カモマイルの悪魔 | ナノ


突然の来訪者は予想外の人物だった。

「久しいな、潤。元気にしているか」

河西に呼ばれて慌てて応接室へ向かえば、そこでは柳蓮二が澄まし顔でソファに腰掛けていた。潤はあっけに取られて、応接室のドアノブに手をかけたまま立ちすくんだ。

「柳さん!お久しぶりです。あの、幸村は今会社にいるのですが」
「ああ、今日はお前に用があって来たから問題ない」
「私に?」
「そうだ。その反応からすると幸村からは何も聞いていないようだな?」
「……ええ」
「幸村が連絡を怠るとは珍しい。が、さすがのあいつも今は会社の仕事で手一杯なのだろう」

柳の予想はおそらく正しい。あれから白岩社長や幸村は例の敵対的買収の件で忙しいようで、彼らが家で過ごす時間は極端に少なくなっていた。
潤は沈みそうになる思考を止めて、柳の前のソファに腰を下ろした。

「柳さん、幸村に何か用事でも頼んだのですか?」
「幸村から頼まれたというのが正しいな。潤のアルバイトのことで」

潤は瞠目した。アルバイトの話はとっくに終わった、終わってしまったものだと思っていた。それに、終わらせた張本人である幸村がいったい何を頼んだのだろう。

「クイーンビーのことでまだ何かあるんですか」
「いや、そうではない」
「……アルバイトの件で私に忠告しろとでも幸村に言われたんですか」
「むしろ逆だ。潤、アルバイトをする気があるならうちの法人へ来い。事務作業は地味だが勉強にはなるだろう」
「事務のアルバイト!?それを幸村に頼まれたんですか?」

更なる予想外の展開に、思わず声が大きくなる。柳は全く動じずに鞄から紙を一枚取り出すと潤に差し出した。見れば、勤務条件や勤務地の情報が載っている。

「幸村はお前がアルバイトを辞めた後に、安全な場所でのアルバイトなら構わないと考えるようになったようでな。うちの監査法人であれば安全に働くことができ、その上何かが起きても俺が対処してやれる、だから潤に薦めてやれとな」

潤は言葉を失った。単に予想外だったからではない、話の不可解さになんと言えばいいのかわからなくなった。
勤務情報の紙を持ったまま固まっていると、柳は顎に手を当ててふむ、と息を付いた。

「確率を出すにはデータ不足だな」
「……確率?」
「いや、こっちの話だ。潤が戸惑っているのは、あの頑固な幸村がお前にアルバイトを許すつもりだったことが意外だったからか?」
「たぶん、そうです」
「それに加えて、わざわざアルバイト先の手配までするとは全くの思いもしなかった」
「はい」
「おまけに、突然なぜ幸村がアルバイトを許可する気になったのかもわからない」
「そこが一番気になります。柳さん、何か聞きましたか?」

幸村はクイーンビーを嫌っていたというよりも潤がアルバイトをすること自体に反対していたはずだ。少なくとも幸村の口振りからすると。
柳はすいっと長い足を組むと、手元に持っていたノートを開いてぱらぱらとめくり始めた。ただの大学ノートに見えるが、あれは日記かなにかなのだろうか。

「何も。俺もあの今の幸村が考え方を改めるとは思ってもいなくてな、理由を尋ねたのだが要領を得ない返事が返ってくるばかりだった」
「そうですか」
「ただ、もしかしたら……いや、確信はないからよそう」

困惑したまま柳を見ると、彼はパタンとノートを閉じて腕時計を確認した。

「時間があるなら今から会社に連れて行ってやるが、どうだ?この時間ならまだ社員は残っている。アルバイトをするもしないも、会社の雰囲気が具体的な仕事内容がわかった方が決めやすいだろう」
「今から?私は大丈夫ですが、お邪魔になりませんか」
「今は繁忙期でもない。それに最近事業を拡大した影響で事務方が右往左往していてな、アルバイト候補の見学となれば歓迎すると言っていた」

もうそこまで話をつけていてくれるのか。
潤は少しためらった。モイラ社や結婚話が我が身に迫っている今、のんきにアルバイトなどしている暇はないような気分になっている。しかしその実、それらの大問題についてできることなど何もない。どうせ何もできないならば、何をしたって同じことではないか?

「お願いしてもいいですか?柳さん」
「わかった。今日は俺の車で行こう。ああ、服装はそのままでいい。少しでもアルバイトをする気があるなら印鑑は持ってこい。契約するかもしれないからな」

柳は一つ頷いて、ゆっくりと立ち上がった。


***


時計を見れば、ここへ来てからちょうど一時間経っていた。監査法人のオフィスから出たところでぐうっと伸びをすると、隣の柳はふっと笑みを浮かべた。

「ずいぶん可愛がられていたな。疲れただろう」
「……あれほど大勢に話しかけられたのも久しぶりで。疲れましたが、嬉しかったです」

潤は柳に微笑み返した。いったい潤のアルバイトの話がどのように伝わっていたのか詳細はわからないが、監査法人へ着くと事務員の人々に諸手をあげて歓迎された。年輩の職員が多かったが皆溌剌としていて優しく、風通しの良さがありありと分かるような雰囲気の職場だった。ここでなら働いてみたいと、そう自然と思えるような。
しかしどうも、いざアルバイトとなると二の足を踏んでしまい、潤は結局アルバイトをしたいともしたくないとも言わないまま愛想笑いで保留にしてしまった。
二人で柳の車に乗り込むと、柳はエンジンをかけずに潤に向き直った。

「さて、潤。質問がある。お前はうちの職場を気に入っただろう?」
「はい」
「では、アルバイトをしたいと即決できなかった理由はなんだ。クイーンビーの件か?」

潤は言葉に詰まった。もやもやと曖昧だった気持ちがぎゅっと凝縮させられたかのようで、要するに、図星だった。自分でもよくわかっていなかった思いが鮮明になってゆく。

「ほう、やはりな。俺が仁王や幸村から聞いていた話をも考慮すると、潤はなかなか義理堅い性格なはずだ。そんなおまえが唐突にクイーンビーを辞めてしまったことが心残りなんだろう?」
「……すごい。たぶん、そうなんだと思います」

柳の冷静な声が絡まった糸を解きほぐしていく。マスターや亜久津への感謝と申し訳なさ、幸村への怒りや悲しみが入り乱れて思いを整理できなくなっていたが、柳の指摘は間違いなく一つの真実なのだろう。

「アルバイト禁止されたからといってろくに挨拶もできずに辞めちゃったのに、またすぐに別のところでアルバイトするだなんて、なんだか申し訳なくて」
「亜久津もあのマスターも気にしないだろう。しかし一理ある。ふむ、そうだな……辞めてしまったことはどうしようもない、が、潤。今から挨拶に行くか?」
「行くかって、クイーンビーに?」

驚いて声を上げると、柳は少しいたずらっぽい顔でハンドルに手を置いた。

「幸村は当分忙しい上に、まさか俺がお前をクイーンビーに連れて行くとは思うまいよ。まあ、あいつも人非人ではない、挨拶くらいかまわないだろう」
「いいんですか?そこまで」
「行けばお前は義理が果たせる。お前が義理を果たせば俺たちはお前を雇える。ウィンーウィンだ」

潤はゆっくりと深呼吸した。
──やはり、どうあっても自分は恵まれているのだ。たとえ意にそわないことがあったとしても、そんなことはわずかなことに違いない。
ぱっと顔をあげて微笑むと、柳もまた柔らかい笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます、お願いします!あの、クイーンビーに行く前にデパートに寄ってもらえませんか?」
「かまわない。菓子折りでも買うか」
「はい。マスターと亜久津さんに何か買っていこうと思いまして」

エンジンの唸る音がして、ゆっくりと柳のセダンは進み始めた。
夏もとっくに過ぎて日は短くなった。クイーンビーでアルバイトをしていたころはまだ仄かに明るさを残していたこの時間帯は、今はすっかり夜の顔をしている。オフィス街の窓から四角く漏れる蛍光灯の明かりが夜の闇に規則正しく浮き上がる。

「俺のデータによれば、亜久津の好きなものは」
「モンブランですよね?」
「知っていたか」
「ええ。そもそもクイーンビーに行くようになる前にケーキ屋さんで亜久津さんと出会いまして」
「なるほど。亜久津との出会いが先だったのか。気になるな、よければ話してくれ。もちろん幸村には内緒にする」
「はい、ぜひ」

潤はクスッと笑い声をこぼした。バーで会ったときは幸村お抱えの悪の参謀のように見えていたが、実際は彼なりに優しいところがある。潤の脳裏にはアルバイトを辞めた日の仁王の姿が浮かんだ。仁王といい柳といい、幸村を助けながらも決して従属しない彼らのあり方が、強権的な幸村と彼らの対等な人間関係をよく表していた。






セダンは大通りの側にある駐車場に静かに滑り込んで動きを止めた。柳はシートベルトを外すと椅子をやや下げて背もたれを倒し気味にした。

「積もる話もあるだろう、俺はここで待っていよう」
「いいんですか?お気遣いありがとうございます」
「読まなければいけない資料があるからな、気にせず楽しんで来い。しかしあまり遅くなると使用人たちも心配するだろう。タイムリミットは今からきっかり一時間だ、シンデレラ。それを過ぎたら迎えに行く」
「わかりました。……重ね重ねのご厚意、傷み入ります」

潤は柳に頭を下げて、車を出た。菓子折りを抱えて普通に歩いていたつもりだったのが、クイーンビーが近づくにつれて気がはやり、どんどん歩くスピードが速くなっていく。ほぼ走っているのと変わらない状態になったころに潤は目的地へ到着した。
久しぶりの元職場に少々緊張しながらドアをあける。
中へ入ってカウンターに近寄れば、潤を見るなりマスターは嬉しそうに破顔し、一方の亜久津は目を剥いた。

「潤!よく来たな!さっそく使用人の目を盗んでくるなんて大胆じゃねえか」
「あはは、今日は協力者がいたもので」
「なにやってんだ潤。帰れ」
「この前は急にやめちゃったんで改めて挨拶しにきたんですよ、亜久津さん」
「いらねえ」
「モンブランも持ってきました」
「……よこせ」

モンブランの話となるととたんに素直すぎる。潤は吹き出しそうになるのを必死でこらえて亜久津にケーキと菓子折りの箱を渡した。

「おーおー、丁寧に悪いな。今日は飲んでくか?一杯ごちそうすんぜ」
「ちょっとだけ、いただきます」
「ダイキリはどうだ?良いラムが入った」
「お願いします」

カウンターのスツールに腰をかけて、店内を見回す。そこには潤がずっと見てきた、普段通りのクイーンビーの光景があった。明滅する照明。踊る人たち。ご機嫌なハイヒール、魅了するカクテル、高揚させる音楽、甘くも苦くもなる会話。
──ここには自由がある。私が居ても居なくても。
その事実が嬉しい、でも同時に寂しくもある。ぎゅっと心が痛んだ。潤が自由でいられる時間はどんどん短くなっていく。

「あれ、潤ちゃん!?」

見知った声に振り向けば、そこにはこれまた久しぶりの千石が目を丸くして立っていた。


(20160719)

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