淡泊なる情熱 | ナノ
1

 約束の場所で彼は一人、校舎の側壁にもたれ、腕を組み、軽くうつむいて紺のマフラーに顔を埋めていた。彼の横顔にはやや伸びた髪がかかって、ここからはその表情は読めなかった。ときおり緩く吹く早春の冷ややかな風が枯れ葉を転がしては去っていく。あたりは人気がなく静かで、ただ校舎の中から立海生たちの声が小さく聞こえるのみだった。
 教室から小走りで来た私は校舎の角を曲がったところで彼を見つけて立ち止まった。右手の中で二つ折りになっている紙をもう一度確認する。私宛てだ。間違いない。緊張しているけど大丈夫。いつもの通りにすればいい。一つ大きく深呼吸をしてそこから一歩踏み出す。
 私の足音が聞こえたのか、彼はぱっと顔をあげて微笑んだ。その笑顔はモナ・リザのように優しくて、噂通りに穏やかそうな幸村に私は少し安堵した。

「驚かないんだな」
「うん、まあ……」

 壁から身を起こしてまっすぐこちらへ歩み寄ってくる彼に、私は曖昧な返事をした。

 ──放課後、3号校舎西の空き地で。 Y

 それだけが書かれたルーズリーフの紙片を自分の下駄箱で見つけたのは今日のお昼休みが終わるころだった。そのとき一緒にいた親友の佳奈は「Yって誰だろう?」と首を傾げていたけれど、私にはすぐにわかった。なぜならそのほんの二十分ほど前、佳奈と一緒に中庭を通りがかったとき、二階の廊下からこちらを見下ろす幸村と目が合ったからだ。いつもなら淡々と私から目を反らすだけなのに、今日の彼は窓越しに意味深な笑みを浮かべると下駄箱の方を指さしたのだった。
 有名人の幸村が知人ですらない私を呼び出した理由にはだいたい見当がついていた。

「あのね、先に断っておきたいのだけど。私は佳奈……渋谷佳奈を困らせるような協力はできないよ」
「うん? なんだい突然」
「佳奈のことで私を呼び出したんじゃないの?」
「どうしてそう思ったんだ?」
「だって佳奈のこといつも見てるから、幸村くん。違った?」

 幸村は驚いたように眉を上げて、それから嬉しそうな顔をした。その表情を見て確信する。やっぱり佳奈の話なんだ。
 あの幸村精市が佳奈に恋していると気が付いたのはほんの二ヶ月ほど前のことだった。私はその日偶然、遠くにいる幸村が熱心にこちらを見ていることに気が付いたのだ。そのとき彼と私の目は合わなかった。つまり、彼は私ではなく佳奈を見つめていたわけだ。それから私は幸村を見つけては密かに観察するようになったけれど、幸村はいつも佳奈を見ていた。それで彼の気持ちは十分に理解できた。
 佳奈は優しくて可愛くてよくモテる。一方の私は佳奈とは正反対だったけれど、私たちは不思議と馬が合っていつも一緒にいた。そのせいか、佳奈に告白したいから協力してくれと男子に頼まれることがよくあった。相談に乗ってくれと言われたことも少なくない。

「いや、違わない。さすがだね」
「『さすが』?」
「キミもいつもオレのこと見てただろ」
「えっ」
「いいよ、わかってるから」

 鋭い指摘にギクリと凍りつく。
 幸村は優しい口調で断言した。否定の言葉を受け入れるつもりはハナからないようだった。つまり、とぼけるなということか。
 思えば一瞬なれども幸村と目があったのは一度や二度ではなかった。それはすなわち、彼が私の視線に気が付いていたということだ。どうしよう、なにか返事をしないわけにはいかない。これじゃあまるで私が彼に恋してるみたいだ。誤解されては困る。でもいったい、どこから説明したらいいんだろう?
 幸村は私を正面からじっと見つめている。いつも佳奈ばかりを見ている彼の見透かすような視線に、焦りと緊張が一層高まっていく。

