カモマイルの悪魔 | ナノ


跡部に会いたくなかった。だが拒絶できるはずもない。
潤は最後の授業を終えた後、一人で大学の正門前に向かった。跡部はそこへ迎えを寄越してくれると言っていた。
正門を背にしばらくぼんやり立っていると、男性のやけに明るい声が聞こえた。

「あのー、白岩さん?白岩潤さんですよねー?」

直感が警報を鳴らした。
潤はとっさに作り笑いを浮かべて振り向いた。そこにはマイクを持った男性と、カメラをこちらへ向けて構えた大柄な男性がいた。明らかに記者だった。
マイクを持った男性は軽薄そうな笑みを浮かべながら近寄ってくる。

「すみませーん、私ども、週刊ダイナミズムの者なんですけどー。跡部景吾さんと白岩さんのことをお尋ねしたくってえ」

潤は狼狽を笑顔の下に押し隠した。
思えば、美波も記者に話しかけられたと言っていたではないか。本当ならば、美波からその話を聞いた時点で、話題の張本人である自分もまた記者に突撃される可能性が高いと覚悟しておくべきだったのだ。だが全くそのことに思い至っていなかった。
もし気が付いていれば記者にどう答えるべきか事前に準備しておけたのに、そう悔いても後の祭りだ。

「すみません、今急いでおりますので」
「少しでいいんすよ。ね、白岩さんと跡部さんの噂、知ってます?」
「私、本当に」
「いいじゃないですかー!どうなんです?ねえ、答えてくださいよ」

潤は大学の壁と記者たちの間に挟まれた格好になった。髪を背後へ払うふりをしてさりげなくあたりを伺うが、まだ跡部はまだ来ていない。記者は軽いノリにそぐわないしつこさでマイクを突きつけてくる。逃げるのは難しい。ごまかすしかない。
正門を通り抜けていく学生たちが潤の方をじろじろと見ていた。無理もないことだった。

「で、どうなんです?白岩さーん?」
「申し訳ありませんが、何の話をされているのかわかりません」
「またまたー、知ってますよね?白岩さんと跡部さんが婚約したって噂ですよ!」
「そんな噂があるのですか。全く存じ上げませんでした」
「嘘だー!ぜっんぜん驚いてないじゃないですか!知ってたんでしょ?」
「いえ……誰が言い出したものやら」
「何言っているんすか、よく跡部さんと出かけてるでしょ?写真だってあるんですよ!ほら!」

潤は、ジャケットのポケットから写真らしきものを取り出した記者から目を反らした。ここで身を乗り出したら事実だと認めるようなものだ。
──落ち着け。大丈夫。お嬢様らしく、お嬢様らしく。

「ほらほら、どうなんですか?跡部さんと婚約したんでしょ?」
「いいえ、ただのお友達です」
「そんな、その割には……うわっと、なんですか!あなたは!…………あああっ!!」

突然、記者が大声を出した。
びくっとして潤が視線を記者に戻すとスーツの背中が目の前一杯に見えた。

「……テメエ、何やってるのかわかってんのか。アーン?」

潤は目を見開いた。ストライプの織りの生地の、上質なスーツ。
スーツ越しにちらりと見えた記者の顔には焦りがありありと浮かんでいた。その隣にいたカメラマンはすぐにカメラを下ろして及び腰になっている。

「あ……あっ、跡部さんじゃないですか!ああ、いやこれは、その」
「これはなんだ。言ってみろ」
「いえ、その、噂の真相が知りたくて……」
「で、若い女を壁際に囲んで追いつめたってわけか」
「……それは……」

記者は黙り込んだ。
一拍、二拍、三拍。
跡部はたっぷり間をおいて圧力をかけると、チッと舌打ちをして憎々しげに言い放った。

「さっさと失せろ。これ以上無礼を働くと容赦はしねえぞ」
「し、失礼しました!」

記者は叫ぶように言うと、脱兎のごとく逃げていった。
潤はぽかんとしてそれを見送った。
跡部財閥ともなると敵には回したくないらしい。確かに、跡部が本気になれば雑誌の一つくらいは軽くつぶせそうだ。本気で跡部がそんなことをするとは思えなかったが。
呆然としていると、スーツがくるりと振り向いて、青い瞳と目が合った。

「大丈夫か?潤」
「……」
「おい、潤?」
「……あっ、跡部先輩……大丈夫です。ありがとうございます」
「礼なんざいらねえ。お前を守るのは俺様の仕事だ」

ふいに苦い気持ちがこみ上げてきて、潤はうつむいた。
前にもこうしてスーツの背中でかばってもらったことがある。今年の春に、千石と合コンで出会ったときのことだ。でもその時に潤を守ろうとしたのは幸村で、今はそれが跡部だった。
──守ってもらっただけでも感謝しなければならないというのに、幸村だったらよかったのにだなんて。
潤は手をきつく握って跡部に頭を下げた。失礼にもほどがある。
それに、いざ幸村に守ってもらったらそれはそれでまた、春のころとは別の意味で苦しくなるに違いないのだ。

「……おい」
「はい」
「いや、いい。行くぞ」

跡部に優しく背を押されて、駐車している真珠色のリムジンに乗り込む。
リムジンは水面を滑るようになめらかに走り出した。車のシートを包むロイヤルブルーの布地は、角度を変えるたびに相変わらず南国の海のように美しく色を変化させた。
潤がその上に座ると、跡部はためらいなく潤の隣に腰掛けた。
潤はシートに背を預けてあたりを見回した。
そう、この車に初めて乗ったとき、春と夏の狭間の季節、そのころは美波と樺地も一緒だった。そして潤は跡部を好きなふりをするためにわざと跡部に接近していた。だが今はどうだ。美波も樺地もいない。幸村もいない。その上潤は跡部と結婚することになっている。
──この車はどこへ向かっているんだろう。
ぼんやりと思った後、潤は考えるのをやめた。


***


現実を歩きながら、記憶をたどる。
初めて跡部邸へ来たときは幸村と一緒だった。お嬢様らしくしろと言われたんだっけ。次に来たときは美波と一緒だった。家がまるでお城みたいだと思ったものだ。今は、跡部が隣にいる。
あのときはどんな気分だったっけ、あのときは……。
誘導されて家の中に入り、応接室に通される。潤はぼんやりしつつも無意識に人形のように「お嬢様らしく」振る舞っていた。これはある意味幸村の教育のおかげなのかもしれない。
跡部が何かを言っているが言葉が耳に入らない。
ただ手振りで座れと言われているのがわかってソファに腰掛けると、斜め前に跡部が座った。

「おい、潤。何を聞かれた」
「何を、とは」
「さっきの男にだ」

さっきの男に。
おうむ返しに答えて、跡部の言葉を何度か頭の中でリフレインさせて、しばらくしてようやく言葉の意味が理解できた。

「……婚約したのか、と聞かれました」
「それだけか?」
「どうしてです?」
「ショック受けてんだろうが」

潤は押し黙った。確かにショックだった。婚約話が急速に既成事実化していく、包囲網を狭められているような焦燥感。
跡部は乗り出していた身をソファに預けると眉間にしわを寄せた。

「マスコミにつけ回されんのは初めてか。チッ、もっと警戒しておくべきだったぜ」
「……いえ」
「今度からは俺の名前を使え。そうすりゃ少しはあいつらも大人しくなる」
「でも」
「遠慮すんな、じきに俺たちは結婚するんだぜ?アーン」
「跡部先輩!」

潤は跡部を遮るように大声を出した。逃げることはできない、けれども黙っていたって仕方がない。美波の言った通りだった。どうせ逃げられないなら、正面から対峙するしかない。たとえそれで何が変わらなくとも黙って耐えるよりはいい。

「なんだ」
「なぜ、提携の条件に私たちの結婚を入れたんですか」

跡部は珍しく虚を突かれたような顔をすると、ふっと笑みを浮かべた。
潤にはその笑顔に妙な違和感を覚えた。作り笑いとは違う、しかし喜びに生まれた笑みでも苦笑いでもなく、ただどことなく儚く見えた。自信に満ちた表情であるはずなのに。

「お前のことが好きだからだ。言っただろう?」

潤は腹に力を込めた。ここが正念場だ。

「跡部先輩。本当のことが聞きたいんです」
「何」
「私のこと好きだっていうの、嘘ですよね」
「まだ信じられねえのか」
「……なんでそんなこと言うんですか」
「頑固なやつだ。お前はどうやったら信じてくれるんだ?」

跡部はあきれたように顔を押さえているが、それさえも潤には奇妙に見えた。
なんて空虚なんだろう。なんて空しい。
直感がそう告げる。

「嘘!ねえ、跡部先輩!跡部先輩だってわかってるんじゃないですか、本当は私に信じさせようとさえも思ってないんじゃないですか!?」

思わず立ち上がって叫ぶように言う。
指の隙間からこちらを見上げる跡部のぎらりとした青が見えた。跡部がそんな目で潤を見るのは初めてだった。

「……言ったはずだ。俺にはお前が必要だ。それだけだ」
「必要だって、なぜ?跡部先輩は私を好きなわけじゃない。前は白岩カンパニーとの繋がりが欲しいから私が必要なのだと思っていました、でもそれも違う」

跡部は潤を睨むように見つめたまま黙って返事をしない。
潤は足がすくみそうになった。冷や汗がじわりと出てくる。ずっと潤に優しかった跡部から異様な迫力がにじみ出ていて、彼はただ座っているだけなのに圧倒されそうになった。でも黙ることはできない。

「今は白岩カンパニーは跡部財閥よりも圧倒的に弱い立場であるはず。だからわからないです。跡部先輩が、私と結婚することで何を欲しているのか」
「……お前が必要だっていうだけじゃ足りねえというのか」
「納得できないのに、私、跡部先輩と結婚できません」

そう言ったとたん、勢いよく跡部が立ち上がって潤の両肩を掴んだ。彼の顔は歪み、目は爛々と異様な光を放っていた。
指が潤の肌に強く食い込む。
潤は痛みと驚きに跡部を見上げた。

「なぜ……なぜだ、なぜだ!?なぜそう言う!?」
「……え」
「なんでもする、そう言ったじゃねえか、何が足りない!?」

そんなことを跡部に言われた覚えはない。いったい何の話だろう。

「まただ……なぜだ、言え!」
「跡部、先輩」
「これでもまだダメか、なぜだ、なぜなんだ!?俺様の何が不満だ!」

怒りに満ちた顔で跡部は潤に詰め寄る。
潤は愕然とした。跡部は潤に対して言っているのだと思ったが、違う。ここにはいない別の誰かに対して言っている。その人と潤に重ね合わせているのだ。
跡部はハッとした顔で潤から離れ、力なくソファに座った。彼は再び手で顔を覆った。
しばらく黙っていると、跡部はぽつりと言った。

「……結婚しねえっていうなら提携の話はナシだ。そうすりゃ白岩カンパニーは買収され、お前の親父とお袋が何十年もかけたもんはあっけなく消滅する」
「……」
「それでもまだ結婚はしねえっていうのか」
「……はい、と言いたいところですが」

かろうじて見える跡部の口元は自嘲気味に笑っていた。

「言えねえ、ってか。そりゃそうだろうな。ハッ、俺様も嫌われたもんだぜ」
「嫌っているわけでは」
「お前の度胸に免じて一つだけ代替案を出してやる」

跡部は顔から手を離すとまっすぐに潤を見上げた。その顔からは能面のように表情がはがれ落ちていて、そのくせ寂しそうに見えた。

「お前の『身代わり』を連れてこい。それでお前との結婚はチャラにしてやる」
「身代わり?」
「ただの女じゃねえ、俺様が欲するような女を連れてこい。連れて来れるんならな」
「それは」
「もう行け。樺地に送らせる」

跡部の言葉からにじみ出る孤独感は、ひどく潤の心を打った。


(20161020)

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