今日は朝から夜だった | ナノ
誰でもないを捕まえる

仁王先輩が柳生先輩になりすまして私に接触した理由は、はっきりとはわからなかった。でも、柳生と名乗らずに湯川と名乗ったのは私の苗字を仁王先輩が知った上でのことだったはずだ。おそらく私が仁王と名乗ったことに対する意趣返しだったのだろう。そのくらいしか理由が思い浮かばなかった。書庫で見た仁王先輩は怒っていたわけではなさそうだったけれど、あのニヤニヤ顔を見るに、勝手に仁王と名乗った後輩をこらしめてやろうとか一泡吹かせてやろうとかオモチャにしてやろうとか、そんな気持ちだったに違いない。
私はそれから数日間、図書室に行かなかった。というか、行けなかった。仁王先輩はもう図書室にはいないだろうし、彼が私にわざわざ話しかけに来る理由もないだろうけれども、会いたくはない。あんな恥ずかしい台詞を本人に言ってしまった。そして本人と知らずにずっと何食わぬ顔で接していた。もう嫌だ。本当だったら学校も休んで引きこもりたいくらいショックだった。だが休むにも行かず、結局ただ図書館を避けてひっそりと暮らすだけだったけれど、その間に仁王先輩と校舎の中で出くわすことは一度もなかった。ただ時々、放課後の校舎の窓からテニスコートを見るとそこに白い髪がいる、ただそれだけだ。

出会うきっかけもない。彼の目ももう私を見ていない。いつの間にか作り上げられていた私と仁王先輩の奇妙な関係は跡形もなく消滅した。


***


それから一週間ほどした昼休み。できるだけ避けようと決めたはずが、前に借りた本の返却期限が間近にせまっていたせいで、また私は図書室へ足を運ぶ必要ができた。それに生徒手帳もいつの間にかなくしていた。職員室にも届いていないということは、学校の中で落としたなら図書室で預かられているはずだった。学校の外でなくしていたなら再発行しなきゃならないから、どのみち図書室には足を運んで届いていないか確認する必要がある。
返却カウンターに並んで順番を待っている間に、私はまさか仁王先輩はいないだろうなとあたりを見回した。本棚の間にも机にも生徒はたくさんいたが、もちろんそこに白い髪はいなかった。その事実に安堵と一抹の寂しさを覚える。だが再びカウンターに向き合おうとしたとき、私は見慣れた焦げ茶色が机に座って本を読んでいるのに気が付いた。
柳生先輩。彼は背筋をぴんと伸ばして、綺麗に両足をそろえてまっすぐ本に向き直っていた。あれは柳生先輩だ。仁王先輩じゃない。私は息を深く吐いて、今度こそカウンターに向き直った。映画のようだと思っていたから今でも思い出せる。初めて会った柳生先輩ーー「湯川先輩」は足を組んで、椅子の背に頬杖をついていた。色素の薄い、かっこいい男子。あの姿勢は、本物の生真面目な柳生先輩ならおそらくするはずのないものだった。
私が話をしていたあの「湯川先輩」はもういない。いや、最初からいなかったのだ。彼が私の妄想の産物であればくだらない気楽なお話で済んだのに、実際には別人が中に「いた」のだから始末に負えない。

「1年E組の湯川さん?」
「はい」
「生徒手帳、届いているみたいですよ」
「あっ、ありがとうございます!」

返却カウンターにいた図書委員の女の子がぽんと手を打って、カウンターに置いてある大きなレターケースから藍色の生徒手帳を取り出した。良かった、再発行する必要はないようだ。私はほっとしてそれを受け取り、代わりに本を返してカウンターを後にした。
でも図書室から出る前に、私は生徒手帳に見慣れぬ黄色い紙が挟まっていることに気が付いた。ひっぱっても抜けない。どうも付箋のようだ。なんだろうかと生徒手帳を開いた私は、付箋を見て固まった。見慣れぬ字で一言、こう書いてある。

