君は名探偵! | ナノ
近くで聞こえる男女の話し声と食器の音。深い眠りについていた仁王は徐々に覚醒し、薄く瞼を開いた。隣からだろうか。貧民街の家はどこもここも壁が薄いせいで人々の生活音まで丸聞こえだ。いやしかし、このあたりの家は古びて崩壊しているところが多く、少なくとも隣近所には誰もいなかったはずなのに。
寝ぼけていた仁王は、目に飛び込んできた天井がいつもの薄汚れて朽ちたボロ板ではなく艶やかな板張りであることに気付き、飛び起きてあたりを見回した。自分には真新しくて臭くない毛布がかけられ、ベッドの隣には猫脚の小降りな机と椅子があり、机の上には小さなルーペと煙草の入れ物が置いてあった。扉の横には木製のひとがたがあり、スーツが一揃え着せられている。
彼は頭を掻いてほうっとため息をついた。
「そうか、探偵の家に来たんだったな」
仁王はさっそく自室から居間に出ようとするが、はたと気がついた。この話し声、どうやら柳生が女性客を相手にしているらしい。もしかしたら相手は貴族かもしれないが、対して自分はみすぼらしい格好をしている。客に変な姿を見られては助手としてはまずかろう。しばし勘案した仁王は、自分が着ていた薄汚れた服を脱ぎ捨て、ひとがたからスーツを脱がせて自分で着た。棚のブラシを手にとって、窓の反射で確認しながら髪をとかす。細長いクローゼットには磨かれた綺麗な革靴もある。
そこそこまともな身なりになった彼はすました顔で応接室を兼ねた居間へ出た。しかし彼の予想に反してそこには誰もいない。
「プリッ。なんじゃ、柳生のやつ、自分の部屋で相手しとったんか。依頼は居間で聞くと言うとったのに。……と、いうことは」
そう独りごちた仁王は、忍び足で閉ざされた柳生の部屋の扉に近づき聞き耳を立てた。自室に女性を招いたということは、客ではなく恋人なのかもしれない。あの有名探偵でその実鬼畜な柳生が恋人とどんな甘い会話をしているのか、興味をそそられないはずがない。
「さあ、さあ……いかがですか……私の……」
「今度は……大丈夫……あっ」
「ふっ、どうしたのです」
「……体が……熱く……」
「……では一息に……」
「あ……」
分厚い扉越しに聞こえる、途切れ途切れの会話と荒い息。扉に耳をつけた仁王はごくりと唾を飲み込んだ。まさか最中だとは思わなかった。あの紳士もさすが男だ。朝っぱらから女を抱くとはお盛んじゃな、と仁王は内心呟いてニヤニヤする。
ところが不意に、誰かが立ち上がるような音が聞こえた。なんでこのタイミングで立つんじゃ、と不満に思いながら仁王は扉から素早く離れる。すぐにこつこつと足音がして柳生の部屋の扉が開いた。
瞠目した仁王の目の前に現れたのは、裸どころか一部の乱れもなくスーツを着こんだ柳生と、うつむき加減な顔に黒いベールをかけて高そうなドレスを身にまとった小柄な女性だった。女性は肩を上下させて息を整えている。
仁王は、柳生のやつ服を着たままのプレイでも楽しんだんじゃな、などと想像して顔が緩むのを必死で押し止めて涼しい顔を作った。
「おや仁王くん、起きていたのですね。塚原男爵夫人、こちらは新しく私の助手になった仁王雅治です」
「ごきげんよう、マダム」
仁王は見よう見まねで身に付けた、下流社会の人間は絶対にしないような礼をした。塚原夫人に微笑んで見せた仁王は、彼女が仁王を見て激しく動揺したのを見てとった。
「まあ、そんな。どうしましょう」
「大丈夫ですよ、塚原様。仁王くんの口の固さは私が保証します」
「……はい、柳生様が仰るなら、信じますわ。ありがとうございました、柳生様」
彼女は仁王に軽く頭を下げると、小走りで家から出ていった。仁王は、彼女が走り去る瞬間わずかにめくれたベールの隙間から見えた美しい顔が赤く火照っていたのを見逃さなかった。恋する女の顔。
彼女が家から離れたのを窓越しに確認して、仁王はピュウと口笛を吹いた。
「人妻か……とんだプレイボーイっぷりじゃな、柳生。探偵様の裏の顔はマダムを喰い荒らすドン・ファンだとは」
柳生は手にしていた茶色の小瓶を実験用の机の上におくと、顔をしかめて振り返った。
「なんのことです」
「隠さんでももうわかっとるよ。人妻の体を火照らせて、ヤることは一つじゃろ」
「聞いていたのですか。まあいいでしょう、あれは治療の一環です」
「治療?」
ぽかんと口をあけた仁王の前で、柳生は「やれやれ」といったように首を振った。
「最近多いのですよ、不感症の治療をしてくれと言う若い貴族のご婦人がね」
「……はあ?不感症?」
「ええ。大抵のご婦人は恥ずかしがって内密にしたがるのです。家の主治医に相談すれば夫や両親にばれてしまう、しかし町医者も信用できない、そこでこの私の出番ですよ。たとえ私の元へ通うのを誰かに見られたとしても、私が有名な探偵でもある以上、なくした物の相談をしているとでも言えばいくらでもごまかせますから」
