今日は朝から夜だった | ナノ
人混みに紛れて消える

購買で買ったパンをぶらぶらさせながら1年の教室の前を通った時に、俺はようやくあの女のことを思い出した。退屈な授業や友人とのバカなトークに紛れてすっかり忘れていた。さすがにもう制服は乾いているだろうが、一応様子を見に行った方が良いだろう。
俺はA組の前でたむろしてこちらを見ている女子に声をかけた。

「おまんA組か?仁王という女子は今いるか」
「えっ、仁王さん?うちのクラスにはいませんよ。……だよね?」
「うん。仁王先輩の妹さんですか?」

最初はきゃあきゃあ言っていたその女子は俺の質問に困惑したようで、眉尻を下げて隣の別の女子に尋ねた。その女子もまた知らないようで首を横に振った。ほかの女子も首を傾げている。俺は口をへの字に曲げた。
A組に仁王という名のやつはいない?クラスを聞き間違えたのだろうか。いや、確かにA組と言っていた。小さい声だったが発音ははっきりしていた。B組とD組のように聞き間違えやすい音でもない。

「仁王という名前の1年女子、知らんか?」
「私は知らないです。聞いたことある?」
「ううん、ない。仁王先輩、どんな感じの子なんですか?」

顔は見れば分かるが説明できるほど特徴を覚えていない。ただ全体像ならぼんやりと覚えていたから、俺は身振り手振りで説明した。説明しようとした。

「髪は黒っぽくてこれくらいじゃ、スカートは膝くらいだったな。身長はこんくらいで――」

俺は言葉を失った。彼女の説明としては適切なことを言っているはずだがまともな説明になっていない。髪の毛が黒っぽくて肩くらいの長さであることも、スカートも、身長も、普通すぎる。髪色が金髪だとか身長が高いとか目のぱっちりとした美人であるとか言えればいいのだが、あの女にはこれといった特徴はなかった。
どうしようかと迷っていると目の端に見慣れた男が1年の教室から出てくるのが映った。

「先輩、その子のこと探してるんですか?お手伝いしましょうか」
「いや、いい。ありがとな」

俺は女子たちの申し出を断って、その男、柳蓮二に声をかけた。柳は1年のテニス部員に何かを指導していたようで、手にテニス部の資料を持っていた。

「柳。仁王という名の1年女子、知らんか?」
「仁王?探しているのか」

柳はあごを少しあげて考える仕草をしたが、すぐに首をふった。

「いや、聞いたことないな。仁王の親戚か?」
「いいや。柳にも知らんことがあるんだな」
「俺はどんなデータでも持っているというわけではないぞ。テニスに関することだけだ」

それもそうか。立海は生徒数が多いし生徒全員のデータなどテニスには不要だ。俺は「そうか、ありがとな」と返事をして柳に背を向けた。
結局あの女が一体なんだったのか、なぜ嘘のクラスを教えたのかは分からなかったが、そのころには俺はすっかり面倒くさくなっていた。大怪我をさせたというならまだしもただ水を掛けただけだ。それも制服の内部まで濡れるほど大量の水を掛けたわけではない。一応謝罪もしている。様子を見るためだけにわざわざあの女を探す気にはなれなかった。
しかし俺が歩き出したとたん、柳が「待て」と引き留めてきた。

「なんだ?」
「仁王という苗字の女子、と言ったな。本当に1年生か?」
「ああ。どういう意味だ?」
「俺は生徒会に所属しているから、在校生として今年の入学式にも出席した。入学式では新入生の名前を読み上げるだろう?いくら人数が多いとはいえ、もしお前と同じ苗字の女子がいれば記憶の片隅には残るはずだ。クラスや下の名前は覚えていなくとも。仁王という苗字は珍しいからな。そして、俺は仁王という名の1年に覚えはない」

柳の言葉は、すっかり失っていたあの女子への興味を引き戻すのに十分だった。

「つまり、1年にそのような女子はいないはずだ。その女子は仁王と名乗ったんだな?」
「そうじゃ」
「1年であることに間違いはないのか」
「上履きの線の色から判断するに、間違いないぜよ」
「ふむ、なるほど」

俺は柳に返事したっきり沈黙した。
あの女が告げたクラスは嘘であることは間違いない。俺と同学年はもちろん、1年にもおそらく仁王という名の女子はいない。柳のことだから退屈な入学式でも寝ることはないし記憶違いということもないだろう。あいつが3年生であるという可能性もなくはないが、3年女子が1年の上履きをはくなどということがあるだろうか。それにあの女は3年というには幼い雰囲気もあった。

「嘘、か」
「その可能性が高い。その女子の学年よりも名が偽である可能性が高いな」
「ああ」

おそらくあの女は俺の名前を知っていたのだろう。それを知った上で仁王と名乗ったのだ。なぜ嘘をついたのかは検討がつかないが、全くふざけた話だった。名前を尋ねた際あの女が妙に挙動不審だったのは嘘をついていたせいだったかと合点する。
事の経緯を説明すると、柳は「ほう」とノートにメモを取り、俺とは反対に妙に嬉しそうに話し始めた。

「謎は常に魅力的だな。その女子はなぜそんなことを言ったのか気になるところだ」
「面倒くさいだけじゃ。気を引きたかったんじゃないか」
「いや、それは筋が通らない。気を引きたかったのならば正体を隠すようなことをせずに正直に名乗るだろう。そして風邪でも引いたふりをすればいいだけだ」

それも、柳の言う通りだった。俺の気を引こうとする女はいるが、そういうタイプにも見えない。策を弄するにはあの女はおどおどしすぎている。あの曖昧な態度が演技であったとすればたいした女優だ。

「エインセルというケルトのエピソードを思い出すな。妖精エインセルに名を尋ねられた少年は、エインセルーー英語のmyselfと同じ意味だが、そう名乗ることで罰を受けずに済んだ」

俺は廊下や教室を行き交う1年生たちを見た。仁王という特徴的な名前を名乗ったはずの女は、この人の群の中に見事に紛れ込んでしまった。
あの女はびっくりしたような顔をして、大人しそうで曖昧な態度を取って、そのくせ大胆な嘘をつく。変な女だ。はぐらかされたままで終わるのも腹が立つ。

絶対に探し出して、鼻をあかしてやる。

俺はがぜんやる気になった。まずは柳生に会いに行って、図書室でこんな女を見たことがないかと尋ねるところからだ。


***


私はお弁当と本の入った鞄を持って図書室へ向かおうと教室を出た。ご飯は図書室そばの静かなベンチで食べて、図書室の書庫で本を読むのが私のいつもの昼休みだった。
だが今日は、廊下を歩いている途中で運悪く、人混みの向こうから白い頭がふわふわと揺れながらこちらへ近づいてくるのを見つけてしまった。

「あ……」

やばい。まずい。
私は焦った。水をかけられたのは今朝のことだ。彼はもう私のことなど忘れているだろうが、もしかしたら覚えているかもしれない。それで万が一、みんなの目の前で「よお、仁王。さっきはすまんかったな」などと言われたらどうしよう。周りから「なんで仁王って呼ばれてるの」という痛々しい視線が向けられるに違いない。それだけならまだいいけど、クラスメイトに「仁王じゃなくて湯川ですよ、こいつ」なんて暴露されたら目も当てられない。突き刺さる仁王先輩の視線。お前仁王なんて名乗ったのか、失礼なことすんなよというクラスメイトから飛んでくる言葉。そんな状況が一瞬のうちに脳内でシミュレートされた。
昼休みが始まったばかりでごった返した廊下ではきびすを返すことができない。私は慌てて仕方なく、窓から外を見るふりをして廊下におかれた掃除用具入れの陰に隠れた。私の背中は彼に見られる可能性があるが、いくら彼の記憶力が良くてもさすがに背中だけで私だとは分かるまい。
しばらく廊下を行き交う人に背を向けていると、仁王先輩は無事、私に気がつかず横を通り過ぎたようだった。ちらりと彼の方を振り返ると、彼は思いの外近くにいて、こちらに背を向ける格好でA組の前で女の子に向き合っていた。女の子たちは仁王先輩みたいなイケメンに話しかけられたせいか、お互いに顔を見合わせながらきゃあきゃあはしゃいでいる。

「おまんA組か?仁王という女子は今いるか」

胃が冷えた。
やばい。どう考えても私のことだ。仁王先輩は確かに「後で改めて詫びを」とかなんとか言っていたが、まさか本当に詫びに来るとは思ってもいなかった。

「えっ、仁王さん?うちのクラスにそんな子はいませんよ。……だよね?」
「うん。仁王先輩の妹さんですか?」

首を傾げる女の子たちを背に、私は図書室へ向けて脱兎のごとく逃げ出した。心臓がばくばくと音を立てているのは走ったせいではない。
私は図書室の地下にある書庫の隅っこ、めったに人がこないいつもの場所に座り込んで息を整えた。今ごろきっと「A組」も「仁王」も嘘であることがばれているだろう。もうしわけなさすぎる。
探されたらどうしよう、と一瞬思うが、それは自意識過剰すぎるかと私は思い直した。だって、ただ水を掛けられただけなのだ。怪我をさせられたわけでもない。仁王と名乗ったことで彼の気分を害してしまったかもしれないが、その文句を言うためだけに彼がわざわざ名前もクラスも分からない女を探すとも思えなかった。それに何より、私には特徴というものがあんまりない。だから探そうとしても難しいだろう。あえて特徴を挙げるなら図書室に籠もるのが好きということくらいだが、仁王先輩はそれを知らない。

「仁王先輩、意外と律儀なんだなあ」

人を見た目だけで判断するのはよくないことだった。仁王先輩は生真面目に謝罪しにくるようなタイプには見えなかったのだが、そうでもなかったようだ。わざわざ水をかけただけの相手に謝罪しに来るなんて、案外優しいのかもしれない。
私は息を整えて、椅子に座り直した。鞄から出した本を開きながら、私はしばらく仁王先輩と顔を合わせないように気をつけようと決心した。


(20131203)

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