「前へ前へとバックする方法は?」

頭に浮かんだのは仁王先輩のことだ。それはただ直感だったけれど、ほぼ確信していた。仁王先輩の字だ。これは私に対する問いなのだ。前へ前へバックする方法。前に「湯川先輩」が教えてくれたのだ。そんな言葉遊びがあると。

今日は朝から夜だった
からりと晴れた雨だった
遠い南の北極で
正義の味方の悪漢が
黒い白馬にまたがって
前へ前へとバックした


私はきびすを返して図書室奥の階段を目指した。薄暗いそこを降りて、いつもしていたように書庫の中に入る。広い書庫の中を歩いて、角を曲がって、もう一つ曲がって。
白い明かりがついたその特等席の上に、彼はあぐらをかいて座っていた。うつむいていたらしい彼は顔を上げて唇の端をちょっとつり上げた。

「ようやく来たか。……驚かんな」

私は仁王先輩を真正面から見た。未だに怖いと思っていたはずなのに、そしてもう会いたくないと思っていたはずなのに、不思議と怖くなかったし嫌でもなかった。むしろ、妙に腹立たしかった。この男。

「来てたんですか」
「ここは昼寝に最適だとわかったからな。空調が利いとるから寒く暑くもない、明るすぎない、うるさくもない。な?」
「そーですか」

我ながら不服そうな声が出た。きっとふくれっ面をしているのだろう。仁王先輩はククッと喉で笑ったので、私は余計にむかむかしていた。

「正義の味方のふりした悪漢がご登場って感じですね」
「ひどいぜよ、俺は白馬の王子様ナリ」
「腹が真っ黒な白馬ですか」
「それは否定せん」

彼はニヤッと笑った。上機嫌な彼と反比例して、ますます自分が仏頂面になっていくのが分かる。人で遊ぶなんて、さすがに酷すぎやしないか。確かに私が悪かったけれど、ここまで時間をかけて変装までして私に近づいておいてこの結末はないんじゃないか。
今までは先輩を前にしてどもってばかりだったのに、腹立たしさのあまりぽんぽんと言葉が口に出る。

「ひどいじゃないですか、『湯川』先輩。仁王先輩には言わないでって言ったのに」
「俺は何も言ってないぜよ、言ったのはおまんじゃ、『仁王』葵」
「ひどい、私は名前をかたるつもりなんてなくて、タイミングが悪かっただけなのに」
「俺もそうじゃ」
「嘘つき」
「ああ、嘘だな」

自分の目がつり上がったのが分かった。かっこいい、素敵だと思ってたけど却下却下。やっぱり見た目通りの人だ。そんなに優しくもないしいい人でもない。想像していたほどの不良ではなかったけどそれだけの話だ。

「仁王って名乗ってしまってどーもすみませんでした!もうこれでいいですか」
「な、何を怒ってるんだお前さんは」
「もー来ませんから!」
「は」
「私みたいな鈍くさい女がテニスコートの側なんて歩いていたせいで先輩が女子に水かけるはめになっちゃったんですよね!分かってますよ、鈍くさいことくらい。先輩がここで昼寝するっていうならもう来ないんで安心して使って下さいさようなら」

仁王先輩は机から降りると腕組みをして私を見下ろした。

「なんじゃ、それがおまんの素顔か。ずいぶんポジティブなネガティブだな」

仁王先輩を間近に見たとたん、怒りで膨れ上がっていた気持ちが急激にしぼむのが分かった。冷静になるとやっぱりちょっと怖い。友人や家族を目の前にしているのかのように無茶苦茶言ってしまったが、相手はあの仁王先輩だ。大人しく謝って去るべきだった。どうしよう、自分の馬鹿野郎。
私は口の中でごにょごにょと言い訳をしてから、帰ります、と言って逃げるようにきびすを返した。

「待たんか」
「ぐっ」

彼は私の制服の後ろを掴んで引き留め、ぐるっと前へ回り込んできた。彼は愉快そうな顔をして、私に問いかけた。

「答えは分かるか?」
「は」
「前へ前へバックする方法じゃ」

私は黙った。前へ前へバックするって、何だ。そもそもこれは矛盾した言葉の連なりに節をつけて口ずさむような単なる言葉遊びであって、大した意味などないはずだ。バックは後ろへ下がることだし、バックして前に行ったら前にも後ろにも進まない。

