カモマイルの悪魔 | ナノ


口に含んだ琥珀色のウイスキーが香気となって鼻へ抜ける。千石清純はグラスを軽く振りながら隣に座る白岩潤を盗み見た。潤はカウンター席のスツールを180度回してバーテンダーたちを背に、店内で客が踊るのをじっと見つめている。かつてと同じように。かつてと同じような穏やかな雰囲気で。しかし千石の目には、彼女は何かがかつてとは違うように見えた。

「いやあ、驚いたよ。まさか今日ここで会えるとは思わなかったからさ、ラッキー!」
「あはは、私もです。お元気そうですね」
「おかげさまで。潤ちゃんも元気そうで良かったよ。アルバイト辞めたって聞いて」
「あはは、メールで言った通り元気ですよ。いつか辞めさせられるかもしれないと分かってましたから」

潤は客のダンスから目をは離すことなく平然と言う。その声は真っ直ぐで、無理に平気なふりをしているわけではないとわかった。しかしアルバイトを辞めさせられて落ち込んでいるというわけではないならば何なのか、この彼女の違和感は?
千石は潤が以前から深い問題を抱えているのを知っていた。彼女の言葉の端々から白岩家という枷に縛られた苦しさが出ていたからだ。けれども彼女はその苦しさを、苦しみながらも粗方受け入れてしまっていたから、それについて悲しみを露わにすることはなかった。だが──今の彼女の横顔には、明らかに憂いが浮かんでいる。

「よかったの?それで」
「良くはないですけれども仕方ない、ですね。覚悟の上でしたし」
「そっか。……辞めたばかりなのによくここへ来られたね」
「もちろん幸村に内緒です。どうしても挨拶しに来たかったので」
「バイトがばれたばかりだっていうのに隠せたんだ」
「今回は協力者がいるもので。……それに今、幸村は忙しいので家にもあまりいなくて」

千石は、ああ、と口の中で呟いてグラスをあおった。赤子の拳ほどある氷が唇に押し当てられてその隙間からウイスキーが口へ流れ込む。喉を焼きたい気分だというのに、上質な酒は舌の上でするりと溶けてなくなってしまう。

──彼女の憂いは、この話に起因していたのか。

白岩カンパニーが敵対的買収されるかもしれないという話は日本の経済界に大きなインパクトを与えている。証券会社や投資ファンドの間では特に今一番ホットな話題だ。しかし……経済人として聞けば、この敵対的買収は業界再編だの株式会社の危機管理だのという問題となるが、彼女から見れば家族の問題であり自分たちが今後どのような生活を送るかという身近で切実な問題となる。

「うちの業界は潤ちゃんのところとは縁が遠いけど、それでも噂には聞いているよ。うちの社長も戦々恐々としていた」
「まさか、こんなことになるとは思いませんでした。どうなるんでしょうね。私が考えても仕方がないのですけれど」
「うーん、そうだね……ま、大きな会社の社長が辞任した後に手腕を買われて他の会社のトップになるってこともよくあることだし。M&Aが成功したとしても潤ちゃんちが借金を背負うわけではないから。あんまり気に病みすぎないでさ」
「はい、ありがとうございます。こうやって飲んでお話していると気が晴れます」

そうは言うものの彼女の表情は憂いを帯びたままだ。ただ白岩カンパニーの行方が心配だというだけではないらしい。潤はあからさまに思い悩んだ表情をしているわけではなかったが、人の心の機微に敏感な千石はそう確信していた。
手にしていたグラスの中の氷が崩れて、カラリと涼しげな音がする。そばのカウンターへ注文しにやってきた女性から濃い香水の香りがする。数メートル先で壁にもたれ掛かっている男の腰に下がったチェーンが鳴る。世間の疲れを振り払うように騒がしく振動するこのクラブの中で一人、潤は物思いに沈んでいる。

