カモマイルの悪魔 | ナノ


鈴木は息を飲んだ。そう、きたか。
モイラ社に買収されるくらいであれば跡部に身売りをした方がはるかにましであることは誰の目にも明らかだ。跡部財閥の若きリーダーはそこを私事にも利用するつもりらしい。
静けさが肌をピリピリとひりつかせる中、鈴木はこっそり目だけで辺りを伺った。白岩社長は薄笑いを浮かべる跡部を見つめたまま動かない。幸村はますます眉間の皺を深くしているが、こちらもまた何も言わない。
遠くで、ヘリが飛んでいく音が微かに聞こえた。誰も微動だにしなかった。
いったいどのくらい時間が経ったのだろう。十分か、二十分か。あるいはほんの数十秒だったのかもしれない。しばらくの沈黙ののち、おもむろに白岩社長が口を開いた。

「わかった、言う通りにしよう」

静かな、穏やかささえ感じさせるような声だった。鈴木ははっとして白岩社長を見つめた。白岩社長の家族思いは社内では有名だった。かつて役員をつとめていた奥方とも仲は良く、娘二人を大変可愛がっていた。だが彼はこの危機において会社の命運と愛娘の人生を秤にかけ、今、跡部に、跡部の目の前で、娘の人生を差し出したのだ。
白岩社長の言葉を聞いたとたん跡部はゆっくりと目を見開いて口の端を上げた。

「ククッ、ハッハッハッハ!さすが白岩社長だ。その冷静な判断、ますます気に入った」
「あなたが相手であればあの子は幸せになれるでしょうから」
「もちろんだ。悪いようにはしねえ。なあに心配するな。この話は俺から潤に伝える」
「お任せします」
「おい、幸村。テメエも文句はねえな?」

跡部は満面の笑みを浮かべたまま、芝居がかった仕草で幸村の方を振り向いた。幸村は睨むように跡部を見て、ゆっくりと一言低い声で言った。

「……白岩社長の仰せの通りに」


***


気がついたのは偶然だった。自室に戻る途中で二階の廊下の窓からふと外を見ると、よく知っている真珠色のリムジンがちょうど門に横付けされたところだった。すぐにその中から跡部と幸村が降りてきた。
仲の悪い二人が一緒に白岩家へ来るなどどうしたのだろう、と最初はただ疑問に思っただけだった。だが玄関へ向かって歩いてくる二人の表情を見た瞬間、潤は理由もなくぞっとして身を震わせた。理由は自分でもわからない、跡部はただ薄い笑みを浮かべ幸村は無表情で、ただそれだけだった。けれども悪寒が止まらなくて全身の毛が逆立った。体が動かない。
すぐに、玄関の開く音がして階下で河西と跡部が何かを話す声が聞こえた。それから。トントンと階段を上がってきた河西に告げられる。

「お嬢様、跡部様がいらしています」
「わかったわ」

冷たい汗が吹き出た。河西に続いて階段を下りる間も嫌な予感がとまらない。そして応接室に入り微笑む跡部を見た瞬間、嫌な予感はわけもなく確信に変わった。幸村は無表情でドアの側に立っていた。
潤は跡部の対面にあるソファに腰掛けて必死でいつものように笑顔を浮かべた。

「こんにちは、跡部先輩。お久しぶりですね」
「ああ、寂しかったか?」
「ふふ。今日はお仕事は大丈夫なんですか」
「ああ。たった今、大きな『商談』がまとまったばかりでな」

強調されたその言葉に、ますます胸が苦しくなる。おそらく白岩カンパニーがらみの話だ。一体跡部は何の話をしにきたのだろう。

「それは良かったですね。おめでとうございます」
「ああ、ようやく念願が叶った。潤、俺と結婚しろ」
「……えっ!?」

心臓が止まりそうになった。思わず口に手を当てる。跡部は目を細めて満足そうにこちらを見ている。頭が真っ白になる。一体、今、なんと?

