カモマイルの悪魔 | ナノ


内心を見透かすように幸村は間近で潤の目を覗く。幸村に見つめられていることが幸せで、同時に不幸せだった。

「知ってるでしょ」

喉から掠れたような声が出る。言葉に力がこもらない。それでも潤は口を開かざるを得ない。

「私が、白岩の名を背負う覚悟をしているってこと。元々結婚に夢なんてもってなかったってこと」
「だから大丈夫だと?」
「……そう。跡部先輩は少なくとも私のこと尊重してくれるだろうし」
「尊重?ははっ、そうだね。その通り。跡部夫人になれば君は重要な役割を担うことになる。国さえ動かす権力を持った跡部財閥の、巨大な財閥の当主を傍で支えなければならないんだから……だから跡部は君を大事にするだろう。跡部だけじゃない、跡部の部下も、親族も、取引先も、誰だってね。でもそれだけだ。『それだけ』だ」

幸村は潤の顎から手を離すと大げさに腕を広げて見せた。幸村の腕で月の光が遮られて、潤の視界はさっと暗くなった。

「君はそんな生活に耐えられるかい?無理だ」
「……」
「想像してごらん。跡部と一緒に跡部財閥のパーティーでも開く。跡部は君を跡部夫人として紹介して回る。跡部に近付きたいやつらが君に寄ってたかって媚を売る。それを捌くのは君の仕事だから、当然跡部は君を助けはしない。跡部は君に優しいがその視線はちらちらと──跡部のメイドなり秘書なり、跡部の愛する別の女性に向けられる。君ではなくね」

酷い言い様だ。いくら跡部が潤を好きでなくともそこまで冷たくはないだろう。だがそう思う反面、もしかしたら幸村の言う通りになるかもしれないとも思ってしまう。あの跡部の目。潤を見ているようで見ていない、潤の体を突き抜けてここではないどこか別のところにいる誰かを見つめるような目。
彼は優しかった。けれども決して潤を見なかった。そう見えた。

「……私にどうしろというの?」

幸村は満足したように頷いた。

「黙って俺の言うことを聞いてもらおうか」
「具体的には?機密書類でも盗んで来いって?」
「まさか。君にそれをさせるのはリスクが高すぎる。ただ、指示通りに俺に付いてきて、その場に居てくれるだけでいい」

大仰な物言いの割にはずいぶん簡単な要求をするものだ。幸村はいったい何を考えているのだろうか。潤がいぶかしく思ったのを察したのか、幸村は「君は委細まで知る必要はない」と肩をすくめた。
幸村は潤が座るベンチから一歩下がると、うやうやしく潤に手を差し出した。

「さ、どうする?俺の手を取るかい?それともこのまま跡部の人形になる?」
「……」
「跡部との結婚はもう目の前だ。これが君にとってのラストチャンスだね。時間の猶予はもうないんだ。わかってるだろ?」
「……でも、会社の、会社が」
「そんなもの、どうだっていい」

潤は幸村の言葉に目を見開いたが、幸村はただ嘲っている。
それが白岩カンパニーの社員の言うことか。やはり幸村はスパイで本当は白岩社長にも忠誠なんて誓ってはいないのではないか。

「考えてごらんよ、白岩カンパニーなんてほんの十数年前にはただの零細企業だったじゃないか。別になくなったって大した問題じゃない。敵対的買収だってよくあることさ。会社はなくなっても生きていく術はある」

結婚しなきゃいけない。結婚したくない。白岩社長や跡部を裏切れない。逃げ出したい。幸村の言うことを聞いちゃだめだ。幸村の言うとおりにしたい。

「……会社の社員が」
「他の会社に行けばいいだろ」
「…………お父さん、だって」
「健康だしどうにでもなるさ」
「……でも」
「本当は君は耐えられない。この先60年かそれ以上、会社のためだけに人生を捧げるなんてね。わかってるんだろ?現実を受け入れなよ」

