今日は朝から夜だった | ナノ
まだ、私は誰でもない

すべての過ちは、横着をしたことだった。図書館へ本を返しに行くのに、遠回りでもきちんと校舎の中を通って行けば良かったのだ。だがそれが面倒くさくて近道したくなった私は、テニスコートの脇、水道が並んでいるあたりを上履きで突っ切っていた。校則では靴に履き替えねばならない場所だがどうせ先生だって気がつかない。12月はじめの外気はだいぶ冷たくなっていたが、早足でさっさと進んでしまえば体が冷える前に図書館にたどり着ける。
本を胸に抱いてうつむき加減に歩いていた私は、水道のそばに朝練前の運動部の生徒がちらほらいるのに気がついた。私は体育会系の男子が苦手だったけれど、横を通るくらいなら彼らとトラブルにもなり得まい。……そう思い込んでいたのだ。

「わあっ」
「あ」

ジャーッと勢いよく飛び出る水の音がして私は突然ずぶぬれになった。びっくりして立ちすくむと、前髪からしたたった雫が抱えていた本の表紙にぽたぽた落ちるのが見えた。私は慌てて本を手で拭い、何が起きたのかと辺りを見回すと、テニス部のジャージを着た銀髪の男が慌てて蛇口を閉めているのが見えた。
彼はこちらを見、ばつの悪そうな表情を浮かべた。

「すまん、大丈夫か」
「えと……」

正直、大丈夫ではない。何がどうなったのか、結構な量の水が私の頭の先からスカートの裾までを濡らしている。だが驚きのあまり、そして先輩らしき派手な男子を前にした緊張のあまり、私はうまく返事ができなかった。もともと口下手なせいもあって、喉がきゅうっと閉まってしまう。
彼は首を傾げてこちらへ一歩踏み出したが、そのとたんテニスコートの方から低くて大きな声がした。

「これより朝の練習を開始する!」

彼は「まずいな」と呟いて頭を掻いた。その横顔を見て、私は前に友人から彼の名前を教わったことを思い出した。銀髪でしっぽつき、テニス部だから間違いない。彼女はこの先輩のファンだと言っていたなあ、確か。苗字が珍しくて、に、に、にお……
おそらく、彼は難しい顔をしている私を案じてくれたのだと思う。でも考え込んでいる私に話しかけてくれたのは、タイミングが悪かった。

「おまん、名前は?」
「におう」

仁王、先輩、ですよね。
そう言おうとしたのだが、中途半端に言葉を区切ってしまったのが災いした。彼は眉を跳ね上げて私を見、ついで視線を落として私の上履きを確認した。

「おまんも仁王という苗字なんか?」

まさか自分の苗字と勘違いされるとは思ってもいなくて、私は再び言葉に詰まった。違うんです、先輩のことです、たまたま名前を知っていて呼んだんです、仁王先輩と言うつもりだったんです、呼び捨てにするつもりもなかったんです、すみません。そうすぐに言えれば良かったのだ。下手な説明でも。だが実際は、どう釈明しようかと言葉を選んで「あー」「うー」と曖昧な態度を取っているうちに彼は話し出し、私は訂正の機会を逃した。

「おっと、俺は2年の仁王雅治だ。すまんが後で改めて詫びをさせてもらうナリ。その上履きの色、1年だな。クラスはどこだ?」
「……Aです」

本当はEだったが、貧弱な計算が頭の中を駆けめぐってつい適当なことを言ってしまった。
彼に名乗った苗字は偽物なのだ。仁王先輩の名を勝手にかたっただなんてばれたら気味悪がられて、腹を立てられるに違いない。それならできるだけ私は彼に関わらない方向で生きたい。それに、失礼だけど仁王先輩はとても軽そう、というか、あまり真面目じゃなさそうに見える。だから本当に詫びに来るとも思えない。だって大人しそうな後輩に水をかけてしまった、ただそれだけなんだから。だったら適当なクラスを答えて、万が一彼がクラスにやってきても鉢合わないようにしたい。
仁王先輩は、私が嘘をついたことも、これ以上関わらないように算段したことも知らずに「悪かったな」と言ってコートへ走っていった。

彼が走り去るのを見て、私は無意識のうちに詰めていた息を吐き出した。体から力が抜けていく。まだ授業も始まらない朝だというのに、どっと疲れが出てきてまるで夜のようだった。
大声とか、ノリとか、そういったものが苦手な私にとって体育会系の男子というのは少々怖い生き物だった。同じクラスの体育会系男子は私みたいなタイプに無理に絡んでくることはないから平気になったけれど、先輩ともなるとまた別だ。
それに何より、彼は派手で不良みたいなところがある。カラフル頭が許された立海でも一際目立つ白銀色の髪、鋭い目つき、ポケットに手を入れてちょっと猫背で立つ姿。真面目とはほど遠い、斜に構えた様子が怖くて苦手だ。

「う、寒……っくし!」

ひゅるりと初冬の風が吹いて体がどんどん冷えていく。
早く図書館に行こう。そこの大きなストーブで体を乾かして、今度はちゃんと校舎の中を通って教室まで戻ろう。もう二度と近道はするまい。そう固く決心して、私はぎゅっと体を縮めて歩き出した。
落ち葉を踏み散らかして鼻をすすり、再び建物の中に戻ったとき、私はふと思い出した。出会った相手と同じ名前を名乗るっていうお話。フランスだかイギリスだかの昔話で、そんな伝承があった気がする。


***


「仁王くん、先ほどはいかがなされたのですか」

朝練をこなした後、着替える前にタオルで首の汗を拭っていると、俺は体からでる湯気で眼鏡を曇らせた柳生に話しかけられた。柳生が何を言わんとしているのかはすぐに分かった。さっきの遅刻のことだろう。
あの女子と分かれた後、急いでコートに向かったものの朝練にはぎりぎり間に合わなかった。柳生とは登校したときに校門で偶然会ったから、柳生は俺が寝坊せず朝練前に学校に来ていたことは知っている。それなのになぜ遅刻したのかと尋ねているのだ。

「ちょっとしたトラブルぜよ」
「トラブル?」

タオルを顔に当てると左頬にぴりっと軽い痛みが走った。遅刻した俺を待っていたのはお約束の真田のビンタだ。真田は相手が怪我をしないようにあれでも手加減しているのだろうが、痛いものは痛い。

「眠気が覚めんから顔を洗おうと思ったんじゃが、水道の栓が思った以上に緩くてな。蛇口を勢いよく捻ったら水が飛んで、そばにいた女子に掛かってしもうた」
「それは、大変でしたね」

柳生は俺をフォローしようとしたのか、制服を着る手を止めて困った顔で言葉を探しあぐねている。
俺はトラブルへの自分の対処を思い返した。あのときは始まってしまった朝練に気を取られてろくな謝り方もしなかったように思う。あいつはシャイなのか態度があやふやで文句の一つも言わなかったが、今は12月だ。冷たい水道水を全身にかぶって風邪を引いてしまっていてもおかしくはない。

「その女子の苗字、仁王なんだと。俺と同じ苗字とは珍しいじゃろ」
「ほう。仁王くんと同じ苗字の人を私は今まで見たことがなかったのですが、同じ学校にいたのですね」
「ああ、すごい偶然じゃ。そいつのことは昼休みにでも様子を見に行くぜよ」
「いいですね、ぜひそうしてあげて下さい」

昼になれば制服はとっくに乾いているだろうが、風邪でも引かれたのを放っておいたのでは寝覚めが悪い。あの女子の見た目は……
俺は沈黙した。大ざっぱな容姿は覚えているが、印象が薄すぎて肝心の顔をあまり覚えていない。これといった特徴もなかったのかもしれないし、相手が自分の好みから全く外れたタイプで、普段なら気にもとめないような地味で暗そうな女だったから覚えていないのかもしれない。

「彼女のことが気になるんですか?」

黙りこくった俺をどう勘違いしたのか、柳生の口調には好奇心とほんの少しのからかいが含まれている。俺は口をへの字に曲げて抗議した。

「そんなわけあるか。いやじゃあんなやつ、趣味でもない。本を抱えてたから俺よりも柳生の方が気が合うだろうよ」
「そうですか……それは残念」
「プリッ、何を期待していたんじゃおまんは」
「もちろん、トラブルから始まる恋と学園ミステリーですよ」
「ミステリー!?」

日常生活から事件を追う探偵のようなミステリーが始まったらおもしろいと思いませんか、謎の女と出会うのも良し、女性と一緒に謎を解くも良し。柳生はそう熱く語り始め、突然の出来事に俺は目が点になった。そういえば柳生は推理小説を好んでるのだ。
俺は柳生に適当に相槌を打ちながら手早く着替え始めた。さっさとしないと1時間目が始まってしまう。そのころには俺はすっかりあの女子に対する関心を無くしていた。



坊やは寝るのが嫌だった。まだ眠くないし遊びたりなかったから。お母さんは先に寝て、坊やはあたたかい暖炉でひとり遊んでた。
お月さまがてっぺんに上ったころ、とつぜん煙突から手のひらくらいの妖精の女の子が飛び出してきた。女の子は坊やを見て目をぱちぱちさせ、にっこりと笑った。
「こんばんは、私はエインセルよ」
エインセルとは自分自身のことを指すことばでもある。坊やはすこし考えて返事をした。
「こんばんは。僕もエインセルだよ」
ふたりは一緒に遊んだ。手遊びをしたり、話をしたり。でも坊やが火の消えかかった暖炉を棒でかき回したとき、燃え殻がぱちっと飛び散ってエインセルはやけどをしてしまった。
「あつい、あつい!」
エインセルがあまりにも高い声が泣き叫ぶものだから、坊やは怖くなってテーブルの下に隠れてしまった。エインセルの泣き声を聞きつけて、エインセルのお母さんがあわてて煙突から降りてきた。エインセルのお母さんは大切な娘がやけどしているのを見て、真っ赤になって怒った。
「エインセル、誰にされたの?」
エインセルのお母さんは犯人を見つけておしおきをしようと思った。でも泣いているエインセルはこう言うばかり。
「やったのは、エインセルよ」
自分でやけどをしたと思ったエインセルのお母さんは、怒ってエインセルを煙突に戻してしまった。目を丸くしていた坊やの目の前で、エインセルのお母さんも煙のように消えてしまった。



(20131130)

[back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -