short | ナノ
白き花首に添う(仁王)
空から降る水滴が廊下の窓を激しく叩く。曇った窓ガラスは流れる雨水でモザイクが掛かっていた。湿気を含んだ夏服を体にまとわりつかせて、私は教室に向かう。寒さで目が覚めたから今日はいつもよりも早く学校に来た。普段だったら生徒でにぎわい始める時間のはずなのに、雨脚が強いせいか生徒達は登校時間を遅らせているようで、今日の学校はしんとしている。ただ、ひそひそとささめくような小さな話し声とせわしない雨音が聞こえるばかり。
ガラリとひときわ大きく音を響かせて、私は教室のドアを開けた。おはよう――――いつものようにそう挨拶しようとして、口をつぐんだ。
ふわふわと所在なさげに揺れる白が、机に伏せっていたから。
慌てて気を引き締める。できるだけ音を立てぬよう寝ている仁王くんに近づくと、彼の真後ろにある自分の椅子をそっと引く。鞄を机の横にかけて、座って、再び椅子を引いて、ようやく安心。ほっとため息をつく。
誰もいない教室で仁王くんと二人っきり。願ってもない好機だ。私は机に頬杖をついて、遠慮なく目の前にいる彼を見つめた。
夏服だけだと寒かったのか、綿のカーディガンを着た背中がゆっくりと上下する。緩やかな寝息が半径20センチを揺らす。ワックスでセットされているだろう立ち上がった髪は、柔らかく白に近い薄灰の光となる。長く伸ばされた後ろ髪が青い髪紐で結ばれて、ものうげに襟の下に垂れていたそこまで無意識のうちに目でたどって、私の視線はいつものように一点に釘付けになる。
仁王くんの頭と首の分かれる、その場所。彼の首は制服の下に隠れた猫背からぐうっと伸びて、うなじの存在を隠すように後ろ髪がゆらゆら揺れている。あるときはシャツの襟に、あるときは後ろ髪に、またあるときは彼の手に隠されるそこには、彼の秘密が隠されているような気がした。
白き花首に添う
3年生になって彼とクラスが一緒になったとき、私の視線は彼に張り付いてなかなかはがせなくなった。なんてこともなく彼を受け入れ「有名人なのに何をいまさら珍しそうに見てるのよ、そりゃ私だってクラスが一緒になってドキドキしてるけど」と呆れたように言う友人の横で、私はぼうっとなった。それから五ヶ月経っても、私は飽きもせずに彼を見つめている。
「だって髪を白くしてる人って珍しいじゃない、つい見ちゃわない?」
「見るなら髪じゃなくて顔だよね普通は……優、あんた髪色フェチなの?」
「え?」
「今思い出した。去年丸井に対しても同じこと言ってなかった?髪赤いから見ちゃうとかなんとか」
「……あ」
相変わらず変な趣味してるねとゲラゲラ笑う友人をよそに、私は廊下の先に消えていく彼の後姿を見送った。
丸井くんのときも髪色に釘付けになったけれど、でもそれはせいぜい1、2週間だけだった気がする。すぐに見慣れてしまった。でも仁王くんは違う。自分でも何が何やら、磁石の双極のように自然と彼に目が吸い寄せられてしまうのだ。しかも、惹かれるのは顔じゃなくて髪で、しかも後姿、もっと言ってしまえばチラチラと見えては隠れる彼のうなじなのだと、最近ようやく気がついた。
小さくなった仁王くんは後ろ髪をひょこひょこ揺らして、相変わらず他人にその実態をつかませようとしない。
***
カチカチと時計が音を教室に刻む。相変わらず仁王くんはゆっくりしたテンポで呼吸をする。バタバタと誰かが追いかけっこをして廊下の前を過ぎていく。教室にはすぐに静寂が戻る。ここだけゆっくり時間が流れているようだった。
うなじが見たい。触れてみたい。ちらちらと見えては隠れるそこに。
分かりやすくて分かりにくい男の子。それが今まで仁王くんを見てきた感想だ。うなじだけを追っているはずだったのに、目で耳で自然とキャッチしてしまう情報は私の頭の中で勝手にまとまってそういう結論を導いた。テニス部レギュラー。理系科目が得意で白くて猫背。後ろ髪が長くて一本縛り。仲が良いのはダブルスペアの柳生くん。そんな分かりやすい特色があるくせに、その内実は分かるようで分からないような、そんな人だ。
群れないけれどどんな人とでも会話をする。でも喋っても何を考えているかがよく分からない。どこか人と距離を置いていながらあっさりと近づいてくる、でもたぶん体を触られることを好まない。無防備に人前で寝てしまうくせに寝顔は絶対に見せない。警戒心が強いのだと思うけれど、自分の情報でもあっさり人に話してしまうことがあったりして。
テニスの試合で見せるイリュージョンのように、どれが本当の彼なのか分からない、どれも彼でないのかもしれずどれも彼であるのかもしれず、結局何も分からないのだ。
彼のうなじを見てみたいと思う、もっとそばで、もっと近くで触れてみたいと思う、でもそのたびにうなじの前でひょこひょこ揺れる後ろ髪が邪魔をして、その動きと青白の鮮やかな色に気を取られて結局はぐらかされてしまう。
仁王くんは猫のような人だと思っていたけれど、実はこっちがねこじゃらしで遊ばれているのかもしれない。
花は鮮やかに咲き、芳醇な香りを放ち、密を纏う。個性を出して蜂を誘う。でも本当に彼らを彼らたらしめているのはがくに隠された花首じゃないのかと、ずっとそう思っていた。すぐ折れて花を落とすのか、とげがあるのか、曲がり具合、色、太さ、さわり心地は。目立たぬそこに、凝縮されたそこに昔からどうしようもなく惹かれるのだ。
意識の届かぬ無防備さと無意識の隠匿が彼本人のように見えて。触れみたい。誰も核心をつけぬ彼が、誰でも近づけるようで近づけぬ彼が少しでも理解できるような気がして。
目の前の白は背中を上下させて、うなじを丸出しにして眠っている。私は静かに右手を伸ばした。彼の背中に届きそうなあたりでためらって、それでもやっぱり手を伸ばす。後ろ髪に触れる。するりとした手触りをもっと撫でていたくなる、でも起こしてしまったらと思うと恐ろしくて、私はそっと髪を横に避けてうなじを出した。
白磁のように白い首。野外でずっとテニスをしているというのに焼けない体質なのか、彼の肌は髪と同じくなめらかで白い。
指を伸ばす。指の腹で少し、ほんの少しだけそこに触れる。こわごわと触れたそこは見た目と同じくなめらかで、汗をかく時期だというのにさらりとしていた。体温が低い。私の指が熱く感じられるほどで、ゆっくりと自分の熱が彼に流れ込んでしまいそうだった。
カチカチと時計は時を刻み続ける。クラスメイトはまだ来ない。
突然、彼が机に伏せていた顔を横に倒した。
私はぎくりとして手をすばやくひっこめる。起こしてしまったのかもしれない。安易にさわられることを彼が嫌うことは知っていたのに、しかも首だなんて普通はさわらないところに触れていたとばれたらどうしよう。嫌われるかもしれない。そんな考えが頭を駆けめぐる。それでも寝ている時特有の呼吸を続ける彼に、私はほっと安堵した。
寝顔が、見えるかもしれない。うなじが見えなくなったのは残念だけどいつも手やら机やらで寝顔を見せないことを考えればかなり貴重だ。冷や汗をかいたドキドキからは一転、今度は期待で胸が高鳴ってくる。
うなじから目を離して、彼の顔をまじまじと見る。
突然、彼の薄い唇が動いた。
「そんなにまじまじと見られたら、視線の熱で火傷するぜよ」
息が、つまった。
彼はむくりと起き上がって、すっと私の机の上に腰掛ける。ぼりぼりと頭をかいてあくびをする。そして首を回してから――呆然として絶句している私にニヤリと笑って見せた。
「……お、起きてたの?いつから!?」
「プリッ」
彼は頬を緩めてニヤニヤしたまま、いつものように意味不明な単語を発した。
「いやプリじゃなくて教えてよ」
「ピヨ」
焦っている。自分でも明白に顔に出てるだろうと分かるくらい挙動不審になっていたけれどどうしようもない。彼は明らかにこちらをからかっているし、私は密かに彼に触っていたという後ろ暗さがあって落ち着けない。
彼は、寝起きの顔なんてしていなかった。面白そうなものを見たとでも言うように私の顔をのぞき込んでくる。
見つめていたことが、ばれてる。じゃあ、じゃあうなじに触ったこともばれたんだろうか。でも彼は嫌そうな顔もしておらずある意味いつも通りだ。だから大丈夫かもしれない。
「そんなに俺の髪が珍しいか」
「えっ」
「いつも見てたじゃろ、後ろから」
そこまでばれているとは思わなくて、私は顔に血が上っていくのが分かった。恥ずかしい。それをごまかしたくて慌てて言葉を紡いだ。
「ごめんじろじろ見て。その、珍しくてつい目がいっちゃうんだよねその白髪!」
「……しらがって言われたんは初めてじゃ」
「うわっごめん違った、その、灰色?っていうか、ロマンスグレー?」
「……それは老人じゃな」
「えっあっその」
「アッシュグレイじゃ」
「ああそうそうそれ!」
彼は呆れたように唇をへの字に曲げて、全く、人を年寄り扱いするなんてひどいぜよ、と拗ねたように言った。教室にだんだん人が集まってくる。クラスメイトたちは私たちのことを、また仁王が誰かをからかっているのか程度にとらえたらしく誰も干渉してこない。こんなときにかぎって!
「それで、なんでそんなに見てくるんじゃ。髪型が好きってわけでもなさそうだが」
「ごめん」
「怒ってるわけじゃなか、気になるだけじゃ」
「ええと、後ろ姿が美人だよね仁王くんは!」
「……プリッ。それはどうも。だがごまかさずに吐きんしゃい」
私は彼から目をそらした。言えない。うなじに萌えて見ていましたなんて気持ち悪すぎる。弁明すればするほど状況が悪化するだろうし、どうしよう。
彼の強い視線に耐えきれなくなって、私はこわごわ口をひらいた。
「その、首が」
「ほう。俺の首がどうかしたか」
「ええと……その、個性的だなあと!」
「は」
予想外の言葉だったのか、彼はぽかんとした。だが妙なごまかし方をしてしまった私自身も焦った。
「いえその仁王くんらしいというかね」
「詳しい説明が欲しいんじゃが」
「う」
「ほら、吐きんしゃい」
予鈴が鳴った。詰問が終わるとほっとする。
「授業始まるね!1時間目理科室だから準備しなきゃ!」
あからさまに安堵した私を見て、彼は不服そうな顔をした。質問から解放される安心感でほっとながら教科書と筆記具を準備して席を立つと、仁王くんもまた立ち上がって顔を寄せてきた。そして、花の呼吸のように静かにささやいた。
「覚えておきんしゃい、かならず吐かせちゃる。ま、そのかわり、触りたかったらまた触らせてやるぜよ」
今度は私がぽかんとして仁王くんを見上げる。彼はにんまりと笑うと、背を向けてひらひら手を振りながら教室を出て行った。
(20110823/相互記念小説、日陰様へ)
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