幸村の声は優しかった。かつてのように。かつて幸村が執事になる前、潤を可愛がっていたころのように。

潤の視界がじわりと揺れた。
幸村は潤の気持ちを見透かしている、だが一つだけ気が付いていない、それは潤が幸村に恐怖すると同時に幸村のことが恋しくて仕方がないということだ。それは今だって同じで、怖くて、怖くて、幸村から逃げたいと思うのに、その一方でまだ幸村に優しくされることを夢見ている。
助けてくれるのだという。潤の慕う幸村が。けれども幸村の助けは白岩家にとって大切なものを殺す呪いでもある。これは夢か。甘い、甘い、優しくて、けれども猛毒を含んだ悪夢。失った過去に対する浅はかな切望が見せる美しい悪夢。
潤はずっと自由を渇望し、幸村と昔のような関係になれることを望み、一方でお嬢様として白岩家に縛られて生きることを受け入れ、矛盾が常に体内で渦巻いていた。もう、耐えられなかった。

「潤。おいで。俺の言うことを聞くんだ」

それは、まるで昔のままの優しい声だった。
でも本当は、昔の良い夢を見させる悪魔の声。
潤はぼんやりとかすむ視界の中で幸村に向かって手を伸ばした。宙に伸ばした手はすぐに幸村に捕まって、潤は幸村にぐいと引き起こされた。
幸村は潤の頬に手を当てて涙を拭うと、潤の耳元で低く囁いた。

「何もご心配なく。必ず目的は達成しますから」
「白岩カンパニーを潰して?」

幸村はにっこりと微笑んだ。
ふと、よく知っている香りがした。

「……カモミール?」
「わかるかい?さあ、そろそろ中へ入ろうか……キッチンでお湯が沸くころだ。体が冷えたのではないですか、お嬢様?カモミールティーを準備してあります、そちらを召し上がってお休みください」

──全部、ここまで、計算通りってわけね。
不安と、安心と、鋭い心の痛み。
潤は幸村に手を取られたまま呟いた。

「……悪魔」
「なんとでも」

幸村は肩を竦めて、それからいつもの執事らしい澄まし顔に戻ると潤を抱えて屋敷の方へ歩き出した。
潤はカモマイルの香りの中で強く拳を握った。幸村は悪魔だ。だが、悪魔と契約することを選んだのは潤だった。


***


物音に気が付いた綾希は自室を抜けて、様子を見るために二階へ続く階段を静かに昇った。けれども階段を昇り切る前に幸村が潤の部屋から出てきたのが見えた。眉根を少し寄せた彼は唇を引き結んで、その顔には強い決意と少しの哀愁が宿っているように思えた。
綾希はぎょっとして立ちすくんだ。
作り笑いを浮かべたいつもの幸村とは違う、真剣で鋭さを帯びた社員としての幸村とも違う。もっと切実な顔だ。
しかし幸村は間もなく綾希に気が付いたようで、作り笑いをこちらに向けた。目が合った綾希はとっさに弁解するかのように言った。

「気配がしたもので、気になって……先ほど誰かが降りていったような気もしたのです。潤様だったんですね」
「ええ」
「どうなさったのですか」
「結婚の件で気が高ぶっておられるのでしょう。お茶を飲んでお休みになりました」
「そうですか。夜分お疲れさまです」

潤が未だに結婚に納得していないことは綾希も十分承知していた。だが綾希が口を挟めることでもない以上、言うべきことは何もない。綾希は幸村に軽く頭を下げてきびすを返した。
と、階段を下り初めてまもなく、背後から声がかかった。

「泉さん」
「なんでしょう」
「話があるんだけど」
「……もう遅いですから朝になってからにしませんか」
「すぐに済むよ。頼みがあるんだ」

階段を下りきった綾希は足を止めて振り返った。
あの幸村が、綾希の正体を疑い綾希を敵視していた幸村が、頼み。「頼み」とは言ってはいるがもしかして脅すつもりなのではないか。まさか「牛乳を多めに買ってきてくれ」などという平凡な頼みではあるまい。
綾希は身構えて慎重に口を開いた。

「頼み?」
「うん。難しいことじゃない」
「……」
「心配しないでいいよ、たぶんね。この件に関して言えば俺と泉さんの利害は対立していないはずだから」

予想外の言葉に驚いて綾希は唖然とした。幸村に肩を叩かれ促されて、考えがまとまらないまま人気のないキッチンへ入る。続いて入ってきた幸村は、キッチンの明かりをつけようともせずに腕を組んで食器棚にもたれ掛かった。
彼の傍で薄暗く点る常夜灯が数秒、明滅した。
綾希は眉間に力を入れて幸村を見返した。

「一体どういう風の吹き回しでしょう。あなたが私に頼みごととは」
「君にしか頼めない」
「拒否権はなしですか」
「いや。でも君は、断らないと思う」

幸村の妙に力の入らない言葉に綾希は詰まった。肩すかしをされたかのようで身構えていた分、困惑が大きい。普段とは全く異なる幸村の行動の意図が全く読めなかった。

「幸村さんは私を疑っていたのではないですか」
「うん。正直、今も君を100%信用しているわけじゃない。でも思えば君は白岩社長の鳴り物入りでここの使用人になったようなものだから。あの社長が身元が怪しい女をわざわざ雇うわけはない。君がもともと跡部家の使用人だったという事実を社長が知らないはずはないし」
「なるほど。それで大丈夫と判断したというわけですか」
「おおかた、君は跡部家の使用人だったころに白岩社長と知り合った、というところだろう」
「……驚きました。おっしゃる通りです。しかし……私の方は、私と幸村さんの利害が対立しないという確信が持てないのですが」

潤に愛の言葉を告げていたことや白岩社長の書斎に密かに侵入していたことなど、幸村の不自然な行動の意味は未だにわかっていない。
綾希が慎重に、ゆっくりとそう言うと、幸村はクスッと笑った。

「信用されてないね。まあ、いいさ。話を聞けばわかる──泉さん。俺はお嬢様と跡部の結婚話を壊すつもりだ」
「えっ!?」
「しーっ、静かに」
「な、なぜ……」
「俺の目的のため、とだけ。それで、どう?お嬢様と跡部の結婚は君だって望んでないだろう?」

綾希は絶句した。顔から血の気が音を立てて引いていくようだった。心臓を冷たい手で握られたかのように身が縮まった。

「違うかい?」
「……」
「なぜわかったのか、って?君は自分で思っているほど隠し事が上手なわけではなく、自分を騙すのも上手くないというだけだ」

拳をぐっと握ると爪が手のひらに食い込んだ。体が少し震える。取り繕いきれなかったというわけか。
思えばこの観察眼の鋭い男をごまかすのは至難の業なのだ。幸村の目に止まらぬようにしようとも考えず対策を怠った時点で、普段慎重な綾希はもはや平常心とはいえなかった。

「……あれから10年か」

幸村は独り言を言うように呟くと、綾希から視線をはずしてぼんやりとキッチンを見回した。そのまま幸村は黙りこくってしまった。
ヴヴ、と常夜灯が鳴ってまた明滅した。
しばらくして幸村はふっと息を吐いて、綾希に向き直った。

「頼みの内容は二つ。一つ目は──」

綾希は大きく目を見開いた。


***


ヴヴヴヴ。
机の上で振動したスマホに目をやった跡部は、少し目を細めてそれに長い指を伸ばした。

「朝から珍しいじゃねえか、幸村」
「今、時間あるかい?」
「話の内容による」

跡部はオフィスチェアの背にもたれ掛かると、ぐるっと椅子を回して書斎の机を背に立ち上がった。空いた右手で濃紺のカーテンを押し開くと東の空が白くなりつつあるのが見える。

「なら問題ないね」
「白岩社長の代理か?それなら会議室で──」
「違う。個人としての頼みだ」
「……ほう?」
「もっと正確にいえば、『交渉』かな」

幸村の声色に本気を感じ取った跡部は、目つきを鋭くして口を引き結んだ。


(20170202)

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