カモマイルの悪魔 | ナノ


冷たい空気の固まりを一気に飲み込んで潤はベッドから飛び上がった。自室は暗く、中途半端に開いたカーテンからこぼれる月明かりだけがあたりをぼんやりと白くしていた。
コチ、コチ、と小さな秒針が時を刻む。
一時十分。
羽布団から出た上半身が熱を持った体を少しずつ冷やしていく。潤はようやく詰めていた吐きだした。それから、幼子のように布団を抱えて縮こまった。息をゆっくり吐くと喉の奥が小刻みに震えた。

あの悪夢を見たのは久しぶりだった。





その女の人は誰?
違う、邪魔するつもりなんかじゃなかった。
なんでその人に笑いかけているの。
なんでわたしを冷たい目で見るの。
なんで蔑むように見るの。
なんで、行ってしまったの。
転んだわたしに、何も言わないで。





潤はベッドから出ると、椅子の背にかけておいたガウンを羽織って自室から出た。中秋の夜気に晒された廊下の絨毯は素足に冷たい。けれどもそれは潤が望んでいた罰のように思えて、スリッパを履く気にはなれなかった。

──愚かなことを考えた。利己的なことを。それに気が付きもしなかった。

締め付けられるような胸の痛みを覚えて、潤の足は速くなった。白岩家の中はすでに静まりかえっている、静かにしなければと思うのにますます足は速くなり、一階へ降りたころには小走りになった。
キッチンの裏口の鍵を開けて裸足のまま庭に出る。潤は小石が足の裏に食い込むのも気にせず家の横手を走って裏庭の西端に出た。そのまま屋敷から離れた場所にある大樫の根本まで行き、ようやく足並みをゆるめた。

潤は垣根の側にある鉄製のベンチまで行くと、身震いをしてそこへ座り込んだ。背を持たせかけてぼんやりと夜空を見上げると、星が瞬いている。美しい夜だった。
吐いた息が白く濁って夜に溶けていくのを見てから、潤は目をきつく瞑った。

自己嫌悪と後悔と、それに不安と焦燥感。叫び出したいような気分だった。軽率な行動を猛烈に恥じた。

跡部から条件を提示されたあの後、跡部の昔の恋人の話を思い出したとき、潤は確かにその恋人の女性のことが一筋の光明のように感じられたのだ。跡部と親しい忍足たちから見て、跡部とその女性はいつか結婚するように思えたという。それならば、その女性を探し出せば自分は跡部とは結婚しなくてもよくなるかもしれないのだ、と。
自分のことばかり考えていた。相手のいる話だというのに。たとえ跡部がその女性を受け入れたとしても、その女性は跡部と結婚することなど望んでいないかもしれないではないか?それに、跡部は魅力的だから配偶者くらいすぐに見つかるだろうと潤は無責任に考える一方で自分はそこからなんとしてでも逃げようとしているのだ。彼のかつての恋人のように。

誰に対しても無礼なのではないか。
いったい、どこに救いがある。

「……けっこん、かあ」

わざと口に出した言葉は間が抜けていて、そのくせ胸はひりひりと痛んだ。
幸村に密かに思いを寄せることさえもう許されない。幸村のことをいつも気にしていたくせにずっと彼から目を背け続けて、結局、本当に彼のことを気にすることさえできなくなる状況になってしまった。

──腹をくくれ。

三日前、婚約指輪はどのようなものがいいか、跡部に聞かれた。世界で一つだけのものを作ってやると、彼は目を細めて笑っていた。

──覚悟を決めろ。

二日前、久しぶりに家へ帰ってきた白岩社長が、潤の顔を見るなり結納の話を出した。急いで新しい振り袖を作るから仕立屋がうちへ来る、と。

──結婚するのが最善だ。誰にとっても。

一日前、式が楽しみだと跡部家の使用人に言われた。


結婚。
跡部との。







震える熱い息を大きく吐いた、そのときだった。

「助けてやろうか?」

ぎょっとして潤が顔を上げると、いつの間に来たのか、会社から帰ってきたばかりなのか、思いの外近い場所にスーツ姿の幸村が立っていた。彼はちょうど大樫が葉陰を落とすところにいて、その表情は全く見えなかった。まるで唐突に闇がそこへ顕現したかに思えた。

「……幸村?」
「助けてやろうか、と言っているんだ」

その声はどこか暗く、しかし迫力を帯びていて、言葉遣いが荒い。
潤は戦慄した。自分の慕う相手が自分を助けてくれるのだと、その言葉を欲していたはずなのに、一方で幸村のいうことが素直に信じられない。いくら潤が幸村を慕っていたとしても、幸村が潤に対して不審な態度をとり続けたのは事実なのだ。

「何の話」
「しらを切るつもりかい?跡部との結婚の話だよ」

核心を突く言葉に、また心が震える。
読めない幸村の心が恐ろしかった。結婚話に追いつめられて確かに幸村と会いたいと思っていたはずだ、それなのに今はここから逃げ出したかった。
潤が黙ったままでいると、幸村は「あーあ」と投げやりに言ってネクタイをするりと外した。彼はそれを乱暴に巻いてポケットへ突っ込むと、落ち葉を踏みしめて近付いてきた。ゆっくりと葉陰から出た彼は、月明かりで照らされた彼の冷たい顔には魔物のような凄みがあった。

「結婚。しなくてもいいようにしてあげようか、と言っているんだ」
「な……」

潤は幸村を見上げたまま絶句した。
せいぜい「結婚予定日を先延ばしにしてやる」とでも言うのかと思っていたのに。

「……なんで」
「ん?俺がこの結婚を邪魔する理由かい」

恐る恐る頷くと、幸村は一瞬薄い笑みを浮かべた。しかしそれは夜空に立ち上る白い息のようにすぐに跡形もなく溶けてしまった。

「白岩潤が跡部景吾と結婚したら、俺の目的が達成できなくなるからだよ」

どういう意味かはわからない。ただ幸村の言葉の端々から得体の知れない不穏なものが醸し出されていて、潤はますます恐ろしくなった。

「……嘘」
「おやおや、ずいぶんと疑い深い」
「もしそうなら最初からこの結婚に反対してたはずでしょ」

反対するどころか賛成していたはずだ。だから筋が通らない。
幸村は肩をすくめた。

「事情が変わったんでね。でも信じられないならそれでも構わない、どうでもいいことだから」

沈黙が落ちる。
潤は微動だにできなくなった。幸村の足下に落ちる陰が静かにこちらへ這い寄って来、肺から体の内部へと浸食していくような気がした。

──結婚、しなくてもよくなる?
──幸村が結婚を阻止してくれる?

その提案は甘く、しかし毒が隠されているかもしれない。

「お父さんはこの結婚に賛成してるでしょう」
「大賛成みたいだね」
「だったら……なんで?お父さんに逆らうつもり?」

幸村は絶対に白岩社長を裏切らない。潤はそう確信していたからこそ、執事としての幸村を信用していたのだ。自分にどれだけ酷な態度を取ったとしても、白岩家にマイナスとなることはしないだろうと。

──けれど、もし、白岩社長を裏切るつもりなら。

体の髄から冷えていく。
幸村はまた一歩近付いてきて、腰を折り、上から潤をのぞき込むようにした。少し細められた彼の目は金属のようにぎらりと光って見えた。

「『私』は白岩社長を決して裏切りません」
「……」
「だから『俺』が助けてやろうかと言っているんだ。執事としてではなく、一会社員としてでもなく、幸村精市として」

その強い言葉が、強い視線が、ざっくりと潤の胸に刺さった。
助けてくれる。幸村精市が。
幸村のその言葉は何か裏がある、何かおかしい、そう思うのにいつものように跳ね退けることができない。

「助けてやると言うけど、その目的のためなんでしょ」
「まあね」
「目的って何なの」
「それは言えない。でも関係ないだろう?この話に乗れば、お前は跡部景吾と結婚しなくてもよくなり、俺は目的を達成できる。それで十分だろう?」

そう言ってうっそりと笑った幸村に潤は全身の毛が逆立った。
幸村は、潤が跡部との結婚に後ろ向きで今気持ちが弱っていることをとうに見抜いているのだろう。それをわかった上でこんな言葉を投げかけている。

助けて欲しい。
裏がありそうで怖い。
楽になってしまいたい。
抗わなければいけない。

どうすれば、いい?

かつて美波が、幸村をスパイじゃないかと評していたことが今頃になって頭をちらつく。かつて綾希が、幸村はなぜ白岩カンパニーで働きながら未だに執事の仕事までしているのか、なぜダブルワークをするのかと疑問を呈していたことを今頃になって思い出す。かつて幸村が風邪をひいて倒れたとき、彼が白岩社長の書斎に入っていたこと、そして後から幸村が潤に幸村が倒れたときの状況をいやに細かく質問してきたことも思い出された。

ちっとも頭が働かない。潤は必死で言葉を紡いだ。

「何をする気なの」
「さあ」
「ごまかさないで」
「……結果的には、少なくとも社長の面目は潰れるだろうね。そして場合によっては白岩カンパニーも」

そうか、そうなるに決まっている。跡部と潤の結婚は白岩カンパニーが跡部財閥に助けてもらうための条件なのだから。潤は血の気が引いていくのがわかったが、何も返事をすることができなかった。何も。
幸村は目尻を和ませるとうっとりと優しい声を出した。

「君が跡部との結婚をやめれば、白岩カンパニーはモイラ社に呑まれるか怒った跡部に潰されるかして消滅するかもね。そして白岩社長はこの事態を予想することはおろか対処することすらできなかった無能な経営者という烙印を押され、莫大な借金を背負う」
「……なら、結婚を辞めるわけには」
「おっと、ただし、君は自由は手に入る。白岩カンパニーと引き替えにね。貧乏にはなれど好きに生きることができるだろう。けれど跡部と結婚した場合、どうなると思う?」
「……わからない」
「わからない?わかってるんだろ。だから結婚したくない」

潤は俯いたが、幸村に顎を掬われて強制的に上を向かされた。幸村の指先が熱い。顔を上げた先では幸村が腰を屈めて鋭い視線をこちらへ向けていた。

「跡部は君を愛さない。この先も、間違いなくね。君が跡部夫人になればこれから何十年も彼と連れ添うことになる。けれども君がどう頑張っても跡部は君を愛さない。抱くくらいはするだろうけど」
「っ……跡部、先輩は優しくて──」
「へえ?優しい男が権力を盾に取って女の子に結婚を迫るとでも?」

潤は言葉を失った。
幸村は楽しそうに言葉をつなげる。

「君を愛せない跡部は外に愛人を作るかもね?跡部は一途だけどそれは好きな女性に対してだけだから。君は物質的には恵まれても、精神的には何一つ満たされずに跡部景吾の奥様としてただのお飾りになる」
「……」

心が軋む音がした。



(20161220)

[back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -