se_チェス用語で氷帝 | ナノ
――山川の末に流るるとちがらも、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
川に落ちながらも浮かぶ木の実を見て、一千年前を生きた僧はこう歌に詠んだ。おのれの体でさえも犠牲にする覚悟があるならば、どんな窮地であろうとも活路が見いだせるものである、と。

また、似た故事成語に「肉を切らせて骨を断つ」というものもある。自分も傷を負うが、それによって相手により大きな傷を負わせることを指す。失うものと得るものの大きさを測りにかけて英断をくだせ、ということだろうか。

どちらにせよ、冷静で肝のすわった人間にしか合わぬ言葉だ。そういう意味では、彼にはぴったりの言葉ともいえる。







ギャンビット




「山本さんて、授業中だけ眼鏡かけるんやな」


忍足侑士はある日、隣の席の山本礼にこんなことを言った。丁度眼鏡をはずしていた礼は、やや焦点の合わない目で彼の顔を見る。


「うん。普段かけるほど悪くもないんだけどね」

「いちいちかけたりはずしたりするの、面倒くさくあらへん?」

「そう、かな?私はそう思ったことはないんだけど」


礼は首をかしげた。侑士はそんな彼女の様子を、じっと観察する。


「もしかして、結構まじめで几帳面なタイプか?」

「うん。遅刻とかも嫌で、教室にはだいたい一番乗りなんだよね」


へえ、そうなんや、と侑士が返事をしたところで、授業開始のチャイムが鳴った。
短い業間休みのたわいのない会話。少なくとも礼は、そう思っていた。






ある朝、礼がいつも通りの時間に登校すると、教室には侑士がいた。彼は眼鏡を机においてちょっとうつむき、右手で目を押さえている。柔らかく澄んだ朝の光が四角い窓から差しこんで、彼の髪と眼鏡にきらりと反射した。


「おはよう、忍足くん。今日は早いんだね」


礼が声をかけると、侑士はさっと顔をそらして眼鏡をかけ、それからようやく彼女の方を向いた。礼は彼のしぐさに少しひっかかりを覚える。
侑士は机に立てかけた青いラケットケースをぽんぽんと叩いた。


「おはようさん。部活の朝練が早う終わったんや」

「なるほど。ねえ、忍足くんて、眼鏡をかけてない素の顔を見られること、もしかして嫌い?」

「あ、ああ、まあ、そうやな」


微妙な反応に、礼はあまり触れられたくない話題なのかな、と考える。侑士はそんな彼女を見て口の端をかすかに上げた。


「その眼鏡、珍しい形だよね。最近は幅の細い眼鏡が主流だからさ」

「せやなあ、丸眼鏡なんて今どき俺とお笑い芸人くらいやわ」


侑士はそう言って、おどけてみせる。
でも。礼はふふっと笑った。忍足くんって、丸眼鏡がよく似合っている。柔らかく笑う整った顔に、おしゃれな眼鏡が乗っている。長い黒髪がほほにかかり、首筋に流れ、シャツと肩の隙間からそっと鎖骨にかかる。見ていると鼓動がどんどん早くなってくる。
礼が慌てて視線を上げると、侑士と目があった。大きくはないが、切れ長できれいな、男の子の目。




6時間目の終了間近になって、疲れていたのか、侑士はうつらうつらと舟をこぎ始めた。授業が完全に終わるころには、机に突っ伏して寝てしまった。
礼は「忍足くん、もう授業終わったよ」と一応声をかけ肩をゆすったが、彼は起きない。

(どうしよう。放っておくわけにもいかないし)

礼が困惑していると、侑士はごそりと動いて頭を横に倒した。礼には一瞬、彼が目を開いたように見えたが、気のせいだったらしい。

(……あ)

下を向いた際に外れたのか、顔に眼鏡がかかってない。始めは目元を隠していた前髪も、さらりと流れて、礼は意図せずして素顔を拝んでしまった。伏せられた目を縁取るまつげが長い。
見たらまずい。少し動揺して礼は立ち上がったところ、机をがたっと揺らしてしまう。
彼は目を覚ました。


