カモマイルの悪魔 | ナノ


胸を引きちぎられたような気分になった。一寸たりとも体を動かせなくなるような痛み。この痛みが、何より潤の本心を告げていた。

──なんて馬鹿馬鹿しい。こんなはずじゃなかった。恋などするはずはない、何の喜びもない代わりに何の悲しみもなくいつか誰かと結婚することになってそれで終わると、そう思っていたのに、実際はすでに恋の痛みの中にいたというのだから。

「私……わたし」
「うん」
「馬鹿みたい。優等生だって言われて、お嬢様らしくしろって言われて。でも結局、これじゃ道化じゃないですか」

ただの泣き言だ、言っても仕方がない。それなのに舌は止まってくれなかった。荒縄で締め付けられるように心が痛い。
千石は一気にグラスを煽って、空になったそれをカウンターにおいた。それから大きくため息をついて、つぶやくように言った。

「俺はこういう性格だからさ、いろんな恋をしてきたけれど。どうにもならないんだよね……本気で好きになると。何度好きになっても苦しさを回避する方法なんて一つもない」
「千石さんでも?」
「そ、俺でも。本気になれば道化になってしまう……ああいや、これは恋に限った話ではないかな。友情でもあるいはテニスでも、本気というのはそういうものなのかもしれないね。その都度あがいて、あがいて、他人から見ればピエロだ。それでもやめられない」

潤は左手で顔を覆った。泣ければ楽になるのかもしれない、けれども涙はちっとも出ずに、ただ恐ろしいほどの後悔が体の奥から止めどなくわき上がってくる。後悔は音なき嗚咽になって、騒がしいクラブミュージックに溶けてゆく。
クイーンビークラブは潤にとって自由の象徴のようなものだった。ここにいれば自由が得られ、その自由は潤を日々の苦しさから解放するのだとずっと思っていた。だがどうだ、今はここで飲んでいるにもかかわらず苦しみの渦中にある。すべては自分の内側から沸いていたのだ。それに今まで気がつかなかった。

「潤ちゃん。この件で俺ができることはほとんどない。でもこれだけは言える。君は自分の気持ちを否定すべきではないよ」
「ありがとうございます」

潤は小さく言って立ち上がった。そろそろ1時間になる。柳さんに心配をかけないようにしなくては、と考えられる程度には理性が残っていた。


***


喫茶店の中をくまなく探すまでもなく、千石はすぐに見つかった。特徴的な赤茶色の髪が午後の光にきらめくさまは数年前に見たときから変わっていない。秋によく似合う色だなと仁王は思った。
かくいう仁王も昔とさして変わっていないためか、先に席に座っていた千石もすぐに仁王を見つけてひらひらと手を振った。

「やあ、久しぶり。仁王くん」
「ああ、跡部んとこで開いた大会以来じゃな。連絡が来て驚いたぜよ」

仁王は千石の様子を注意深く観察しながら彼の前の席に座った。唐突にジャッカル経由で千石からメールが届いたのが三日ほど前のことだ。仁王は自分が呼び出された理由を知らなかった。
仁王はコーヒーを注文してから、言葉を選びかねている千石を促した。

「それでどうした、千石」
「そのー、幸村くんのことが気になってね。今どうしてるのか聞きたくて」
「なんだそれは。そんなら幸村自身とコンタクト取ったらええじゃろが」
「もっと正確に言うと、聞きたいのは幸村くんと潤ちゃんの関係のことなんだ」

仁王は目を見開いた。千石の顔からは先ほどまでのためらいは消えていた。

「千石、お嬢を知っとるんか?……ああ、いい、思い出した。そういえばお嬢が合コンに行って千石を釣ってきたと幸村が前に愚痴をこぼしとったな」
「……」
「お嬢とは親しいのか?」
「友人だよ。仁王くん、クイーンビークラブのことは知ってる?」
「お嬢のバイト先だな。幸村に辞めさせられたが」
「そう、そこで時々潤ちゃんと会ってたんだ。潤ちゃんがアルバイトを始める前から。あそこには亜久津もいてね」
「ジャッカルともクイーンビーで接点があった、と」
「そうそう」

なるほど合点が行った。
仁王と潤は使用人と主の娘ではあるが、実際には主従関係ではなく親しい先輩と後輩というフランクな関係を築いている。それゆえに潤はよく大学や友人の話を仁王にするが、仁王は潤から千石の話を聞いたことがなかった。おそらく潤はクイーンビークラブに行っていたことを周囲に秘密にしていたからこそ、クイーンビーで会う千石の話も言うに言えなかったのだろう。

「仁王くんは潤ちゃんと跡部くんのそのー……話は知ってるんだよね?」
「結婚のことか?」
「そう、それ」
「ま、一応な。お嬢も幸村もその話は俺にはほとんどせんが。……なあ、千石は何を知りたいんじゃ。幸村とお嬢の話じゃなかったんか」

千石は頷くと、自身のふわふわしたくせっ毛の頭に手をやった。

「知りたいというより心配なんだ」
「お嬢が、か?」
「潤ちゃんもだけど、むしろ幸村くんの方が。おかしくないかい、今の幸村くん。思い詰めたりしてない?」

仁王は言葉に詰まった。思い詰めている。確かにその表現は正しいかもしれない。仁王は白岩家で働き始めてからの数年間で幸村のあの様子にはすっかり慣れてしまっていたが、それでも仁王とて疑問に思ったことは何度もある。
仁王は唇をなめて慎重に言葉を選んだ。

「千石がおかしいと感じているのは、幸村のお嬢への態度のことか?」
「うん。わかってるんだろ?仁王くんも」
「まあ、な」
「俺は幸村くんとは春に会ったきりだし、あとは潤ちゃんから話を聞いただけだけど、仁王くんなら何か知ってるんじゃないかと思ってね。幸村くんのあの妙な態度の理由だよ。潤ちゃんは自分が幸村くんに嫌われていると思っている。でもそんなに単純な話じゃないように思えるんだ」
「というと?」
「嫌っている、というには幸村くんは潤ちゃんを大切にしているだろう。使用人の通常の仕事の範囲を超えるくらいに。けれども厳しい、というには感情的すぎるしおまけに意地悪だ」

千石の言葉は、仁王が幸村に対して曖昧に抱いていた疑念を的確に言い表した。まさにその通り。幸村の潤に対する言動は、普通の使用人としても妙だし、幸村精市という一人の男としても妙だった。

「俺が白岩家でアルバイトを始めたときは、すでにお嬢と幸村の仲はあんな状態だった。それどころじゃない、幸村が白岩家のメイドに手を出すとかなんとかという理由で次々とメイドが辞めていっていた」
「ええ!幸村くんが!?ウソだろ!?」
「本当の話だ。いや、そういう話になってはいる、お嬢はそう言っているが正直俺にも確信が持てん。幸村は他人を弄ぶような男じゃなか。ともかく、そういう状態で、にもかかわらず俺や丸井への態度は今まで通りだったもんでな、俺には幸村がああなった理由も原因もわからんぜよ」
「そうかー……仁王くんにもわからないのか」
「ああ。前にな、幸村にお嬢をどう思っているのか聞いたことがある。だが明確な答えは得られんかった」
「どういう返事が返ってきたんだい」
「はっきりは覚えとらんが、するべきことをするだけだ、という類のことを言われた」

千石は難しい顔になった。気持ちは分かる。幸村のこの言い方からすれば、幸村は何か冷静な目的や思惑があってそれに従い潤に接しているように聞こえる。だが実際には、気まぐれな子供の喧嘩だと言われた方がまだ合点がいくような接し方に見える。

「仁王くん。俺さ、春に幸村くんと会ったときに、跡部くんのことを何か知らないかって聞かれたんだ。跡部くんのことすごく警戒しているように見えたんだよね。潤ちゃんもそう言ってた。幸村くんが跡部くんにかなり辛辣な態度を取るってね」
「ああ、それは事実だ。俺も──お嬢に言うなよ、幸村に頼まれて跡部とお嬢のデートの様子をこっそり見に行ったこともあるくらいぜよ」
「だったらなおさら、あの今の幸村くんだったら潤ちゃんと跡部くんの結婚に反対しそうなものじゃないか。それなのに賛成しているって、そこもおかしいと思わない?」
「そうだな。でも、ま、結婚の件は白岩社長の意向もある。幸村は白岩社長に逆らうことはない」
「じゃあ、幸村くんの潤ちゃんに対する言動については、白岩社長は止めなかったということかい」
「……そこまで考えたことはなかったぜよ。だがそうだな、そういうことになる。あるいは──幸村の態度のことを知らないか。社長は忙しい」

ばちっと千石と目が合う。千石は何も言わずに自分の紅茶に口をつけたが、言いたいことは分かった。いくら忙しいとはいえ、潤が悩むほどのひどい幸村の態度について、全く社長は知らないということはありえるだろうか。潤が社長に言わなかったとしても、あの河西が社長に報告しないということがありえるだろうか。
千石はテーブルに頬杖をついて目を閉じた。

「幸村くんは何を考えているんだろう。幸村くんは頭もいいし人の気持ちも読めるし勘もいいから、この結婚話は潤ちゃんを幸せにしないってわかりそうなもんだけど」
「今は白岩カンパニーと跡部財閥との関係が重要な時期だ。あれだけ潤が跡部に好かれたんじゃ、無碍にもできんのだろう」
「そうだ、そこも疑問なんだよね。跡部くんは潤ちゃんのこと好きだってはっきり俺にも言ったけど、あれ、嘘だと思うんだ」
「なに」

仁王は驚いて、持ちあげかけていたコーヒーカップを落としそうになった。千石の顔は真剣そのもので冗談などひとかけらも含んでいない。

「待て、どういうことじゃ。跡部は真剣ぜよ、どれだけ白岩に贈り物をしたり、潤を口説いていたか知ってて言うとるんか、それは」
「潤ちゃんから聞いてるよ」
「確実なんか」
「うん。証拠はないけど。でも俺、こういう勘は鋭いから間違いないと思う」
「……そういやお嬢も跡部の本気を疑うようなことをちらっと言っとったな。てっきり財閥のお坊ちゃまに愛されるシンデレラストーリーが信じられんだけだと思っていたが」
「潤ちゃんも結構鋭いから」
「だが仮に、仮にだぞ。跡部がお嬢を好きじゃないとすれば、なんで提携の条件にお嬢との結婚を盛り込んだ?今回の提携では跡部財閥の方が圧倒的に立場が強い、そんなら跡部には別に好きでもない相手と結婚するメリットはないじゃろが」
「そうだね」
「あー、いや、半信半疑だが、千石の勘とやらが全くの勘違いだと思ってるわけじゃなか。だがそうだとすれば、それはそれでおかしい点があると言いたかった」
「大丈夫、分かっているよ。確かに仁王くんの言う通りだ」

千石はもしゃもしゃと頭をかいた。

「あー!仁王くんに聞いてよくわかったけど、結局謎は増えた!」
「それは俺も同じぜよ。……どっちみち、俺ら部外者にできることは当事者の話を聞いてやるくらいぜよ」
「全くだね」

仁王は暗澹たる気持ちでカップの底に残った真っ黒なコーヒーをすすり、一つ決心をした。せめて、お嬢と幸村にはうまい飯でも作ってやろう。


(20160927)

[back]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -