カモマイルの悪魔 | ナノ


まだ冬将軍の足音は遠いが早朝はずいぶん冷え込むようになってきた。キッチンの窓から見えるカエデも鮮やかに色づいて秋まっさかりといった様子だった。
潤はいつものようにキッチンの小さなテーブルに座ると、羽織っていた分厚いガウンの前をしっかり合わせた。そこへ仁王がパンとスープ、サラダと洋ナシの乗ったプレートを運んできてくれた。
潤は仁王お手製のコンソメを丸いスプーンで掬って、それに小さく息を吹いた。スプーンをのぞき込むようにすると、自分の顔がゆがんで水面に写った。

──お前の身代わりを連れてこい。連れてこれるんならな。

こんな台詞が出てきた時点で、跡部が潤を本当は愛してなどいないことは明白だった。だがその先へ進めない。どうすればいいのかわからないのだ。跡部が欲するような女性とはどういう意味だろう。文字通り好みの女性ということなのだろうか。それならば樺地や跡部の友人たちから跡部の好みを聞き出せばいいだけだ。でもそれほど簡単な話とは思えない。そもそも跡部はあのルックスにあの財力、女性に不自由などしているはずはない。それなのに、わざわざ「ただの女じゃねえ、俺様が欲するような女を連れてこい。連れて来れるんならな」と言ったということは……跡部の欲するような女性は跡部にとっても簡単には手に入らないということだ。

そんな女性を潤に連れてこいと跡部は言う。

跡部は愛していると偽ってまで潤と結婚したがった。
それならば、潤もまた跡部の言う「俺様が欲するような女」に少なからず当てはまっていたということなのだろうか。

潤はスプーンをそのままスープの中へ戻すと、大きくため息をついた。

結局は跡部と結婚せざるをえないのではないかという不安と跡部の言葉の悪辣さに反吐が出る。そのくせ彼の言葉に滲んだ孤独が潤の意識にこびりついて離れない。

「……お嬢。カフェラテでも作るか」
「っ、ええ。お願いします」

ハッとして顔を上げると、仁王は目尻を細めてニッと笑った。彼はふわふわした白い髪を揺らしてコーヒーミルや豆を棚から取り出した。
潤はぼんやりと仁王がカウンターで豆を挽く様子を見ていた。

思えば仁王はすっかり料理担当として白岩家に定着していた。河西は料理が得意ではなく幸村には料理をしている時間などなく、いつかメイドが新たに定着するまで、いつかコックを雇うまでというつもりで仁王を雇ったはずが、いつの間にか仁王が朝晩の料理を行うことに決まっていた。
白岩家の使用人部屋に半分住んでいるような状態になっている仁王の存在が、今はありがたい。仁王は白岩家の内情に詳しく幸村の友人でありながら白岩家からとも跡部家からとも距離がある。
彼はある意味、潤にとって数少ない安心できる相談相手だった。

「ピヨ。できたぞ」
「ありがとう、仁王さん」

いつの間にかミルクを温めていた仁王は、それをコーヒーと手早く混ぜて紺色のマグカップに入れた。彼はそれをテーブルの上に置くと、自分はミルクなしのブラックコーヒーを片手に潤の正面に座った。

「お嬢。やつれたな」
「そうですか?」

潤が自分の頬を撫でると、仁王はコーヒーを飲みながらゆっくり頷いた。

「ああ。痩せたというよりは、やつれた」
「……ただの恋煩いです」

冗談めかして言うつもりが妙に淡々とした声が出た。
自分で言ったくせに言葉が棘となって突き刺さるようだった。潤は最近幸村とは全く顔を合わせていない。それなのに気持ちを自覚したとたんそれはやけに存在を主張して潤の心をひりつかせた。
潤はこの思いが叶うとは全く思っていなかった。たとえ今世界中の人に「上手くいくよ」と言われたとしても信じることはないだろう。そのくらい潤と幸村の間には溝がある。単に嫌われているならまだよかった。幸村の白岩社長への忠誠心は強い、それにもかかわらず娘である潤へ冷酷な態度を露わにするということは、それほど幸村の潤へのネガティブな感情が強いということを意味していた。
おまけに、跡部との結婚話だ。

狭い箱の中で狂いに狂って自分を尾から喰らう蛇のような救いのなさだった。

潤は努めて明るく言った。

「仁王さんも跡部先輩と知り合いなんですよね?」
「ああ、中学時代のテニス部のな。高校のときも戦ったが」
「仲良いんですか」
「どうだろうな。立海は質実剛健な校風でな、一方の跡部はアレじゃろ。ノリが合わんというか、お互いに実力は認めとったから仲が悪いというわけではないが」
「そうだったんですか。……ああ、いわれてみれば、あの、真田さん?でしたっけ?古風な感じの方いらっしゃいましたよね」
「プリッ、その通り」

仁王はククッと喉で笑うと、懐かしそうに目を伏せた。
潤はカフェラテの入ったマグカップで両手を温めながら唾を飲んだ。もしかしたら仁王なら何か知っているかもしれない。

「仁王さん。跡部先輩はどういう女性が好みなのか、ご存じないですか」
「……なぜそんなことを聞く?」
「そんなに変でしょうか。結婚する相手の好みを知りたいと思うことが?」
「いや。だが、まさか、跡部の過去の女のことが気になるというんじゃないだろうな。それは気にしても仕方がないことぜよ」

仁王はコーヒーのマグをテーブルに置いて、諭すように真剣に言う。
潤は仁王に言い訳をするようにかぶりを振った。

「そういうわけじゃないんです。ただ……」
「お嬢、俺は跡部と親しいわけじゃないがそれでもわかることはある。3年ほど前に跡部の家でテニス大会があったんじゃ、その時にな、跡部には親しい女がおった、らしい。俺はそのとき学会で参加できんかったから聞いた話だが」
「そういえば、そんな話を忍足さんがしていました」
「知っていたか。ともかく跡部とその女は親密だった。だが跡部とその女は結局どうにもならんかった。一方で跡部とお嬢には結婚の話まで持ち上がっている。縁というのはそういうもんだ。過去がどうであれ跡部はお嬢を選んだ、自信を持て」

潤はバツが悪くなった。仁王は潤が跡部を慕ってこのような質問をしたのだと考えているに違いないが、実際はもっと薄情で自己中心的な理由によるものだ。

「……ありがとうございます、仁王さん」

自分でも思った以上に小さい声だった。
自信なんてもてるはずもない。間違ってばかりだからだ。幸村と決裂してしまった、あの時から。


***


ずっと逃げて逃げて、ここまで来た。
逃亡は成功していた。つい最近までは。
やり切れない思いや後ろめたさ、苦しみ、嫉妬、劣等感、そんな感情は心の傷の中にしつこく潜んでいたけれど、でもそれにさえ我慢すれば平穏な日々が続くはずだった。いったん過去の出来事になってしまえば後は自然と色褪せて忘れ去られるものだから。
けれど潤の結婚話を聞いたとき、綾希は酷く動揺した。跡部景吾が潤に熱心にアプローチをしていると知ったときからいつかこの日がくるだろうと明確に予想していたのに、いざ目の当たりにしてみると、事前の心構えなど微塵も役に立たなかった。自分の感情の問題くらい大したことではないと思っていたはずなのに、その感情に振り回された。
けれどもその時の綾希は、少なくとも動揺を押し隠すことができる程度には冷静で、弱音を吐かない程度には覚悟を決めていた。

だが今は違う。
綾希は動揺を隠せない自分自身に内心驚いていた。

「……今、なんとおっしゃいましたか?」
「綾希さん、ここへ来る前は跡部家にお勤めしていたのよね?」
「ご存じ、だったのですね」

普段の潤は相手にとって言いにくい話題はできるだけ避けようとする。だが今日の潤はまっすぐに綾希を見据え、静かに、けれども明確に問うてきた。
──潤様、やつれたな。いつの間に……
その黒い双眸は妙に据わっているように思えた。ドレッサーの椅子に座り鏡を背にした彼女は小揺るぎもしない。何かを思い詰めているような、追いつめられているような、そんな顔をしている。
こうして対峙してようやく気が付いた。自分もまたここのところはずっと普段通りでなかったのだと綾希は今更ながら痛感した。
意識的にひとつ咳払いをする。

「どうしてお分かりに?どなたかからお聞きになりましたか」
「いいえ。ただ……写真をたまたま見てしまって。跡部家の使用人の服を着ていたから」

言葉足らずな言い方だったが、綾希は事情を正確に理解した。幸村がかつて綾希に突きつけてきたあのテニス大会の時の写真のことだろう。潤が幸村の私物を探るとは思えないから、幸村が落としたものを拾ったというところだろう。
潤の部屋の隅で輝くランプの光を受けて、その目は異様に光っていた。まるで何かに憑かれたように。

「綾希さん、跡部先輩のこともよく知っているみたいだったから。あのね、聞きたいことがあるんだ」

その眼光の強さに、綾希は怯えた。
直感的に恐ろしいものを感じた。直感的に、潤が何を聞きたがっているのか察した。そしてそれが潤のやつれ具合の原因なのだろうとも。

「跡部先輩と相思相愛だった人のこと。聞きたいの。その大会のときにはいたって聞いたから……綾希さんは知っていると思って」

綾希はぐっと目を瞑って力を入れてから、強く潤を見やった。そうでもしないと自分の感情に翻弄されて負けてしまいそうだった。

「ええ、よく存じております。ですが……それは昔の話です。潤様が今更お気になさることではないのではないでしょうか」
「そうね。そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない」

潤はつぶやくように言う。
ひくりと、喉の奥が震えた。

──ああ、嘘つき。嘘をついたせいだ。その嘘があばかれて、ついにこんなことになった。

赤いキングローズの棘。花束の中の招待状。ダブルデート。アトベランドの限定プリン。不自然なほど、白岩家へ来る跡部家の使い人と顔を合わせないタイミング。

──違う!そんなはず、ない。

「跡部先輩はね、孤独なんだと思う。隣に誰かいるべきなんだと思う。でも、私には、跡部先輩が誰を……どういう人を求めているのかがわからない。だから教えて欲しい。どうしても」
「……具体的に、何をお話しましょうか」
「どんな女性だった?」
「……普通の女性でした。お嬢様でもなく、庶民で、特別な美人であるわけでもなく……申し訳ありません、上手く描写できなくて」
「なら、その方と跡部先輩が別れたのはなぜ?相思相愛だったんでしょう」

ああ、苦しい。
心臓を貫かれたようだ。
ただの言葉なのに、この痛み。

綾希はそれでも口を開いた。最後の矜持だった。

「逃げたんですよ」
「逃げた?跡部先輩が、ではないわよね。その方が?」
「ええ」
「どうして」
「怖かったのでしょう」
「どういうこと?」

泣かないためには笑顔が必要だった。

「怖かったのだと思います。自分より遙かに優れた人に愛されることが、その人のパートナーになることが」

潤はくっと目を見開くと驚いたような顔になった。その目からは先ほどまでの異様な光は消え失せて、哀れみにも似た悲しみの色が浮かんだ。


(20161105)

[back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -