするのは、非常に楽しかった。彼女は大人びていた。いちいちきゃあきゃあ騒いだりしない。まるで、弦一郎や蓮二と話をしているかのように、旧知の仲であるかのように、ごく自然に話ができた。

そして彼女は、常に一歩引いている。テニス部のそばにいても、決して余計な口出しをしてこようとはしない。自分の分をしっかり見極めていて、俺たちのして欲しいことはしてくれるが、干渉はしてこない。
それは最初、とても好ましく見えた。

でも、今の俺には物足りない。

もっと仲良くなりたいと思っても、長崎さん自身が一線を引いて、逃げていってしまう。


『To : 長崎由紀
 Sub : お誘い
 本文: 今度、一緒に東京の植物園に行かないかい?早ければ、次の日曜日にでも。どう?』


携帯の青いライトが二度光って、送信完了、の文字が浮き上がる。
テニス部に過大に干渉されるのは、確かに困る。


でも、もっと俺の近くに来て欲しい。

(20110101)

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