「あ、の、跡部先輩」
「いいかげん呼び方も改めろ。景吾さんでいい。お前も跡部姓になるんだぜ」

顔から血の気が引いていくのがわかった。
跡部のことは嫌いじゃない。でも。そんな思いがじわじわとこみ上げてきて、潤はとっさに幸村を見た。だが幸村は無表情のまま、いつもとは違ってこちらを見もしていない。ただ立って窓の外を眺めている。ぎゅっと心臓を捕まれたような痛みが走った。
潤は必死で言葉をつないだ。

「あの、一体、なんで、突然」
「突然じゃねえだろ、こんだけデートも重ねてきた。お前への好意も伝えてきたつもりだぜ?」
「それは、その」
「さっきの『商談』はお前の親父との話だ。モイラ社の敵対的買収の件は知ってるな?」
「はい」
「跡部財閥がモイラ社に先んじて白岩カンパニーを友好的に買収することになった」
「ホワイトナイトですか」
「そうだ、よく知ってるじゃねえか」

嬉しそうな跡部に誉められても、全くポジティブな気分にはならなかった。会社の状況を知ろうと敵対的買収について調べた際に、たまたま知っただけの些細な知識だ。今はそれよりももっと気がかりな問題がある。

「条件といっちゃあなんだが、その見返りに、白岩社長から俺と潤との結婚の許可を得てきた」
「そこまで……」

白岩家に跡部財閥の一部になれということなんだろうか。婚姻関係を結ぶとはつまりそういうことだ。
──どうしよう、どう言おう。
必死で言い逃れをしようとしている自分に気がついて、潤は頭の中でもう一人の自分が嘲り笑っているように思えた。
──幸村にあんなに威勢の良い啖呵をきっておきながら、いざとなったらプロポーズを受け入れる余裕だってないじゃない。どうせ、結婚しなくたって何にもできないくせに。これだけいい相手が登場しても、まだ高飛車でいるつもり?

「跡部先輩は」
「『景吾さん』だ」
「でも」
「そう呼べ」
「景吾さん、は」

何を言いたいわけでもない、でもなんとかしなければいけないという思いでいっぱいだった。それなのに焦りで何も考えられない。だからだろう、頭で考えたわけではない、むしろ無意識のうちに心の底で思っていたことがとっさに口をついて出た。あの跡部が時折見せる、寂しそうな顔。どこか遠くを見ているような目。それが自分に向けられたものだとはどうしても思えなかった。

「景吾さんは、他に好きな人がいるんじゃないんですか」

次の瞬間、跡部の顔から表情が抜け落ちた。いつも余裕の笑みを浮かべていた彼がこんな顔をするのは初めてだった。
潤は跡部の能面のような顔にひるんだ。触れてはいけないことだったのかもしれない。跡部は目だけをこちらに向けたまま何も言わない。潤は慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい、私、出過ぎたことを言ってしまいました」
「……いや、いい」

跡部は顔に手を当てると、ほんの少しの苦笑を唇に浮かべた。そして手が離れた後の跡部はいつもの表情に戻っていてその目はギラギラと輝いていた。

「潤、悪いな」
「え」
「だが、俺はもう後には引かねえ。俺は必要なもんは全部手に入れてやると誓った。たとえ他のモノがどうなろうとも」
「跡部先輩」
「俺様にはお前が必要だ。わかってくれ」
「必要なのは白岩カンパニーでしょう?」
「いや、違う。お前だ。だから俺はお前が欲しい」

多分に熱を含んだ目に見つめられて、潤は二の句が告げなくなった。ただ、目の前に立ちはだかる圧倒的な現実を直視することで精一杯だった。
跡部は目を細めて、いやに優しい声で諭すように言う。

「潤はまだ若い、いきなり結婚しろと言われて驚くのも当然だ。だから時間をやる。式について要望があればなんでも言え」

しき、シキ、式って、何の?わかりたくないのに、聞かなくともわかってしまう。
潤は曖昧な返事を返して跡部から目をそらした。何も聞きたくなかった。


***


「……様。お嬢様?」
「えっ……ああ」

目の前に表情の読めない幸村の顔がある。応接室の柱時計を見ればもう4時半を回っていた。跡部と会ったの昼過ぎだというのに呆然としている間にこんなにも時間が経ってしまった。

「具合が悪いのですか」

相手を労るその優しい台詞にはいつものように冷たい響きが含まれている。でもそれは、今はどうでも良かった。幸村はすっかり元通りで小言を続ける。潤はぼんやりと座ったままそれを聞いていた。
──そうだ、跡部と結婚すれば幸村からうるさく言われることもなくなるのか。

「体調が悪いなら早く自室へお戻りください、そうでないなら──……なっ!」
「幸村!ねえ、ゆきむら!!」

話を遮るように勢いよく立ち上がり幸村のスーツの上着をつかんだ。そのまま押すようにして幸村に詰め寄る。幸村は目を見開いて一瞬驚きを露わにした。

「なんです、突然」
「突然もなにも、今どうなってるの?うちの会社は!調べても何も情報出てこないし、モイラ社に買収されたら大問題だってことくらいはわかってる、でもそれ以外は何がどうなってるの?誰かに聞こうにもお父さんは帰ってこないしお母さんからもメールの返事もないし、河西も知らないっていうし」
「今はまだ何も──」
「教えて!重要なことを私に話せないのはいい、でも重要な情報じゃなくても、さっきのあの跡部先輩の、あの、あれ!聞いてたでしょ?どうなってるの?ねえ!」

まともな日本語になっていない、まるで駄々をこねる子供のようだ、幸村に文句を言われそうだと思いながらも口は止まらなかった。ここは引けない。ただ黙って跡部の言葉を受け入れるなんてことは到底できない。
潤にスーツを掴まれてされるがままになっている幸村は眉間に皺を寄せることも文句を言うこともなかった。彼は静かに潤を見る。潤が大きく映るその目はただ静かで、冷笑も怒りも含まれていなかった。

「どうなっているも何も、跡部の言ったとおりです」
「それじゃわからない!跡部財閥がホワイトナイトになるというのは確定なの」
「おそらく」
「じゃあ、条件として私と跡部先輩との結婚って、どういうこと?なんでそうなったの」
「それも跡部の言った通りでしかありません」
「結婚の話、跡部先輩が言い出したの?」
「ええ」
「なんて言ってた?」
「ホワイトナイトになってもいいが条件がある、俺と潤との結婚だ、と端的に言っていました」
「それだけ?他には?」
「何も」

潤は幸村のスーツを強く握った。わけがわからない。いや、確かに跡部の言う通り潤と跡部は「外から見れば」親密な関係だ。プロポーズされたところでおかしくはない。けれども、そんな理由で納得などできるはずもなかった。跡部の真意が読めない。あのどこを見ているかわからない目、しかし時折見せる潤を切望するかのような目。

「……お父さんは、なんて答えたの」
「わかった、と」

固く握っている手が震える。
潤は、白岩社長に生き方を勝手に決められたことは今まで一度もなかった。小学生のときに氷帝学園中等部への進学を薦めたのは白岩社長だが強制ではなく、受験をすると決めたのは潤の意志だった。それから今に至るまで、進路についても、習い事についても、もちろん意見を言われたり反対されたりすることはあったが、感情的に否定されたり潤の意見も聞かずに一方的に決められたことなど一度もなかった。
だが、ここへ来て白岩社長は潤が跡部へ嫁ぐことを要求している。しかももうそれはほぼ受け入れざるを得ない状況になっている。
会社がだめになれば即ち白岩家もだめになる。跡部は潤を大切にするだろう。潤が跡部に嫁ぐのは白岩カンパニーにとっても白岩家にとっても最善の策だった。潤にとってもまた、最善の策であるはずだった。
それなのに。

「……幸村は、跡部先輩との結婚、どう思う?」

幸村はふっと目尻を和ませるとスーツを掴む潤の両手を取った。その優しい手つきに驚くと同時に、久しぶりに感じた幸村の体温に胸が突かれて潤は泣きそうになった。

「さあ、もう部屋へお戻りください」
「っ、幸村!」
「今は跡部の言葉に驚いていらっしゃるだけです」

幸村はそのまま抱えるようにして潤を二階へ誘導する。
側で感じる幸村の熱が、存在が、その声が、心を繊細に震わせる。なんで、どうして、なぜ、この気持ちは。
むりやり自室に入れられるような格好になって、潤は扉を閉めようとしている幸村に叫ぶように問いかけた。

「ねえ、幸村ってば!答えてよ!?私は──」
「少しお休みになればじきに気分も落ち着くでしょう。よい夢を」

幸村の声は限りなく優しかった。昔のように。
その無慈悲な優しさを残して、扉はバタンと潤を拒絶するように閉まった。
──なんで、こんな時に限ってこんなに優しくするの。最後まで最低なままでいてくれればよかったのに。
呆然と立ち尽くしていた潤は、いつの間にか自分が泣いていることに気がついた。良い夢なんて見られるはずがない。あの時から悪夢は終わらない。
潤はしゃがみ込んで嗚咽を漏らした。
幸村に嫌われたのが悲しかった、愛していると嘘をつかれるのが辛かった。メイドをもて遊ぶ幸村が嫌いで、メイドが辞めていくのが嫌で、でもいざ幸村がメイドの綾希と相思相愛になってみればその事実が嫌だった。幸村に嫌われているのだと思った、幸村から離れたくて仕方がなかった、自分はいつか誰かと結婚するのだとも思っていた、それなのにいざその思いが現実となると幸村と離れるのも誰かと結婚するのも嫌だった。その理由なんて簡単なものだ。
ただ、幸村が好きだからだったのに。いつの間にこうなっていたんだろう。



もう、すべてが遅い。


(20160623)

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