今日は朝から夜だった | ナノ
秘密の場所への侵入者

私は椅子から転げ落ちて机の陰に隠れた。けげんな顔をしている隣の男子に靴ひもがほどけていたんですアピールをするために、しゃがみ込んで上履きに手を伸ばす。わざと解いた靴ひもを結び直しつつ机の隙間から廊下をうかがうと、仁王先輩がうちのクラスのテニス部男子と話をしていた。銀髪が目に映った瞬間、反射的に隠れてしまったのだが正解だったようだ。彼は後輩と話しながらもちらちらと教室の中を見ている、ように見えるのは気のせいだろうか。
彼はなぜ今日も1年の教室に来ているのだろう。しかもよりによってうちのクラスに。まさか私を探しに来た……なんて訳ないし偶然には違いないが、それにしても心臓に悪い。仁王先輩と会わないように気をつけようと決心したのは昨日の話だが、まさか彼が今日も1年のところへ来るとは、しかも1時間目が始まる直前に来るとは予想もしなくてすっかり油断していた。


彼を無事にやりすごしたその時から、私はしばらくの間、仁王先輩を避けることに腐心した。意外なことに、彼は1年生のテニス部員と上級生のつなぎ役でもしているのか、頻繁に1年の教室をうろついていた。1年女子にファンができるのもよく分かる。今までも仁王先輩はよく1年生のところへ来ていただろうに、私が半年以上その事実に気がつかなかったのは、ひとえに図書室にこもることが多く、教室にいても本を読んでいるか友人とのおしゃべりに熱中していたせいだ。ああいうタイプの男子に興味がなかったせいでもある。
気をつけてさえいれば、出くわす前に仁王雅治の存在を察知するのは非常にたやすいことだった。私が気配に敏感だというわけではない。彼がわかりやすいのだ。髪の派手さはもとより、周りの女の子たちが彼を放っておかない。少し気怠そうなしぐさ、直球の質問もはぐらかしてしまうミステリアスな物言い、きゅっとあげた薄い唇に宿すニヒルな微笑み。気さくに女の子に話しかけるが誰に特別優しくするでもない、冷たくて甘い物腰。彼が1年生の教室へ来るとそれだけで一部の女の子たちがきゃあきゃあ騒ぎ、浮き足立つのが分かった。

しかし私がそうやって気を張っていたのはほんの数日間だけだった。
彼が1年の教室へ出入りするならこちらが教室から逃げればいいだけのことだ。いつものようにさっさと図書館へ向かってしまえば、彼に会うことはない。


***


図書室の地下に位置する書庫には、古典や、旧仮名遣いの昔の本、文豪の文学全集が置いてあった。マンガや流行りの本は1階にあり、ここは自習できるほど広い机もなく薄暗い場所だったからわざわざやって来る人は多くない。だからこそ静かに読書するには最適な場所だ。静けさもひんやりとした空気も古びた紙のにおいも、すべてが好ましい。
私はその日の昼休み、書庫の南東の角へ向かった。そこには書棚の陰になるように小さな机と椅子が置いてある。前に誰かがここを使っていたのか小さなデスクライトまで設置してあって、明るさも十分に確保できる。この机に荷物を置いて本を物色し、この机で読書をする。図書室へ来るときはいつもそうやって時間を使っていた。今日もそうやって過ごすつもりだった。

「んん?」

だが本を抱えて机に戻る途中で、私は書棚の陰からすらりとした男子の足が見えているのに気がついた。まばたきをして目をこするが、見間違えではないようだ。誰かが、私の椅子に座っている。鞄を置いてあるのだから誰かが座るつもりだと分かるはずなのに、私の特等席にいるのは一体誰なのだろう。私は遠回りをして、席を横から見ることができる場所に移動し棚の陰からこっそり様子をうかがう。

そこには眼鏡を掛けた真面目そうな男子がいた。彼は椅子に横向きに座り、背もたれに右肘をのせて頬杖をつき、ひざの上に置いた本を左手でめくっていた。抹茶色のぼろぼろの表紙。その本はどうやら私が手に取ったもののやっぱり返そうと机の上に置いておいた小説らしかった。
書庫の天井そばに並ぶ小さな採光窓から白く淡い光が入ってきて、ほこりをきらきらと反射させながら、色素の薄いその男子を浮かび上がらせていた。焦げ茶のさらさらとした髪、通った白い鼻筋、眼鏡越しに見える伏せられたまつげは繊細で長い。まるで映画のワンシーンのような美しさがあった。

かっこいいな。

素直にそう思い、彼の上履きを見る。入っているラインは黄。2年生だ。そういえば彼のことは見たことがある気がする。ときどき図書館で見かけたように思う。そのときから整った顔だなあと思っていたけれど、改めてじっくり見てみると均整がとれていて実にハンサムだ。
しかしどう声をかけようか、そこ私の席なんですけどって言うか?でも先輩に文句なんて言えない、黙って荷物だけ取って別の場所に移動しようか。そんなことを思い迷っていると、彼は顔をあげた。目がばっちり会って、彼はにっこり微笑んだ。その笑顔に促されて私は意を決して話しかけた。

「あの、すみませんその……」
「この本は貴方のですか?すみません」

彼は椅子から立ち上がると丁寧に詫びた。私は彼の物腰が柔らかくて穏やかであることに安心した。この人は怖くない。

「たまたま目に留まったのですが、題名を見て興味が沸いてしまいまして、つい。お返しします」
「いえ!いいんです、返そうと思っていたところなので」
「では私が返しておきますね」
「えっ、申し訳ないですし、大丈夫です!」
「構いませんよ、ちょっとしたお詫びです」

押し問答になり掛けている。私は素直にお礼を言って、彼に甘えることにした。彼は本を抱えて颯爽と去っていた。あんなに落ち着いていてかっこいい男子がいるんだなあ、と感動を覚える。一つしか年は違わないはずなのになんて大人っぽいのだろう。仁王先輩とは別の方向での大人っぽさだ。
私は空になった特等席に近づいたが、座って良いものかためらった。彼はこの席で読書がしたいのだろうか。それならどいた方がいいかもしれない。自分の特等席扱いでいつも占領していたけれど本来なら誰が使ってもいいはずの場所だ。彼は私がこの席で読書をしても怒りもしないだろうが、それじゃあまるで私が好意にかこつけてこの場所から先輩を追い出したみたいだ。それは嫌だ。
座ろうか座らまいかおろおろしていると、なぜか彼は戻ってきた。そして私を見て首をかしげる。

「どうかしましたか」
「あの、この席、座ります?」
「は」

また変なことを口走った。彼は目を丸くしている。なんで私はこうも口下手なのだろうかと、分かっていたことだが改めて自分のコミュ障っぷりを情けなく思った。授業の発表みたいに言うことが決まっていたらちゃんと話ができるのに、こうやって突発的な会話をするのが苦手だ。特によく知らない相手とは。
ともかく、今回は仁王先輩のときの反省を生かしてなんとか説明せねばなるまいと思った私は、適当に言葉を連ねた。

「その、先輩この席に座っていたから、ここで読書したいのかなって思って、それなら私別のところに行きますから、その」

彼のぽかんとした表情を見て、私は顔に血が上るのが分かった。言葉が尻すぼみになって消える。なんてバカなことを言ったんだろう。こんな薄暗い場所で本を読みたいと思う人なんて私以外にいるもんか。気を聞かせたつもりで逆にこの場所を押しつけているみたいだ。変なやつだって思われたに違いない。どうしよう、どう言おう、自分のバカ野郎。
ほんの数秒の沈黙にいたたまれなくなって蚊の鳴くような声で「なんでもないです」と呟くと、彼はぷっと吹き出した。恥ずかしい。

「ありがとうございます。しかし、どうぞお気遣いなく。そこは貴方がいつも座ってる席でしょう」
「知ってたんですか!?」

今度は私が目を丸くする番だった。見られていたのだろうか。ぜんぜん気がつかなかった。

「ええ。前に偶然その席に座っている貴方を見つけて、驚いたものです。こんなところに座って読書できる場所などあったのかと」

今の彼は、抹茶色の本の代わりに色がやや退いた黒い表紙の分厚い本を手にしていた。ポーの小説の古い翻訳本らしい。彼はその本を優しく長い指でなでた。

「よく図書室へ来ていたのですが、まだ知らない場所があったとは思いもしませんでした。それからこの場所が気になっていたんです。そしたら、貴方がいつもここに座っていた」

私は顔が上げられなかった。変なことを言ってしまった上に、こんなにかっこよくて優しい先輩に見られていたなんて。せめて私がもうちょっとかわいい顔をしているか話すのが上手ければいいのに。ただただ恥ずかしいと思うだけでどう返事をしていいものかもよく分からなかった。

「そうだ、自己紹介がまだでしたね。私は湯川と申します」

私は仰天して顔を上げた。驚きのあまり恥ずかしさも忘れてしまった。まさか自分と同じ苗字だとは、こんな偶然があるものだろうか。

「先輩も湯川なんですか?」
「先輩『も』?ということは、貴方もですか」
「はい。1年E組の湯川葵です」
「おやおや、すごい偶然ですね。これも何かの縁でしょう。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

何がよろしくなのかさっぱり分からないが、ともかく私は急いで頭を下げた。こんな素敵な先輩と知り合えるなんて光栄なことだった。それに、よく書庫に入るくらいの人ならもしかしたら話が合うのかもしれない。
彼もそう思っていたようで、彼はまず私におすすめの本を尋ねてきた。


***


「仁王くん、やけに機嫌がいいですね」
「プリッ」

俺は振り返って、ドリンクをあおってからニヤリと笑って見せた。普段通りにしているつもりでも機嫌の良さが外に現れていたらしい。この鋭い友人の目はごまかせないというところか。彼はラケットを几帳面にベンチに置くと、行儀良くドリンクを飲んでいる。

「まあな。ちょっとええことがあってな。それにしても柳生」

柳生から見れば俺はわかりやすいのかもしれないが、俺にとっては柳生はわかりやすい相手だった。柳生の様子が今日はどことなくぎこちなく、そして俺の様子をうかがっていることが手に取るようにわかった。そしてその理由もなんとなく検討が付いていた。

「俺に隠していることでもあるんじゃないのか」

彼は一瞬言葉を詰まらせると、やれやれと言ったように首を振った。そして俺の目をしっかりと見て真面目な顔で語り始めた。


(20131204)

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