──潤ちゃん、綺麗になったな。

ふと、そんなことを思う。同時に千石の頭によぎったのは、今年の春先、初めて話をしたときの潤の顔だった。
あの時はまだ桜の花びらが枝に残っていた。千石が大学の後輩に誘われて繁華街のはずれにある洒落た創作居酒屋に顔を出してみれば、そこは街コンかと目を疑うほどの男女でにぎわっていた。聞けばどうやら幹事が気合いを入れすぎた結果人数が膨れ上がってしまったらしい。その中にいた潤の第一印象は、千石はまったく覚えていなかった。それだけ普通だったのだ。潤が質の良い服やバッグを身につけていることには気が付いたが超高級というほどでもなく、経済的に余裕のある大学生なら持っていても不思議ではないレベルだった。
千石が白岩潤という存在に気を止めたのは、彼女が笑顔を浮かべて卒なく話しながらも決してテーブルの隅から動かないことに気が付いたときだ。人見知りでも我が儘でもなさそうな女の子がなぜそんな行動を取るのか。気になって話しかけてみれば完璧な笑顔でいなされて、話せば話すほど彼女の印象は濃くなった。

あの時の彼女は満面の笑みを浮かべていた。
笑顔は誰でも美しい。
けれども、あの時の笑顔の潤よりも今の潤の方がずっと美しく見えた。

──そういえば俺、あの後、幸村くんに会って……


***


潤は千石の言葉に相づちを打ちながら内心では違うことを考えていた。アルバイトを辞めたあの日、潤は二度とクイーンビーへ来ることはできないかもしれないとさえ思っていた。もしあの日のまま白岩カンパニーの買収騒ぎが起きなかったとしたら、今日だって幸村の目を盗んでクイーンビーへ来ることはほとんど不可能だったに違いない。幸村は、潤がクイーンビーへ来ることを許さない。客としてでさえ。
跡部は──きっと許すだろう。条件付きかもしれないが。なにせアルバイトのことだって笑って幸村に内緒にしてくれたくらいだ。

跡部は、許すだろう。それなのに、全く喜べない。

体の底からこみ上げてくるような重苦しさは、ため息に変わる前に喉に詰まった。潤はそれを飲み下すようにダイキリを口に含む。アルコールが溶かしてくれないだろうか、この重さを。
ふと、千石が静かになっていることに気が付いて隣を見れば目が合った。しかし彼は物思いに耽っているのかぼんやりとしている。

「千石さん?大丈夫ですか?」
「っ、ああ!ごめんごめん。そういえばさ、経済界では結構噂になってたみたいだったね、潤ちゃんのこと」
「えっ、私がですか?なぜ?」
「跡部くんと連れ立った姿がよく目撃されてるってさ。白岩カンパニーと跡部財閥が何か大規模な提携でもするんじゃないかっていうのが経済通の見立てなんだ。モイラ社の買収騒ぎが起きる以前から」

はっと息を飲みそうになって、こらえる。氷水を浴びせかけられたような気分だった。そんな噂が立っていたとは全く知らなかった。世間の人は、千石は、いったいどこまで知っているのだろう?

「あの、詳しく聞いても?私、自分が噂になってるなんて全然知らなくて」
「あれ、そうだったんだ。潤ちゃんがイサベルみたいだなって言っている人もいてね」
「イサベル?」
「スペイン王国樹立の話は知ってる?カステーリャ王国の王女イサベルとアラゴン王国の王子フェルナンドが結婚して、それを機に両国が併合してスペイン王国になった」
「ああ、高校の世界史で聞いたことがあります」
「そう、それ。まさにそれと同じで、跡部くんと潤ちゃんが頻繁に連れ立って行動しているのは結婚まで秒読み状態だからで、二人の結婚を機に白岩カンパニーと跡部財閥が一緒になるっていう推測が」

しまった、と思ったときには体が傾いでグラスをカウンターに叩きつけるように置いていた。ゴン、と鈍い音が響く。その音はあたりの喧噪にかき消されたが、千石にはしっかり聞こえてしまったようで彼は目を丸くした。

「すみません、アルコールが急に回ってしまって」

言い訳だとばれてしまうだろうか。
潤は笑みを浮かべたが狼狽を押さえるのに必死だった。白岩カンパニーが跡部財閥の子会社になるという話はまだ決定ではない。プレスリリースも出していないはずだ。ましてや跡部と結婚するという話だってそうだ。いや、内部的には既に決定しているといってもいいかもしれない、けれども他者に話せるほど確定した話ではなかったはずだ。それなのにもう噂になっているということは、どういうことだろう?ただの噂なのか、それとも誰かがわざとこの話を外部に流出させているのか?

──お嬢様らしくしてください。

お嬢様らしく、お嬢様らしく。そうだ、取り繕わねば。

「水飲むかい?」
「大丈夫です、ありがとうございます。……跡部先輩と一緒に歩けば目立つことはわかっていたんですが。ゴシップのネタにされることはあっても、経済界から注目されるほどだとは思いませんでした」
「だろうね。通っていうのは恐ろしいね、普通の人なら何とも思わないところから情報を拾って繋げていく。俺は潤ちゃんが跡部くんと結婚するとは思わないけど」
「なぜ?」
「幸村くんが許さないだろう、そんなこと」
「……、どうして」

ギリリと荒縄で締め付けられたかのように全身が痛む。千石は「うーん」と唸ると手元のグラスを見つめ、ぽつりと言った。

「俺たちが初めて会った日のこと覚えてる?あの日俺は幸村くんと再会した、大学生のとき以来だから六年ぶり?いや、もっとになるかな……とにかく、幸村くんは変わったなあと思ったんだ。昔は『わかりにくい』タイプなんかじゃなかったのに、あの日会ったときは、俺は幸村くんが何を考えているのか全く確信が持てなかった」

千石は考えがまとまらないのか、真顔でとつとつと糸を紡ぐように思いを語っている。千石は真面目な話をするときでもどこか余裕のある表情を浮かべ卒なく話すタイプだったから、今の千石の様子は潤をますます落ち着かない気分にさせた。

「あのときさ、幸村くんがあまりにも怖い顔をしているから恋人にちょっかいを出された男みたいだなあって思ってね。冗談で禁断の恋?だなんて茶化したけど、言った後で『あれ、これ強ち間違ってないかもしれないな』と思ったんだ。だから幸村くんは跡部くんに君を渡さないだろうってね。だけど幸村くんが本当のところ何故──」
「それは、ないですよ。それはないです」

思わずかぶせるようにして強く否定してしまう。
千石がグラスから目をあげてこちらを見た。千石のぼんやりした視線が潤の目をとらえる。

「どうしてそう言い切れるんだい?」
「千石さん、跡部先輩と私の結婚の噂、どう思います?」
「どうって、真実かどうかってこと?半信半疑ってとこだったけど。潤ちゃんの様子から見ると………もしかして、真実だったり?」
「はい。その、詳しい事情はまだ言えないのですけど。この前そういう話になって」

徐々にこもる力が強くなっていく千石の視線から逃れるように、今度は潤が自分のグラスを見つめた。グラスの外側についた結露で手が濡れるのが今日は不快に感じた。
千石はしばし絶句してから、乾いた声で言った。

「……ほんとに?」
「はい。幸村は──幸村は、跡部先輩とのこの縁談を、止めようとなんて全くしませんでしたよ。当然だと思います。良縁ですもん、白岩家にとっても私自身にとっても。跡部先輩は跡部財閥の御曹司で、有能で、優しくて、素敵な人です。それに幸村は白岩家の娘として私の面倒を見てくれていましたが、私のことは好きじゃないどころかむしろ嫌いだと思いますし」

自分から質問したくせに幸村に関する話が聞きたくなくて、千石に追い打ちをかけるように言葉を重ねる。言葉の一片一片が石のように重く体の内側に張り付いて、けれどもそれを止めることもできない。
と、千石は唐突に「あ」と目を見開いた。潤が口をつぐむと、千石はふっと息を吐いて肩の力を抜き、がりがりと頭をかきはじめた。

「そうか。M&Aの方じゃなくて幸村くんの方だったか。そりゃそうだよね」
「あの、いったい?」

困惑していると千石は顔をのぞきこんできた。

「潤ちゃん、恋、してるでしょ」

千石の目は、優しかった。


(20160816)

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千石の話し方がおかしい気がしてならない。
スペイン王国の話はかなりはしょっていて不正確ですのでご注意ください。

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