カモマイルの悪魔 | ナノ


大学へ終わって潤が家に帰れば、そこには白岩社長や幸村はおらずとも河西や綾希はいる。たまに仁王もいる。彼らは皆、潤を大切にしてくれる。それなのに、千石に心の内を晒してしまったせいなのか、今の潤には何もかもが寂しく思えて仕方なかった。
家に帰りたくない。大学にいた方がいい。潤がそんな風に思ったのははじめてだった。
わざと大学に居残って夜遅くに帰宅した潤は、秋の風に身を縮めながら静かに家の中へ滑り込んだ。まだ中秋にもなっていないというのに風が冷たい。暖かいお茶でも飲もうと潤がキッチンへ入ると、そこでは綾希がスツールに腰掛けてぼんやりとしていた。
いつもきびきびと働いている綾希がそうしているのは珍しい。
そっとしておこうかと潤が逡巡しているうちに、綾希ははっと顔をあげて慌てて立ち上がった。

「おかえりなさいませ、潤様。申し訳ありません、出迎えもせず」
「いいの、そんなの。それより大丈夫?疲れているんじゃない」
「いえ、少し考え事をしていただけですので。お食事は済ませていらっしゃったんですよね。お茶でもいかがですか」
「うん、欲しい」

綾希は手早くやかんを火にかけた。潤は綾希の後ろ姿を見ているうちに、無性に綾希に跡部の話をしたくなった。跡部との結婚話が出てきてからというもの、家では無口になっていたせいで綾希とはろくに会話ができていなかった。それに、綾希は跡部のことを知っていたはずだ。

「ねえ、綾希さん。聞いた?その……私と跡部先輩の話」
「ご婚約なさるという話ですね?」
「うん……」

話を振ってみたものの、先へ続かない。何からどこまで打ち明けていいかもわからなかった。
潤が黙ってただスツールに座っていると、綾希は丁寧にティーカップにお茶を入れてテーブルの上へ持ってきてくれた。綾希は潤の目の前に腰掛けて、優しく語りかけるように言った。

「潤様は、この婚約にはあまり乗り気ではないようですね」
「うん……わかる?」
「ええ。お顔を見れば」

紅茶の香りがふわりと鼻先に漂う。
潤がティーカップをのぞき込むと、そこには情けない顔をした自分が写っていた。少なくとも潤は綾希に幸村への気持ちを打ち明けるつもりはなかった。幸村と綾希は同僚以上の仲なのだろうから、打ち明けたとしても綾希を困惑させるだけだ。

「あのね……跡部先輩ね、優しいんだ。とても。私にはもったいなって思うくらい」

潤は紅茶を一口含んだ。上質な茶葉で入れているはずなのに何も味を感じない。ただ紅茶の熱さだけが喉を下っていく。

「ほんとに、私にはもったないないくらい……不満なんて何一つない。でも」
「潤様。跡部景吾様は、そんなに悪い人じゃありませんよ」

突然、綾希が潤の言葉を遮って断言するように言った。その行動はいつもの落ち着いた綾希らしくなくて、潤は目を丸くして綾希を見つめた。それに潤は跡部を「悪い人じゃない」どころか素晴らしい人だと評価しているのに、いったいどうしてそんなことを言うのだろうか。

「派手だし自信マンマンだしナルシストですけれど……潤様は幸せになれると思います。じきにわかります」
「綾希さん、もしかして、跡部先輩のこと、よく知ってるの?」
「……ええ、実は。ここのところは全く連絡を取っていませんが」
「……そう」

連絡を取ってないという綾希はいつも通り落ち着いていて、けれどもその口調には何か強いものを感じて、潤はすぐには返事ができなかった。綾希がこうして潤の気持ちを押し切るように強く断定するのは初めてだった。
潤には、綾希が変なのは今の自分が変だからそう思えるだけなのか、それとも本当に今の綾希が変なのかさえも判断できなかった。
沈黙が落ちる。
数拍ののち、綾希はためらいがちに尋ねた。

「潤様は、逃げようと思われたことはないのですか?」
「何から?この結婚話のこと?」
「ええ、それもありますし、もっと広く、ご自身が置かれた立場から、です」

潤は妙なことを聞くなと思ったが、綾希の目が真剣だったのではぐらかす気にはなれなかった。

「そうね。つらいな、とか、もう嫌だと思ったことは何度もあるけど、逃げようと思ったことはないかな」
「強いのですね、潤様は」
「ううん。逃げなかったのは強かったからじゃなくて、逃げられないとわかっていたからだよ。たぶんね。現にほら、逃れようがないでしょ?」

最後は自嘲気味になった。逃げるだなんて、どうやれというのか。白岩潤が白岩家から逃れられるはずがない。 
ところが綾希はまじめな顔で問うてきた。

「本当に、そうでしょうか。逃げられないものでしょうか」
「……え」
「あ、も、申し訳ありません。逃げろと言っているのではありません、景吾様とのご結婚は良縁だと思います」
「……ええ、そうね」

頭を下げる綾希を見て、なぜか潤は苦い物がこみ上げてきた。潤は冷めつつあった紅茶を飲み干すと、礼を言ってキッチンから出た。
寂しさは、埋まらない。
退路は、ない。


***


やめて。

来ないで。

行かないで。

どうして。

どうして。
どうして。
どうして。

好きだったのに。





あの夢を見た。
喉がひくひくと震えているのがわかる。

こわい。かなしい。

濃い霧の中でもがくようにしていると、誰かにゆっくりと頭を撫でられたのがわかった。

熱に当てられたようにぼんやりと薄目を開けると、ベッドの横には幸村がいた。彼は椅子に座ってカップで何かを飲んでいた。ほんのりとカモマイルの香りがする。幸村は潤の額と優しく撫でると、カップをサイドテーブルにおいて、顔をのぞき込んできた。幸村は優しい顔をしていて、ゆっくりと潤のまぶたに唇を落とした。