「どうして見ていたんだ?」
「それは」
「キミ、オレのこと別に好きじゃないよね。だから不思議だったんだ」

 幸村はにこりと笑みを深くした。その台詞は確信と自信に満ちている。
 なんだ、わかっていたのか。それなら話は早い。私はほっとしてすっかり乾いてしまった唇を開いた。

「幸村くんが佳奈を見てたから気になって、つい」
「どうして」
「どうしてって」
「渋谷さんを見つめる男なんていっぱいいるだろ。キミはどうしてオレだけを気にするんだ」

 私は再び返答に詰まった。確かにその通り。佳奈はたくさんの男子から熱烈な視線を集めている。けれどその中で私が気にしていたのは幸村の視線だけだった。
 たぶん、幸村精市という存在の特殊性が私にそうさせたのだろう。幸村は佳奈よりもずっと人気があってスポーツ万能で頭もよくて人望もあるスーパーマンだ。そんな優秀な彼に、私は内心で同情したのだ。佳奈には成田くんという彼氏がいる。去年のクリスマスからつき合っていて、周りには内緒にしているのだが、私だけは佳奈から聞いて知っていた。私は幸村の恋を知ると同時にそれが叶わぬものであることを知ってしまったのだ。
 けれどこの理由を正直に幸村に伝えるわけにはいかず、私は適当にごまかすことにした。

「幸村くんみたいな人も佳奈を見つめたりするんだなって」
「どういう意味だい」
「幸村くんて人気者ですごく遠い人だと思ってたんだ。そんな人が自分の友達を見てるなんてさ、なんだか急に身近に感じてしまって。だから興味が引かれたんだと思う」
「ふうん、なるほど。合点がいった」

 一応これも嘘じゃなくて本心だ。神の子とまで呼ばれた男も叶わぬ恋をするのかと、彼に同情をするのと同時に、彼も「普通」なのだと実感したのだ。あらゆることに恵まれているわけではない、彼もただの中学生男子なのだと。
 幸村は私の回答に満足したようで、一つ頷いた。
 彼はなにかを言いかけたが、そのとたん強い風がごうっと吹き抜けた。冷たく鋭い空気が髪を通り抜けて首筋をひやりとさせる。私は身をすくめた。幸村は乱れたマフラーを巻き直すと少し考えるそぶりをして校舎の南の方向を指さした。

「ここじゃ寒いし移動しようか。立ち話もなんだし」
「校舎の中だと人が多いんじゃ──」
「ついてきて」

 幸村はきびすを返すとさっさと歩き出した。私は一瞬あっけにとられたが、止まる様子もなくどんどん小さくなっていく幸村の背中に我に返って、急いで彼を追いかけた。強引というかマイペースというか、幸村はモナ・リザなんかではないらしかった。
 彼は壁沿いに三号館の南端まで歩くと角を左へ折れた。そこは学校の敷地のへりで、三号館と塀の間の幅五メートルほどのスペースが奥へ続いていた。東西に細長く伸びたそのスペースの大半は成長しすぎた椿で埋め尽くされている。

「幸村くん! こっち行き止まりなんじゃない? 生け垣があって東側へは通り抜けできないよ」
「よく知ってるね。でも大丈夫、寒くなくて座れる場所がある」
「このあたりにはベンチもなかったと思うんだけれど」
「と、思うだろ?」

 幸村は校舎と塀の間でみっちりと生えている椿の生け垣に近づくと、突然ひょいと姿を消した。

「え!? どこ!?」
「こっち。ほら、ここ」

 声のした方を見れば、壁のようにそびえ立つ生け垣と塀の隙間から幸村の手が突き出ていた。よく目を凝らしてみると、確かにそこには大人が一人通れるくらいの隙間があった。遠近感が狂ってしまうのか、本当は隙間の奥に生えている椿がだまし絵のように手前に出っ張ってきているように見える。よほど注意を払わない限り隙間があるとは気が付かないだろう。
 まさか、生け垣の中に入るのか! いったい幸村はどこへ行くつもりなのだろう。
 ためらいつつも幸村の手に近づくと、彼は「ちょっとごめん」と私のコートの袖をつかんだ。後はなすがままだった。あっという間に中に引き込まれたと思えば彼は生け垣というよりは林になった薄暗い椿の間をどんどん奥へ進んでいく。
 と、ほどなくして唐突にあたりがぱっと明るくなった。

「なに……ここ」
「驚いた?」

 暗く続く椿林の真ん中に、十畳くらいはありそうな空間がそこだけぽっかりと開いていた。その小さな広場には、山茶花や咲き始めたばかりの白梅、つぼみが膨らみつつある桜などが所狭しと植えられている。そして木々の間、広場の中央には樹木に守られるようにして小屋くらいのサイズの古い温室が佇んでいた。分厚いアルミでできた温室の骨組みには苔が生え、土埃が付き、ガラスはまだらに白く曇って雨の跡がついてしまっている。しかしまだ保温機能は生きているのか、温室の隅の方で割れているテラコッタの鉢の間からは水仙が身を伸ばしてうつむき加減に花を咲かせていた。その隣には紫のパンジーが、その奥には青いムスカリ、もっと奥ではタンポポが咲いている。
 幸村は桜の間を縫うようにして私を温室まで導いた。温室のドアを開けるとキイッとさびた蝶番が軋む音がした。彼に続いてドアをくぐると生暖かい空気が頬を包み込んでくる。幸村は温室の端に打ち捨てられているこれまた古びたベンチに腰を掛けると、隣をぽんぽんと叩いた。私はまだぼんやりとしたまま、幸村から少し離れて座った。桜の枝がゆらゆらとガラス越しに揺れていた。

「こんなところ、あったんだ」
「退職した美化委員の先生に聞いたんだ。十五年くらい前には使われていたらしいけど、今はこの通り」
「へえ……、どうして使わなくなったの?」
「詳しいことは全然。手が回らなかったのかもしれないね」

 私はマフラーを取って膝の上でそれを握りしめた。まだ冬の残り香を引きずって殺風景なままの世界の中で、百花繚乱に華やぐここだけが外界から切り取られた異世界に思えた。私はひそやかに息を吐いてこっそり隣を伺った。膝に肘をついた格好の幸村はやや仰ぐように空を見ている。彼の整った横顔には大切なものを愛でるような優しい表情が浮かんでいて、それが儚げな雰囲気を醸し出していた。ここは、本当に私が知っている学校なのだろうか。見ている景色も、肌に触れる空気も、隣にいる男も。すべてが私にとっては非日常だった。

「それで、話の続きだけれど。渋谷さんと仲がいいキミがオレを見ていたから丁度いいと思ったんだ。だから話しかけた」

 私は面食らって我に返った。幸村は桜を見上げたままだ。

「丁度いいって、なにが?」
「頼みごとをする相手として丁度いいってことだよ」

 胃のあたりがひやりとする。佳奈とデートさせてくれとでも頼まれるのだろうか。彼の恋を応援することはできないし、かといって成田くんのことを教えるわけにはいかない。佳奈を困らせる協力はできないと言ったのに。
 私の困惑が伝わったのか、幸村は空を見上げたままゆっくりと首を振った。

「ああ、大丈夫。特別になにかしてほしいってわけじゃないんだ。ただ渋谷さんについて聞きたいだけ。それに、誰かと彼女の話がしたくなってさ」
「……うん」

 どうやら私はこの男の恋の話相手として選ばれたらしい。自分の友達と話すのではダメだったのか、私が幸村とは縁のない人間だったからかえって心の内を晒すにはいいと思ったのかもしれない。私は大人しく耳を傾けながらも落ち着かない気分になっていたが、彼はお構いなしに話を続けた。

「不思議だね。渋谷さんのことを見るの、やめようと思ってもつい目で追ってしまうんだ」
「そうなんだ」

 目を伏せた幸村はなにかを慈しむような、物思いに耽るような、遠く色あせた記憶を呼び戻そうとしているかのような、そんな顔をしていた。きっと佳奈のことを考えているのだろう。甘酸っぱくて、ほろ苦くて、私はますます落ち着かなくなった。これはもう告白以外のなにものでもない。淡い桜色に染まった色硝子のような恋。でも私はその硝子が砕けてしまうことを知っている。それが後ろめたくて、小さく胸が痛んだ。
 早く終わらないかなあ。幸村に相づちを打ちながら心の中でこっそり願う。

「それで……ああそうだ、まずはキミに自己紹介をしなきゃな」
「え」
「なんで驚くんだい」
「だって、佳奈の話をするんじゃないの?」
「そうだよ。でも、ちゃんと話をするにはお互い相手を知ってた方がいいだろ?」
「それはそうだけど」
「改めまして、オレは3ーCの幸村精市。知ってるだろうけど男子テニス部の元部長だ。趣味はガーデニングで前は美化委員だった。テニスも一応趣味だけど、正確には趣味というより人生の中心だな。そのほかには本と音楽、美術にも興味がある。今ハマってるものは……一番は絵かな。特に印象派が好きでね、そういえば今度都の美術館にルノワールの絵が何点か来るらしくてそれが気になってる。それから──」

 幸村は律儀に自己紹介を進めていく。強引マイペースであるなりに紳士的な態度をとってくれるつもりらしい。私はなぜ幸村に人望があるのかわかった気がした。
 一通り話終えた彼は、ちらりと腕時計を見た。いつの間にかあたりは薄暗くなり、目の前にそびえる三号館の壁についた明かりがぽつりぽつりと灯り始めた。

「今日はこのあと用事ある?」
「ううん。まだ大丈夫」
「他の曜日は?」
「へ」
「用事はあるのかい。部活はもうないよね」

 今はもう三年の秋だ、運動部も文化部も引退している。立海は中高一貫だから受験もない。つまり、時間はあるといえばある。けれどもこの質問、幸村はいったいなにを考えているのだろう?

「明日と明明後日は習い事があるけど他は基本的に大丈夫」
「なら明後日も、できれば別の日も、オレに時間をくれないか」

 なんと、恋愛相談は今後も続くらしい。私は断ろうと口を開いた。幸村が失恋するだろうことを知っているのに素知らぬ顔で相談に乗り続けることは不誠実に思えたからだ。今でさえも早く相談が終わらないかと願っているのに。──だけど。

「今日だけだとたぶん話しきれないと思う。頼む。お花見をしがてら、付き合ってくれるだけでいいから」

 幸村は私の方を向くとふと笑みを消した。めったに私を見ることのない彼の双眸は深い色を宿したまま、蛍光灯の無機質な光に不安定に揺らめいた。彼の表情は誠実そうにも切なそうにも見える。
 ずきり、心が痛んだ。幸村は今まで人知れず切実な気持ちを抱えてきたんだろう。積極的な協力はできなくとも、話相手になるくらいはしてあげられるではないか。私は思わず頷いてしまった。

「いいよ、私でよければ」
「よかった。今後ともどうぞよろしく」

 とたんに笑顔になった彼を見て、私は早くも後悔し始めていた。
 今後とも、だって。つまり恋愛相談は当分は終わらないということだろう。うっかり雰囲気に流されて承諾してしまったけれど、彼は私の反応まで見越した上で真面目な顔をしてみせたのではないだろうか。彼の手のひらの上でうまく転がされている気がしてならなかった。
 私はこっそりため息をつくと、後悔の念をのどの奥へ押し込んだ。
 ──じゃあ明後日の放課後、またここで。
 こうして、少し冷たい桜色の中で、幸村と私の奇妙な関係は始まったのだった。

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