「分かりませんよ、そんなの」
「教えちゃる。両手を出せ」
「……ゴキブリとかゴミとかを手のひらに乗せるつもりなんじゃ」

元の口調に戻って小声で不安を訴える私に、彼はあきれたように笑った。

「んなわけあるか。早く。両手を前に、そうじゃ」

素直に前に手を出すと、彼は私の左手を右手で、右手を左手でがっしり掴んだ。要するに、両手を繋いで輪を作ったような状態になった。いきなり手のひらに感じた低い体温に心臓が跳ね上がった。私は半分パニックになって手を振り回したが彼の力は強くてびくともしない。

「ぎゃあっ、何すんですか」
「なっ、痴漢に触られたみたいな声出すな!これは転倒防止ぜよ」

どきんと跳ねた心臓は全く降りてこなくて、手も離してくれなくて、私にはどうしようもなかった。女の子のあしらいが上手い仁王先輩にはなんてことのない行為なのだろうが、私にとってはそうではない。

「転倒防止?」
「ほれ、そのまま後ろ歩きしてみんしゃい」

意味が分からない。だが私は言われたとおり、彼に手をつながれたままバックした。心臓の音がうるさい。たぶん顔にも血が上っているはずだ。暗い書庫で良かった。
しばらく後ろへ進むとさっきまで仁王先輩が座っていた特等席にぶつかって、私はそのまま座り込んだ。仁王先輩とは手をつないだままだ。

「な?」
「何が『な?』ですか。ただの後ろ歩きじゃないですか」
「前へ進んだろ」
「後ろですよ」
「俺から見たら前じゃ」

彼はニヤリと笑った。私はバックしているけれど彼から見れば前に進んでいるから、前へ前へバックしたことになる。そう言いたいらしい。
私は思わず少し笑って、手をほどこうとした。

「一休さんですか、仁王先輩は。って何ですか」

手をふりほどこうとしても相変わらずびくともしない。焦って手を動かしても全く効果はない。当の仁王先輩を見ると、彼は涼しい顔をしていた。

「大変だったぞ、お前さんを見つけるのは」
「……すみません」

彼はそのままの格好で話し始めた。椅子に座った私の目の前に仁王先輩は立っている。手をつないだままで。鼓動がますますうるさい。手を話して欲しい。私は仕方なく、うつむいて返事をした。

「お前さん、笑うこともあるんだな」
「そりゃ、そうですよ。仁王先輩だってそうじゃないですか」
「俺は普段から変わらん」
「そんなことないです。たまに優しい顔してるときもあるけど、普段は今みたいなすまし顔だし」
「今?こっち見てみんしゃい」
「嫌です」
「なんで湯川は時々生意気になるんじゃ。見たら手、放しちゃる」
「分かりましたよ、もう」

赤い顔は見られなくないけれど、ここは暗いから大丈夫だろう。それにいいかげん手を離してもらえないと恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ。
私は顔を上げて、仁王先輩の顔を見た。彼の手がそっと離れていく。彼の顔は採光窓から入る淡い光を真正面から受けて、はっきりと見ることができた。

優しい目。書庫でずっと話をしていたときの『彼』の目。

「なあ。湯川が後ろ向きに歩いていても、俺が捕まえといたらおまんは前へ進めるぜよ」

私は息をのんだ。彼は唇に浮かべていた笑みを消して、しかし優しさを目尻に宿したまま、言う。
私は口を開いて、閉じて、また開いて。ようやく気持ちが掠れた音になる。

「そう、ですね」

彼はにっと微笑むと、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「ようやく素直になったな、『仁王』」
「そう呼ばないで下さい」
「おまんが悪い」
「悪いのは『湯川』先輩です」
「ピヨ、まあそれでもいいか」

彼の頭が近づいてきて、頭と頭がこつんとぶつかる。私の目の前に下がってきた白馬のしっぽが、書庫の闇の中で外から入る光に照らされて、一際白く輝いて見えた。


(20131209,fin)

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