潤ははっと目を覚まして飛び起きた。部屋は薄暗い。時計を見れば針は五時を指していた。
あたりを見回すが、そこには当然幸村の姿はなく、ベッドの横には椅子もカップもなかった。幸村どころか誰もいた痕跡はなかった。

潤はこみ上げてくる嗚咽を押さえて、うずくまった。今更こんな夢を見るなんて、なんて馬鹿なんだろう。今頃気が付いてももう遅いのだ。好きだ、なんて、なんて馬鹿。もう何もかもが壊れてしまっているのに。

強く閉じた瞼の隙間から止めどなく涙が溢れてくるのを、潤は止めることができなかった。


***


「おっはよ……ちょ、ちょっと潤!?どうしたの!!?」

帽子に伊達眼鏡に化粧と全力でごまかしたつもりだったが、やはり無理があったようだ。
朝、学校のキャンパスで美波と会ったとたん、彼女は目をカッと見開いて潤の元へダッシュで近寄ってきた。

「やっぱりまだ腫れてる?」
「うん、かなり。どうしたの、なんかあったの」
「うん、まあ、でも、たいしたこと」
「ないわけないでしょ!泣き虫の子ならともかく、あんたがそんな顔してきたの初めてでしょ。友人なめんじゃないわよ」
「……うん、うん」

優しい言葉に言葉を詰まらせると、美波はぎゅっと潤を抱きしめてきっぱりと言った。

「よし、一限サボるわよ。いいわね」
「え、でも授業……」
「いいじゃない、英語でしょ。どうせすること決まってるし、後でユッコにケーキでもおごってノート見せてもらおう」
「でも」
「ねえ、潤はこのコマさぼったことないでしょ?私もそうよ。だったら出席数は十分足りてるわ。難しい授業でもない。確かに授業は大事だけど、それって、潤が目を腫らすほどのことよりも重要なものなの?」

潤は思わず美波を強く抱きしめ返した。こうして甘えたのはいつぶりだろう。
美波は潤の背をぽんぽんと撫でると、ニッと笑って潤の手を引いて歩き出した。



たどり着いた先はキャンパスの中にある喫茶店だった。二人はボックス席に陣取り、潤はひたすら美波に内心を吐露し続けた。美波はうんうんと頷きながら一通り黙って話を聞き、潤が最後に言葉に詰まると「うーん」と一つ唸った。

「なるほどねえ。よくわかったわ、潤」
「……驚かないの?」
「何を?」
「その……幸村のこととか、跡部先輩との話とか」

美波は少し困ったような顔をした。

「ごめん、潤。実はね、結婚の話、知ってたんだ」
「……え!?なんで?」
「この前むね……樺地さんと一緒に歩いてるときにいきなり知らない人に話しかけられてね。どうやら記者だったみたいなんだけど、『樺地さんですね?跡部財閥と白岩カンパニーの提携の話は真実ですか?跡部社長と白岩潤さんの結婚の話はどうですか?』って矢継ぎ早に聞かれて。樺地さんは何にも言わなかったんだけど、なんとなく、そうなのかなって」
「……そっか。そうなんだ。ごめん、美波。何も言わなくて。内々で進んでる話だったから言えなくて……心配もかけたくなくて」

思えば、千石は噂になっていると言っていたではないか。樺地のそばにいる美波が知っていても全くおかしくはない。
謝る潤に美波は優しく言った。

「馬鹿ね、そんなこと気にしなくていいのに。幸村さんのこともね、意外と言われれば確かに意外だったんだけど、言われてみれば納得しちゃって」
「なんで?」
「うーん、なんかね、潤の幸村さんに対する態度に普通じゃないものを感じたから、かなあ。なんとなく、という感じ」

美波は運ばれてきたホットココアをふうふうと吹き冷ましながら、曖昧に言葉をつないだ。

「美波……私、もう頭がぐっちゃぐちゃで、どうしたらいいのかわかんないんだ。もうどうしようもないんだし、何かしたところで何も変わらないってわかってるんだけど」
「そうね。ねえ、まずは跡部さんとちゃんとお話、してみたら?」
「え」
「潤、ちゃんと跡部さんと話したことないんじゃない?この結婚のこと」
「だって……話すも何も、もう決まっちゃってるし」
「ううん、そうじゃない。そういうことじゃなくて」

美波はココアのカップから口を離してもどかしそうに言い募った。

「潤の気持ちのことよ。それから、跡部さんの気持ちのことよ。もし、どのみち結婚しなきゃならないんだとしても、それって大事なことなんじゃないの?違う?」
「……そうだね。違わないと思う」
「でしょ。その……自分の正直な思いを伝えるのって、大変だと思うのよね、特に本気のときは。だけど、話してみれば新しく何かわかることがあるかもしれないから」

潤のスマホが震えた。
美波に断ってそれを確認した潤は、目を見開いた。

「潤?どうしたの」
「……跡部先輩が、放課後迎えにくるって」
「そっか」
「美波。ありがと。ちゃんと向き合ってみる」

決意を込めて言うと、美波は優しい目をして頷いた。



(20161012)

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