滔々と説明する柳生に、恐る恐る仁王は質問した。
「なら、肝心な『治療』は何をしとるんじゃ」
「ただの媚薬投与ですよ」
「媚薬!?」
「私が開発したもので、残念ながらまだ効き目が薄いのですが。最近はご婦人の間で噂になっているのか、ぽつぽつとそれを求めた女性が来ます」
仁王は沈黙した。さすが天才である。媚薬のレシピは古来から存在するが、単に気休め程度なものでその効果は無に等しい。その媚薬を使って大儲けできるのではないかと考えた仁王は気を取り直してニヤニヤと柳生をからかった。
「客を抱いたりはせんのか、もったいない」
「貴方と一緒にしないでください」
柳生は相当不愉快に感じたのか、眉間にシワを寄せてコツコツと机を叩いた。
「ピヨッ、酷いぜよ。俺はそんなことはせん」
「酷いのはどちらですか。女遊びは冷静で論理的な思考を奪います」
仁王は頭を傾げた。火照った顔のあの女に比べ、どうも柳生の反応が冷たい。
「おまん、まさか女嫌いか?」
「嫌いではありません、しかし好きではありません。ご婦人方が好む感情の揺れ動き……色恋沙汰に興味がないのです」
仁王は先ほど逃げるように出ていった女を思い出して口をへの字に曲げた。彼女はまさか家に柳生以外の人間がいるとは思ってもいなかったのだろう。そのくらい、柳生に対する彼女の態度はあからさまだった。
「鈍いな、柳生」
「私の思考のどこが鈍いというのですか」
「違う、女の感情に鈍いと言うとるんだ。あの塚原とか言う女、おまんを好いとるぜよ」
「まさか。既婚者ですよ」
「よく女の行動を思い返してみろ」
柳生は椅子に腰かけて、テーブルの上にあった冷めた紅茶に口を付けた。それから暫くして、呆れたように言った。
「なるほど、そうかもしれません。安くない治療費を払ってまで私に会いに来るなど不可解ですがしかし、そう考えると合点がいくことがあります。全く面倒ですね」
紳士にあるまじき面倒くさそうな顔をした柳生を見て、仁王は唸った。本当に女に興味がないらしい。
仁王はそのうち帝都警察のことも探偵柳生のことも出し抜くつもりでいた。そのためにまず必要なことは相手を知り、強みと弱点を知ることだった。そして柳生に色仕掛けは通用しないという事実を仁王は悟った。
「おまんなら面倒くさいことにならんように女遊びもできるじゃろ」
「論理的な頭脳戦のような楽しさが女遊びで得られるとは思いません。せっかく仁王くんを雇ったのですから、女性関係のことはこれから貴方にお任せします」
「プピーナ。俺が客の女に手を出してもいいと?」
「貴方が問題ないと判断したのであれば構いません」
仁王は柳生の向かい側に座って、テーブルの隅に置かれていた新聞を手に取った。新聞の一面には昨日柳生が解決したばかりの――そして仁王にとっては初めての敗北でもある、伯爵の首飾り盗難事件が『またまた名探偵が大活躍!』などと大きく取り上げられていた。
仁王は口を歪めて喉で笑った。
「ずいぶん簡単に信用するんじゃな」
「信用していますよ、『百の顔を持つ男』をね。貴方がもし理性よりも性欲を優先することが一度でもあったなら、必ず分かりやすいボロが出て、真田警部に捕まっていたでしょうから」
そうでしょう、と言わんばかりに満面の笑みを浮かべた柳生の前で仁王は頭を掻いた。見透かされている。
誰かがゆっくりと階段を登る音が聞こえて、柳生は口を開いた。
「そろそろ遅めの朝食といきましょうか。スミレさんが運んできてくれたようですし」
「スミレさん?」
「この家の一階に住んでいるのです。私たちの食事の世話をして下さいます」
「ずいぶん親しげじゃな。女嫌いはどこへ行った」
「女、というか……」
扉の前で足音が止まる。柳生はさっと立ち上がって階段へ続く居間の扉を開けた。
「おはようございます。スミレさん、あちらが今日より私がルームシェアをする仁王雅治くんです」
「ああ、聞いておったよ。何か分からないことがあったら遠慮せずに聞きに来な!」
食事を載せたプレートを片手に現れたのは、50代くらいの豪快なおばちゃんだった。スミレという名前から幼いくらい若く可憐な美少女を想像していた仁王は想像と現実の固まった。
「仁王くん、こちらは大家の竜崎スミレさんです」
「……ど、うぞ、よろしゅう」
仁王は本能的に、竜崎スミレには逆らわない方がいい気がした。
(20131112)
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苦手な方もいるだろうので微裏表記を付けました。個人的にはこの程度では微裏とも思いませんがw
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