「山本、さん?俺、寝てしもたんか」


侑士は体を起こし手で顔をぺたぺたさわる。そして眼鏡の不在に気がついて、慌てたように顔を伏せ、机に落ちた眼鏡をかける。


「山本さん、もしかせんでも、見た?」

「ごめん」


焦りと申し訳なさで礼は目をうろつかせる。それを見て侑士はにやりと笑うが、彼女は気がつかない。再び礼が彼と目を合わせた時には、侑士は少し困ったような表情に戻っていた。


「本当にごめんなさい、見るつもりじゃなかったの」

「いや、ええんや。もう俺もいいかげんにせないかん」

「いいかげんに……?あの、言いたくなかったらいいんだけど、素顔がらみで、何かあったの」

「大した話やないで。幼いころ、目つきが悪いってようケチつけられとってなあ。せやから今は丸眼鏡で目元、ごまかしてるんや」

「でも忍足くん、切れ長で、きれいな目じゃない」

「おおきに。でもな、今だに自信ないんや」


侑士はそう言って苦笑する。
礼は心底後悔した。ポーカーフェイスの彼がこんな顔をしている。そっと去ればよかったのに、忍足くんを傷つけてしまった。


「ごめん、無神経に傷口えぐるようなことしちゃって。役に立たないけど、私にできることならなんでもする」

「山本さん、あんまり気にせんでええで」

「でも、」

「ほんなら、今週の日曜日、ちょっとつきおうてくれへん?」


さっきの話でな、気が晴れる場所があるんやけど一人だと行きにくうてなあ、と侑士は言う。礼は勢いこんでうなづく。侑士は再びにやりと笑ったが、今回も彼女は気がつかなかった。


***


日曜日。侑士が礼を連れて来たのは玉林公園だった。園内に都内最大の動物園があることで知られた公園だ。

(どこにいくんだろう)

礼は黙々と侑士についていく。しばらくして、公園の路ばたで侑士は足を止めた。


「これや」


彼の前には、碑があった。横に長い長方形の石。その上に彫られていたのは……丸眼鏡。その下に「めがね之碑」と堂々たる赤字で彫り込まれている。
礼はあぜんとした。忍足くんがかけているのとそっくりだ。というか、これ、どう反応したらいいんだろう。


「これな、俺の親父が、俺を救ってくれた丸眼鏡に対する感謝の意を込めて、建ててくれた碑なんや」

「ああ、そうなんだ……って絶対嘘でしょそれ!眼鏡業界の先人の功績がなんとかって書いてあるから!」

「お、ノリツッコミを習得しとるとは、関東人なのにやるやん山本さん」

「……。もしかして目つきのエピソード自体、うそ?」

「さあ、どうやろ」


礼は憤然として侑士を見たが、彼はニコニコとニヤニヤの中間みたいな顔をしていた。


「そんな、ひどい!こっちは真剣だったのに!」

「すまんな、からかいたくなってしもうたんや。まあお詫びに、玉林動物園にでも行かんか」


くったくのない侑士の笑顔に、礼は毒気を抜かれた。
彼にまあまあ、と背中を押されて動物園に向かうが、なんか腑に落ちない。


「ねえ、なんで日曜日つぶしてまで大がかりな冗談を言ったの?そんなに私をからかうの、面白かった?」

「それはな……。お、丁度ペンギンパレードやるって書いたるわ。行こか」


侑士は礼の手をつかんで、パレードの場所へ先導する。

目つきの話は、嘘ではない。やっぱり素顔見られるのは嫌や、と侑士は思う。でも狙った獲物を捕らえるためなら、そんな感情くらい犠牲にしてみせる。

先手必勝、早いもん勝ちや、と彼は独りごちた。当分は内緒にしとこ、山本さんとの距離を一気に縮めてデートに連れ出すために、こんなのことをしたというのは。
作戦は、成功した。

ギャンビット:駒を先に、相手より一つ多く犠牲にする代わりに、その後の展開や陣形を優位にしようとする定跡。

(20101129)

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